火炎少女ヒロコ


第一話  『登場』

その三

 



○    ○    ○

 冷たい雨が降る。
 大学病院の集中治療室前の廊下は、白衣を着た医師や看護師が絶えず小走りに行き交い、騒然とした雰囲気に包まれていた。片隅の長椅子では、ヒロコが一人腰をかけたまま、涙を落しながら嗚咽していた。
 <死なないで。死なないでユリエ。お願いだから死なないで。私を助けてくれたのに! 私を助けたばっかりに! どうして、ユリエはあのとき、白い車がこっちへ向かってるってわかったんだろう? でもユリエは直感でわかったんだ。それで、私を助けてくれた。私たち、狙われていたの? どうして? 私が狙われていたの? 危険な力を持っているから? まさか! ひどい。もしユリエが死んだら、私も死ぬ。もう生きてられない。お願い、お願いだから死なないでユリエ。>
 「おお、ここにいたかね、高瀬君」
 聞き覚えのある声に、ヒロコは涙を拭った。履き古してひび割れた皮靴。少し雨を被った、よれよれのトレンチコート。空とぼけながらも虎視眈々と獲物を狙っているような目つき。若き日の記念碑のような鷲鼻。二度目の炎上事件の際、しつこく事情聴取して来た織部警部補である。
 ヒロコは顔をしかめた。嗅ぎつけたんだ、と内心思った。
 「やれやれ」警部補は溜め息をつきながら彼女の左側に腰を下ろした。前を向いたまま、ヒロコにハンカチを差し出す。ヒロコは手首で頬を拭い、受け取ろうとしない。
 「未使用だから安心しろ」
 「大丈夫です」
 警部補は先ほどよりも深い溜め息をつき、ハンカチをズボンのポケットに戻した。「未使用でも嫌か・・・・まあ、うちの娘も嫌がるもんな・・・・洗濯し終えたシャツでも一緒の籠に畳まれるのを嫌がるからな、あいつは。そりゃまともかく、大変なことだったなあ」
 「はあ」
 「いきなり突っ込んで来たんだって?」
 ヒロコは自分の鞄からポケットティッシュを取り出し、洟をかんだ。
 「君の友人はとんだ災難だった。可哀想に・・・・でもまあ命に別状はなさそうだからな、それは不幸中の幸いだ」
 「ほんとですか」
 彼女は顔を上げて警部補をまじまじと見た。見つめられた警部補はなぜか照れたように頭を掻いた。
 「聞いてないのか、まだ? さっき担当医に容体を聞いたら、そう答えてたぞ。まあ医者もはっきりしたことは言わんがね。まだ本人は意識が戻ってないことだし」
 「でも、よかった」心から染み出た一言であった。
 「なあ、高瀬君」
 警部補は右腕をソファーの背もたれに掛け、脚を組み、親身な感情のこもった低い声で語りかけた。「高瀬君。君は狙われとるのかも知れん───あくまでも憶測だが、君は誰かに命を狙われとるのかも知れんのだよ。心当たりがないわけじゃなかろう? え?・・・加害者の運転手は、ガラスの破片で顔をやられてフランケンシュタインみたいに包帯を巻いとるが、しかし事情聴取が出来ないほどじゃない。困ったことに薬をやっていてな。馬鹿もんが。運転当時は意識がもうろうとしていてあまり覚えてないそうだ。とんでもない野郎だよ。まあ、遠からず吐かせるつもりだがな。しかし奴は事件当初、明らかに君たち二人の方向を目指して運転していた、と証言する目撃者がたくさんいる。薬のせいだけとは言い切れない行動なんだ、どうも。だからもし、奴が狙って運転していたとしたら、狙う相手は、君か、君の友人か───ええと、向坂君だったかな、君の友人の名は。彼女か、そうでないとしたら・・・高瀬君。君なんだ。いや、わからん。たまたま、頭のいかれた運転手の回したハンドルが、たまたま、君たちの方に車を向けただけなのかも知れん。がもしかしたら、もしかしたらだ。君が狙われていたのかも知れんのだよ。わかるね? 何しろ・・・・なあ、君の周りでは、その、不可解な事件がちょくちょく起こっとるからなあ」
