火炎少女ヒロコ


第一話  『登場』

その一

 



 高瀬ヒロコ、高校二年生。控え目な女の子で、超能力者である。
 超能力と言っても、その種類にはいろいろある。テレキネシス(念力)、テレポート(瞬間移動)、マトリクス(変身)などなど。彼女はちょっと珍しいタイプの能力を持つ。それは、人間を燃やす、という能力である。彼女と対面する人物が、突如、全身から紅蓮の炎を上げて、燃えるのだ────マッチもライターもガソリンも使わず、意志の力だけで、彼女はそれをすることができた。
 その能力を彼女が最初に発揮したのは、小学五年生のときだった。
 ヒロコはそのころから今と変わらず、肩で切り揃えた黒髪に紺色のカチューシャをつけていた。その姿が地味ながら整った顔立ちの彼女によく似合った。人に何か言われた時、形の良いあごを引いて、俯き加減に考え込むのが癖であった。漫画を描くのが好きで、洋楽をよく聴いた。そしてひどく寡黙であった。さらに言えば、小学三年生のころから、クラスでいじめに遭っていた。靴を隠されたり、ノートに落書きされたり、陰口をたたかれたり。ときには鞄の中に泥が入っていたり、椅子や机に洗剤を塗られたりした。ヒロコは我慢強く、決して泣かない子だったので、彼女を泣かそうとしていじめはどんどんエスカレートしていった。いじめの中心にいたのは、肉類とスナックばかりを食べて育ったような体格をした、男の子のサトシだった。よくあるタイプだが、一日一回、誰かをとことんまでからかわないと気が済まない、という性向を持つ人間がいる。彼はまさにそれであった。相手が心から嫌がるのを見て、発作が治まるように、ようやく心落ち着くのだ。ややこしいことに、内心では、サトシはヒロコのことが好きだった。それもひどく好きだった。しかしこの年齢の男子によくあることだが、愛情の反動として、ちょっかいを出し、いじめた。ヒロコは芯が強い女の子であった。容易に感情を表には出さなかった。彼女がかたくなに押し黙り、いじめっ子の望むような反応────泣いたり、怖がったり、逃げ回ったり────をいっこうに見せないので、彼は、だんだん憎さが増してきた。「ちょっとあいつ最近生意気だ」というわけである。そこに彼の取り巻きである男子が加わり、さらに、ヒロコの顔立ちにひそかに嫉妬していた女子も加わって、いつしかクラス中のいじめに発展していった。そうなると中心にいるサトシも引っ込みがつかなくなり、次々と新手のいじめを考えては実行に移すようになった。
 ある日、彼は決定的ないじめを思いつく。
 ヒロコの父親も母親も外で忙しく働き、家を空けることが多かったので、ヒロコは幼少期から近所に住む祖父母の家に預けられることが多かった。当然の成り行きとして、両親よりも祖父母とより親密になった。父と母に心閉ざすことがあっても、丸眼鏡の「おじいちゃん」とふくよかな「おばあちゃん」には心開いた。彼らは小さな饅頭屋を営んでおり、日に数人、近所の老人たちが杖を突いて買いに寄るような細々とした商売を続けていた。
 その祖父母の店の饅頭を、その日、サトシは手にして、校門を出た坂道の樹の下に立っていた。これから実行しようとする企みに興奮を抑えきれない面持ちで。自分以上に興奮してはしゃいでいる、二人の級友(と言うよりは家来)のキーチと松やんの二人を引き連れて。
 ねこじゃらしの、道端で風に揺れる季節であった。
 サトシは下校しようとするヒロコの姿を認めると、小さな目をぎらつかせ、意地悪そうににやりと笑った。お手玉よろしく、小さな蕎麦饅頭を片手で放りあげては受け止めてみせる。拳で鼻を擦り、また放り、受け止める。目ではヒロコを射すくめながら、傍らの二人に話しかけた。
 「おい、なあ、饅頭食おうや」
 「食おう食おう」二人はけらけら笑いながら同調した。
 「さかいやの饅頭だってよ」
 「さかいや? 初めてじゃん、食べるの」
 「ふつう絶対、買わねえもんな」
 「買わねえ、買わねえ」
 「なんか臭そうだし」
 「臭そう臭そう」
 サトシはセロハンの袋をはがして饅頭を取り出し、二つに割ってにおいを嗅いだ。
 「わ、しょんべんくせ!」
 「うそ? かがせて!・・・ほんとだ! ほんとにしょんべん臭せー!」