 「不可解な事件」というところで、織部はことさら声を落した。
 「いいかい。警察は君の味方だ。君を守りたいんだよ。高瀬君。君の命を守りたいんだ。何でもいい。最近のことでも、過去のことでもいい。ちょっとでも気になっていることがあったら、話して欲しいんだ。その・・・君の親友の、向坂君のためにもだ」
 聞いていたヒロコは、口もとを歪めて笑みさえ浮かべた。
 <なにが味方よ! なにが守りたい、よ! 私を疑ってるだけじゃない。結局、私が燃やしたことにしたいんでしょ? 二年前のことも・・・六年前のことも。ただ、トリックが見破れなくて困ってるのよ。だって私自身がそうなんだから。どうやって燃やしたのか、全然わからないんだから。いっそのこと、言ってやろうかしら。過去のことは、おそらく全部私がやりましたって。でも、それ以外は何もわかりませんって。私は加害者にも被害者にもなれない。今の法律じゃどうせ私を逮捕できませんよって。>
 「高瀬君」
 心を開こうとしないヒロコの態度に苛々しながらも、警部補は努めて冷静を保とうと、しばしの間、目を閉じた。
 「警察を信じてくれんか。警察もいろいろあってな。若い連中は、科学捜査とか何とか言ってやたらコンピューターをいじり回したりしとる。わしはどちらかというと時代遅れの警官でな。ついていけんのだ、そういう進歩に。いや実際、大したものなんだよ、最先端の捜査方法というのは。でもな」
 彼は自分の鷲鼻を摘まんで捻った。
 「でもだ、そんな先端技術を振りかざしても、まったく手もつけられんような怪事件が、世の中にはいくらでもあるんだ。うんざりするくらいわけのわからん事件だ。手口もわからなきゃ、動機もわからん。昔はね、金がらみの恨みつらみや惚れたはれたの犯罪ばかりだったよ。まあ、ある意味わかり易かった。だが昨今は、何でそんなことするのか一向に理解できん無差別殺人とか、親が子を殺したりとか、子が親を殺したりとか・・・・しかもその理由が、ちょっと叱られて腹が立ったからとかだぞ? こういう仕事をしとるとね、高瀬君。仕舞いには、人類全体が、互いを意味もなく殺し合うんじゃないかとさえ思えてくるよ・・・・いや、ちょっと脱線したな。動機の方はともかくだ、ここニ、三年は、警察もお手上げの不可解な事件が増えてきとるんだ。それも急速にな。何か、人類全体がとんでもなく誤った方向に・・・・」
 織部警部補が言葉を切ったのは、自分の話が再び脱線しかけたからではなく、さきほどから隣のヒロコが迷惑顔になっているのを見たからでもなく、目の前に一人の男が立ったことに気づいたからであった。
 存在感のある男であった。艶のある皮靴に渋茶のスーツ。全てが織部警部補より数段高級な仕立てである。白髪の勝る頭をしっかりと撫でつけ、べっ甲の眼鏡を掛けている。完璧な身だしなみである。唯一隙があるとすれば、頬の左半分が、昔の病気か怪我の名残りか、まだらに黒ずんでいた。
 表情を作らないことが何よりの凄みになることを、知っている顔であった。
 「捜査に、あまり関係のない話ですな、警部補」
 穏やかな口調だが、ただの冗談に終わらない威圧感がある。織部はむっとして相手を見上げた。
 「そういうおたくはどちらさんで?」
 見知らぬ男は胸ポケットから警察手帳を取り出した。
 「警視庁公安部の宮渕です」
 「こ・・・公安? 何で公安が・・・」織部は面食らったように呻いていたが、立場を思い出したのか、慌てて立ち上がって敬礼をした。
 「失礼しました!」
 「私はこの女子高生さんと話がある」
 「は、はっ!」
 織部は赤面し、悔しさを表情に滲ませながらも、名残惜しげにヒロコの方をちらりと見やると、肩を怒らせて立ち去っていった。