 三人は交互ににおいを嗅いでは大げさに鼻をつまんで笑い転げた。時折ヒロコの方をちらちら見ながら、彼女の反応をうかがっている。ヒロコは、身を固くした。全身がやけぼっくいで焙られたように熱くなるのを感じた。怒り。興奮させられた蝮のような怒り。おじいちゃんとおばあちゃんが、毎日毎日、丹精こめて作っている饅頭である。幼い頃から、数え切れないほど食べてきた。それを、それをしょんべん臭いだと?────
 サトシはもう一度自分で饅頭を嗅ぎ、腐乱物でも嗅いだように呻き声を上げると、饅頭を地面に叩きつけた。
 「こんなしょんべん臭い饅頭、食えるか!」
 彼の青いスニーカーが、落ちた饅頭を地面に摺り込むように踏みつぶした。
 ヒロコの中で、何かが限度を超えた。
 今、自分がどれだけ怒り狂っているか自覚できないほどに、ヒロコは逆上していた。彼女は満身の力をこめて彼を睨んだ。
 その瞬間、サトシが燃え上がった。
 あっという間の出来事であった。身長152センチの全身が激しく燃え上がる炎に包まれた。まるで石油を被り、火を点けられたかのようであった。「ぐえっ」と、言葉にならない言葉を発した。そばにいた仲間二人は、たまげて五メートル近くも飛びのいた。甲高い悲鳴を上げたのはキーチである。松やんは震えて腰が砕けている。驚いたのはヒロコも同じであった。何が起こったのかまったく理解できなかった。まさか自分が燃やしたということなど思いも至らなかった。急に、サトシが燃え始めたのだ。勝手に、一人で。
 炎を上げる肉塊はゆっくりと坂道に倒れ込んだ。
 「水!」混乱する頭でヒロコは叫んだ。「水よ!」
 キーチと松やんの二人は、恐怖で地面にへたり込んで動けない。ヒロコは自分で昇降口に向かって走り出した。途中で片方の靴が脱げた。靴下越しにアスファルトの固さを感じた。幸い、昇降口のすぐ脇に、花壇に水をやるためのホースが外の蛇口につながっていたので、ヒロコは蛇口を全開し、ホースの口を掴むとまっしぐらに駆け戻った。
 彼女の両手に握り締めたホースからほとばしる水が、サトシを包む炎に浴びせられた。炎はすぐに弱くなり、二分もしないうちに、完全に消えた。あとに、黒焦げになり体を硬直させたサトシが、水を滴らせて残った。
 全てが信じられない光景であった。
 炎が上がるのを発見したのは他にも何人かいたらしく、すぐに現場は大勢の生徒と教師に囲まれた。救急車もしばらくして到着した。サトシは病院で手当てを受け、なんとか一命を取り留めた。全治四カ月の全身やけどとの診断が下った。
 警察の現場検証。新聞や雑誌などの取材。明滅するストロボ。凶器のように突き出されるマイク。全国ネットのテレビ局も数日間は、不思議なニュースとして取り上げた。しかし、それで沙汰止みになった。原因はわからずじまいだった。ヒロコが燃やした、とは、もちろん誰も立証できなかった。そう公然と口にする者さえいなかった。ただ、キーチと松やんは、ヒロコがしたものと信じて疑わなかった。そういう強烈なオーラを、あのときのヒロコから感じたのだ。二人ともそれを他言することを避けた。全身に包帯を巻いて退院したサトシに至ると、別人格のように大人しくなり、その話に触れることを極度に嫌がった。みな、ヒロコが怖かったのだ。再び同じやり方で報復されることに怯えた。彼らはヒロコを心から畏怖した。
 それでも、ひそひそと、ヒロコが超自然的な力を発揮して燃やしたのではないか、という噂は広まった。そうでなければ、急にサトシが燃え上がった説明がつかないのだ。ヒロコをいじめる者はだれもいなくなった。同時に、ヒロコに近づく者の数もさらに減った。比較的親しい口をきいてくれていた親友のマユミすら、ヒロコに語りかける言葉がぎこちなくなった。みんな、心のどこかでは彼女を恐れていた。
 しかし、誰もが、そうやってヒロコを疑う端から、まさかそんな漫画みたいなことが、と思い直すのだ。激しくかぶりを振って、理性を取り戻そうとする。常識的に考えれば、あり得ない。どう考えても、あり得ない。馬鹿馬鹿しい。誰よりもヒロコ自身が、自分にそう言い聞かせた。
 <ひどい。ほんとひどい噂だわ。私が? 私に人を燃やす力なんて、あるわけないじゃん。そんなこと誰だって出来るわけないじゃん。みんなそうやって、言いがかりをつけて、やっぱり私をいじめたいんだ。何もかも、私のせいにしたいんだ。>