 <警視庁だと? それも、公安部が首を突っ込んでくるってどういうことだ?>病院の廊下をがに股に歩きながら、腕を組み、織部はぶつぶつと声にならない言葉を呟いた。<やっぱりそれほどあの娘は危険な秘密を持っているってことか! まったく、可愛い顔してとんでもないホシだ。畜生、あの娘は俺のホシだ。俺が先に目を付けたんだよ。公安の連中なんかに横取りされてたまるか!>

 「高瀬ヒロコさん」
 宮渕は笑顔を浮かべて少しだけ上体を屈め、ヒロコに優しく語りかけた。「少しお話しましょう。大事なお話です。もっと静かな場所でね」
 落ち着いた重みのある語り口である。しかし語りかけられたヒロコは不思議なほど落ち着きを失った。生理的に好きになれない相手だと感じた。左頬の黒ずみも気味悪かった。一刻も早くこの場を逃げ出したかったが、好奇心がそれを上回った。この男は、何かを知っている。おそらく私について、織部警部補の知らないことを。ひょっとして、私自身でさえまだ知らない、私に関する何かを。ヒロコはそう直感した。
 「はい」と彼女はか細い声で答えた。

 薄墨色の雨が降りしきる。はるか遠くで雷鳴が轟く。その音さえ、病院の一室には届かない。
 集中治療室と同じ病棟にある、『待合室』と書かれた小さな部屋。ドアを閉め切り、四角いテーブルに、ヒロコと宮渕の二人は向かい合って腰かけた。照明がやたら明るい。まるでテレビで観た警察の取り調べ室のよう、とヒロコは思った。狭苦しく、圧迫感がある。それは目の前に座る男の、沈黙のうちに醸し出す支配者的な空気のせいもあるに違いなかった。
 部屋の四方をぐるりと注意深く見渡してから、男は先ほどよりも幾分くだけた調子でしゃべり始めた。
 「織部警部補は、単なる捜査以上の興味を、君に対して持っているようだ」
 軽蔑した笑み。
 「安心しなさい。彼は今後君に近づくことはない。私にはそうさせる権限がある」
 ヒロコは眉間にしわを寄せた。
 「お前は何者なんだ、という表情だね。もっともだ・・・この部屋は静かでいい・・・君は、去年の暮の、世田谷の無差別発砲事件を覚えているかね。十ニ人の死者が出た」
 視線を合わせたままヒロコが頷く。
 「それから、二週間前に起きた、京王線の線路破損による脱線事故。これは、大したけが人は出なかったが」
 テーブルの上で男の拳が、皮膚の擦れる音を立てた。
 「枚挙にはいとまがない。これら最近の事件の多くは、非公表だが、特殊能力者の関わりが判明している」
 トクシュノウリョクシャ、という言葉の響きを、ヒロコは不思議な思いで聞いた。今まで耳にしたことはなかったが、なぜかよく知っている気がしたのだ。彼女の左手が無意識に、右腕のシャツを握り締めた。耳は過敏なほどに意識が集中していた。
 「警視庁公安部という部署の中に、第七課という課が存在する。私はそこに所属する者だ。現役警察官の中でも、この第七課という組織の内情を知る者は、ほとんどいないと言っていい。存在すら知られていない・・・扱うのは、主に、特殊能力者たち」
 身を乗り出し、言葉を続ける。
 「高瀬ヒロコさん。君は過去に二度、君と対面した人間が突如燃える、という経験を持っている」
 軽々しくは答えないぞ、と言わんばかりにヒロコは唇を固く結んだ。
 「それが二つとも、他ならぬ君自身の意思に基づいた現象であることを、君も内心認めざるをえない状況になっている」
 彼女の目が見開いた。宮渕は笑みを浮かべる。
 「わかっている。われわれは、君のことを、君の想像以上によく調べ上げている。そしてわれわれは、様々なデータから、過去の二つの発火現象が、君の特殊能力によるものだとほぼ断定している」
 宮渕は言葉を切り、しばし考えている風であったが、上着の胸ポケットからボールペンを取り出した。金属製で重量感がある。親指で、かちゃり、と音を立てて先端を出す。また、かちゃり、と音を立てて引っ込める。
 「ヒロコさん。君は孤独ではない。特殊能力保持者───俗に言う、エスパー、超能力者だ───は、君だけではない。どういうわけか、ここ数年で急増している。京王線の脱線事故は、サイコキネシス、つまり物体を空中移動させる能力の持ち主が関与している。レビティションと言って、自分自身を空中浮遊させる能力を持つ者もいる。現段階では、ほんのわずかだがね。そして、君の親友であり、今回の暴走事故の被害者であり、現在治療中の向坂ユリエ。すでに君は知っているようだから打ち明けるが、彼女は、テレパシーの一種を扱うことが出来る。そう。他人の心を読み取る能力だ」
 ヒロコは思わず両手を口に当てた。<じゃあ、あのメモはほんとだったんだ! ユリエは・・・ユリエ・・・私、ずっと親友に騙されていたの? そうなのユリエ? なぜ? ねえ、なぜ?・・・ じゃあ、ユウスケ君は、一体何者?>
 かちゃり。かちゃり。
 宮渕はヒロコの表情の変化を見つめながら沈黙していたが、上着の内ポケットから手帳を取り出した。使いこまれていて、黒く、分厚い。彼は手帳を下に、銀色のボールペンを上にしてテーブルの上に置いた。それは儀式のような所作であった。
 「進化、という言葉を私は使わない。この言葉には偏狭なイデオロギーが塗りこめられているからだ。変遷、という言葉で語らせてもらいたい。変遷。生物は長い年月をかけ、変遷して来た。魚が陸を這いずり回り、爬虫類が毛を生やし、ある者には羽が生え、猿が二足歩行して服を着た。それが正しい道だとか、進歩だとか論じるのは、科学的にナンセンスだ。環境への適応力は、環境自体の変化によって、いつでも否定される運命にある。人間ははたして優れているのか?───私は織部警部補のように、無駄話をしているつもりはないよ。本質の話をしているつもりだ───ヒロコ君。人間ははたして優れているかね? 地球温暖化、大気汚染、森林破壊・・・現代の地球環境のおかれた末期的状況が、それを認めないだろう。違うかね? だからこそ今、人類はさらなる変遷を遂げようとしている。いや、変遷を強いられている。私はそう考えている。君を含めた特殊能力者たちの誕生は、人類にとって、あるいは生命全体にとっても、存続のための切り札、新たなる可能性の創出なのだ。繰り返し断わっておくが、私は、君を含めた特殊能力保持者たちを持ち上げるつもりはない。可能性には常に、よい可能性と、悪い可能性がある。どうか気を悪くして欲しくないが、可能性というものはそういうものだ。完成品の出現の裏には、無数の不良品が転がっている。毛を生やす爬虫類の出現の前には、さぞかし醜く無駄なものを生やした失敗作がぞろぞろと続いたことだろう」
 ヒロコは目を怒らせて俯いた。この男が何を言っているのか、さっぱりわからない。進化? 変遷? 何が言いたいのだ。頭痛がする。今すぐにこの場を逃げ出したい。不良品? 失敗作?───どういうこと? この人は、私が不良品だと言いたいの?───
 男は、ヒロコから目を離さずに、言葉を続けた。
 「個々の特殊能力者たちが、何のために存在するようになったのか、その検証はこれからだ。無論、何らか目的があるのだろう。今後、彼らは存在意義を増していくだろう。遠からず、『特殊』という言葉を冠する必要さえ無くなる日が来るかも知れない。ただ、現在は明らかに過渡期であり、混乱期なのだ。今この瞬間にも、玉石混交の雑多な特殊能力者たちが、次々と生まれている。誰も、どう対処してよいかわからない。特殊能力者たち自身が、最もまごついている。自分達の能力をどう使用すべきか、あるいはどこで使用すべきでないか、わからないのだ。放っておけば、各地でパニックが起きよう。誤解と憎悪が渦巻き、衝突が生まれ、悲劇が起こる。そういう事態は、避けなければならない。是が非でも避けなければならないのだ。特殊能力者たちを統制する政府機関が必要になる。公安第七課は、そのために用意された機関だ。特殊能力者たちの実態把握と、保護、統制および訓練をつかさどる。高瀬ヒロコ君。私は君を保護するために───どこへ行くつもりだ」