 あのとき。サトシの燃え上がるあの瞬間、「こんなやつ、燃えて欲しい」と強烈に願ったことは、当時のあまりのショックに、彼女の記憶から消し去られていた。 

 次に彼女が人を燃やしたのは、中学三年生のときである。
 小学校を卒業すると、彼女は知り合いが誰もいない遠くの中学校に進学した。学校を選んだのは父親だった。髪形も変えた。膨らみをもたせ、遠目には別人のように見せたが、カチューシャは付け続けた。そのような髪形にするよう指示したのも父親だった。証券会社で働く、有能で、冷淡な父。彼は出張先からでもいろいろ細かい指示を送ってきた。母親は母親で、女性が作る会社専門のコンサルタントの仕事をしていて、始終家を留守にした。まれにヒロコの通学の送り迎えをしてくれることもあったが、たいていはバスで、ときにはタクシーで娘を通学させた。
 バス停までは学校から歩いて十分かかった。吹奏楽部でオーボエを吹いていたので、ヒロコは練習で遅くなると、日が落ちて人けのない裏通りを通って停留所まで歩かなければならなかった。
 三年生の最後のコンクールを一週間後に控えた九月中旬のその日、学校を出たのは夜の八時であった。もう半月もそんなことが続いていた。
 森でふくろうが鳴く。
 薄暗がりの中を、ヒロコは一人で早歩きに歩いた。この道を一緒に帰ってくれる友達はいない。小学生の時の事件以来、もともと引っ込み思案の彼女はさらに人を避けるようになっていた。
 車一台通れるだけの道の片方には水路があり、もう片方は小高い神社の斜面であった。ふくろうの声に混じって、じりじりじりと蝉の鳴き声も聞こえる。不快な暑さが、宵闇の隅々まで浸透していた。
 ヒロコは落ち込んでいた。
 今回、コンクールの自由曲はアニメソングであり、オーボエにはソロのパートがある。彼女がそれを受け持つことに決まったのはよいが、練習のたびに、顧問の吉田先生に注意されっぱなしであった。「角の立った音が出ていない」のだ。「何度言えばわかるんだ? 角を立てろ高瀬」。吉田先生はタクトで譜面台を叩き、唾を飛ばして喚いた。「高瀬、お前は普段から控え目過ぎるから、ソロで出す音まで控え目なんだ。これじゃ観客に聞こえないだろう。何度言えばわかるんだ? お前のとこだけ曲調が暗くなってしまうんだよ。これじゃ、ソロじゃないよ。ああ、悪いが、ソロでやる意味がまったくない」。
 彼女は傷ついていた。中学三年間をかけてようやく取り戻しつつある自尊心が、容易に崩れ去るのを感じた。部活を辞めようか、とさえ思った。彼女は、誰にも傷つけられたくなかった。誰も傷つけたくなかった。そのためには、世界となるべく交渉を持たないこと。しかし、自分の殻に閉じこもることが、何より自分を傷つけていることに、彼女は薄々気づいていた。
 彼女は歩きながら溜め息をついた。
 ふくろうが鳴きやんだ。
 神社側の斜面に沿う道の脇に、RV車が一台停まっていた。夜目に色は判別しない。おそらく、時々この辺りで見かける車である。その運転席のドアが不意に開くと、見知らぬ男が降り立った。熱帯夜なのに、黒いジャンパーを羽織っている。ジャンパーの下はTシャツ。脚にぴったりしたデニムに黒いロングブーツ。そして、それらがまったく似合わない、水膨れしたような醜い顔。狂人の形相である。渇望に見開いた眼。唾液の湧いた口。彼はヒロコの行く手を遮るように近づき、ジャンパーのポケットから、鈍く光るアーミーナイフを取り出した。
 ヒロコは恐怖に立ちすくんだ。何よりも、体臭の漂ってきそうな男の汗だくの顔が怖かった。
 男はナイフを突きつけたまま、さらに顔を彼女に近づけた。彼の息が吹きかかる。骨太の手が、彼女の肩を鷲掴みにした。ねっとりと汗ばんだ手のひら。
 「刺されたくなかったら言うことを聞け」
 ナイフの先がブラウスの上から腹に当たり、彼女はひっ、と小さく叫んだ。
 「いつも帰るのを見てたんだよ。いつも、こっそり見てたんだ。もう、もう我慢できない」
 そう言うと男はヒロコの肩を掴んだまま、車に引き摺り込もうとした。ヒロコはパニックになった。脚ががくがくしたが、必死で力を振り絞って身をかがめ、男の手を振り解いた。
 「殺されたいのか」
 男が鈍く光る切っ先を見せて再び迫ってくる瞬間、ヒロコはこの男が燃え上がることを強く願った。