 ヒロコは立ち上がっていた。顔から血の気が退いている。今にも気を失いそうな虚ろな目。
 「どうした」
 「い、いえ・・・」
 彼女はうろたえながら、再び椅子に腰かけた。額には脂汗が滲んでいる。
 べっ甲眼鏡の奥にある細い目が、さらに細くなった。
 壁時計の音が、二者の沈黙を埋める。
 宮渕は彫像のようにじっとヒロコを見つめた。<完全に混乱している・・・弱い・・・思ったより、ずっと脆い神経だ。興味深い・・・なるほど、織部が執着するだけのことはある。陰りがいい。背負った宿命の重さか・・・だがいかんせん、あまりに情動的だ。危うい・・・近い将来、大きく豹変するかも知れん。今はあれが抑えていようが・・・>
 病んだように見開いた目で、ヒロコはテーブルや、宮渕の置いた手帳とボールペンや、彼の左頬の痣に、落ち着きなく視線をさまよわせた。彼女は吐き気がするほど気分が悪く、ほとんど意識を集中できなかった。
 <何なの? この人は。私をどうするつもりなの? 私、私何も悪いことしていない。私の意思でした悪いことなんて一つもない。なのにどうして私に関わろうとするの?・・・どうして・・・どうしてこの人は、私の正体を知っているのに、こんなに落ち着いていられるの? ユリエ、ねえユリエ、私を騙したの? 嘘だよね? こんな話、全部嘘だよね? ねえ・・・会いたい・・・>
 公安の男はテーブルの上で手を組んだ。
 「どうだ。我々に協力してくれるかね」
 女子高生は神経質な笑みを浮かべた。
 「私を逮捕するつもりですか」
 「逆だ」苛立ちを抑えて答える。「君を保護するために来た、と言っているではないか」
 「どうするつもりですか、私を」
 「我々のもとで、君の能力を適切に制御できるよう訓練を行う。その前に、君の潜在能力を含めた精密検査が必要だ。君に聞きたいことも幾つかある」
 分厚い手帳を、ヒロコは激しく睨んだ。
 「保護なんて要りません。尋問するなら逮捕してからにして下さい」
 こんな気丈さがあるとはヒロコ自身びっくりしたほど、彼女ははっきりと口にした。再び、今度はしっかりと意思を持って椅子を引き、席を立った。体がぐらつくが、歩けないほどではない。
 男のこめかみが痙攣した。彼は背中を向けようとしたヒロコに聞こえないほどの舌打ちをした。
 「君たちを狙ったのは、特殊能力者だ」
 ヒロコの背中がびくりとして動きを止めた。おそるおそる振り返る。
 「やっぱり、あの運転手は、私を狙ったんですか」
 「いや。おそらく、車は最初から向坂ユリエを狙っていた。彼女が我々第七課の配下にあると知っていた者の仕業だ。車はユリエの殺害を狙い、同時に君の能力を試してみようとしていた、と私は推測している。君が瞬時に運転手を燃やせるかどうかをね───いずれにせよ、あの運転手はただのヤク漬けの、気の小さい一般人だ。薬物依存症の者の心理は、依存していない者よりも操作しやすいのだ。ヒプノシス、いわゆる催眠術。世田谷無差別発砲事件と同じ手口だ」
 「どういうことですか」
 「君を試したがっている、あるいは欲しがっている、犯罪組織があるということだ」
 ヒロコは自分の身体を支えるために、テーブルに両手を突いた。
 「・・・ユウスケ・・・ユウスケ君は」