 男は炎上した。四年前のサトシのように。それは強烈な火柱だった。宵闇の神社の木立と、窪みのある色褪せたアスファルトが、一度に明るく照らし出された。
 ヒロコはよろめいた。悪夢を見ているかのようであった。熱い。炎に照らされるだけで焼けるように熱い。不気味な音。耐えがたい異臭。
 今度こそ、彼女ははっきりと自覚した。激しく混乱する頭の中でも、しんとして冷静な部分があった。彼女はわかったのだ。これは、自分が燃やしたのだ、と。自分は、そんなことができる人間なんだ、と。
 ハッと我に返ると、彼女は踵を返し、その場から駆け足で逃げた。少しでも遠くに離れたかった。全身から汗が噴き出た。誰かに見つかりたくない。明らかに、このままだと自分は殺人者だ。それも、極めて奇怪な能力を持った殺人鬼。捕まれば、人間扱いすらしてもらえないに違いない。マスコミに騒ぎたてられ、テレビの見世物にされ、科学者たちのモルモットにされ・・・・目茶苦茶にされて・・・・そんなこと、とても耐えられない。
 心臓が高鳴るほど走って、彼女はバス停まで辿り着いた。そこでは、六十代の婦人が一人でバスを待っていた。
 急速に自責の念が募った。人が焼け死ぬのを見過ごして逃げてきたのだ。背中を冷たい汗が伝った。ヒロコは息を切らしながら、その婦人に訴えかけた。
 「なんか、あの、向こうの方で、火が見えます。何かが燃えてます」
 「燃えてるって、何が?」婦人は驚いた顔で聞き返した。「まあ! 確かにそうね、暗くてよく見えないけど、何だかあっちの方で煙が上がってる感じね」
 「救急車を呼んで下さい」
 「え? 誰か人がいるの? 人が燃えてるの?」
 「いえ、あの、わかりません。あの、警察を呼んで下さい。いや、消防とか」
 言いながら、自分を殴りたくなった。焦りと混乱とで、何をしゃべっていいのか、何をしゃべっていけないのか、まったく判断がつかなかった。そんな事情をつゆ知らない婦人は、「そうね、山火事にならないうちに電話しなくちゃ」と呟きながらバッグから慌てて携帯電話を取り出した。「とりあえずまず警察にかけるわね。ええと、ええっと・・・消防署って、何番だったっけ?」彼女は興奮して震える手で番号を押した。
 ヒロコ自身も携帯電話は持っていたのだ。しかし自分でかけるのは、どうしても躊躇した。それでは第一通報者として、事件に大きく関わることになってしまう。できれば通りすがりの、いや通りすがりですらない、何も知らない一市民として、この事件から姿を消したかった。もちろん、そんな望みは叶えられるはずもなかった。警察と消防車と救急車が到着し、すでに黒焦げになった遺体の検分が済み、時刻が翌日を刻んでも、彼女は解放してもらえなかった。警察は彼女に詳しい事情説明を求めた。遠くから炎を見て、何だか人みたいなものが燃えているのに気づいて、怖くなって走って逃げてきました。警察はその供述に納得しなかった。中でも、織部という警部補が執拗に彼女に食い下がった。当然ながら彼の頭には、四年前の小学校校門前の児童炎上事件があった。冗談好きで、ざっくばらんなところのある、五十過ぎの男で、ヒロコの前では始終優しい笑顔を浮かべていた。しかしヒロコが俯いているときに彼女を見る目は、探るような鋭い光を宿していた。彼には確信があった。ただ、彼も、幽霊や超能力を信じるほど非理性的な人間ではないので、つじつまの合う推理に苦悩していた。一方ヒロコも、自分が疑われていることは百も承知だった。両親や祖父母までも巻き込んだ不愉快な一カ月が過ぎ、それでもやはり証拠不十分で、彼女は追及を逃れた。
 彼女は再び自由を得たが、それはもはや目に見えない独房に閉じ込められたような、孤独な自由であった。彼女は絶えず誰かの目に監視されているのを感じた。誰も彼もが好奇心と猜疑心で自分を見ているように感じた。両親までも。そして、あれだけ自分を愛してくれた、祖父母まで。彼女は誰にも心を打ち明けられなくなった。もともと引きこもりがちな性格に、輪をかけて人間嫌いになった。自ら固い殻を作り、世界とのつながりを完全に遮断しようとした。
 それでも彼女は生きた。そうして、高校二年生の春を迎えた。

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