 宮渕はべっ甲眼鏡の縁に手を掛けた。
 「仰木ユウスケか。彼はまた、別の組織に属している。AUSP。The Autonomous Union of Supernatural Power。超能力自治連合。一部の特殊能力者たちが、政府に頼らず、自分達で自分達をコントロールできると思い上がって作った組織だ。その組織もまた、君を強く欲しがっている」
 ヒロコの受けた衝撃は、並大抵のものではなかった。
 「どうして? どうして私を?」
 「わからないかね」宮渕は眼鏡を外し、胸ポケットから取り出した眼鏡拭きで拭いた。「その前に腰かけたらどうだ」
 言われるがまま、ヒロコは三たび腰を下ろした。実際のところ、憔悴しきって立っているのがやっとであった。
 眼鏡を外した宮渕の目は、以前として冷徹であったが、少しだけ人間味を増した気が、ヒロコにはした。宮渕は眼鏡を外したままじっとヒロコを見つめ、再び眼鏡をかけた。
 「君は昔からずっと、そのカチューシャをつけているね」
 ヒロコは少し顔を赤くし、頭にかかる紺色のカチューシャを意識した。一体、この男はどれくらい以前から自分のことを知っているのだろう?
 「似合っている。今後も付け続けたまえ」
 ヒロコは一層顔を赤くして、思わずカチューシャに片手を添えた。
 男の目尻が笑った。
 「カチューシャというものは、本来、髪の毛が奔放に乱れるのを防ぐためにある」
 男の指が、左頬の黒ずみを触る。「君の心の中にも、理性のカチューシャというべきものが常にかけられていることを望む。ヒロコ君。先ほども言ったように、特殊能力者は実に多種多様に存在する。手を使わずに物を動かす者。人の心を読む者。まだ未解明の部分が多いにせよ、それらの能力が物理的に説明可能になる日は、そう遠くないだろう。言いかえれば、それらの諸能力が、この物理世界を大きく揺るがすことはないのだ。そういう能力は、実は、潜在的に多くの人間が───いや、ひょっとしたらすべての人間が───持っているものだと、私はほぼ確信している。マジック程度の奇跡を起こす力はあるのだよ、人間には。ただし、かなり特殊な訓練と、場合によっては投薬などの医学的処置が必要になる。ちなみに向坂ユリエは、三歳児から我々のもとで特別な訓練を受けている」
 「三歳・・・」ヒロコは絶句した。
 「彼女が交通事故を起こしても、両親がいまだ訪れないのは不思議に思わないかね? 彼女はもともと、孤児だったんだ。社会的に必要な時には父親と母親が姿を現すことがあるが、それは我々の組織が用意した偽物だ。
 「私が『超能力』という通称を嫌って、『特殊能力』という用語を使う理由がわかるかね。これらの能力を身に付けた者は、そのほとんどが、厳しい訓練を受け、一般人から、特別な能力を発揮できる者へと生まれ変わった。エスパーと、普通の人間は、隔絶していない。連続しているのだよ。だから、『超』ではなく、『特殊』と呼ぶべきなのだ・・・それでも、能力の個人差は、歴然としてある。歴然としてあるのだ。高瀬ヒロコ君。いよいよ君の話だが」
 宮渕は両手を組み、一語一語に力を込めた。
 「君は、何の訓練も受けていないのに、人を二人も燃やした。わかるかね。これがどういうことか。人を燃やす、という特殊能力者は、今まで一人も出現していなかったのだ。映画やテレビに出るような、手から光線を出したり、物体を爆発させたり、などといったスーパーパワーは、たとえ特殊能力の存在を信じるにせよ、さすがにあり得ない、絵空事だと思われていた。それを、小規模ながら、君が実現させたのだ。それも、訓練なしに。今の科学では到底あり得ないと思われる現象を、君が軽々とやってみせたのだ。今はまだ焚火程度かも知れない。しかしもし君が正式な訓練を受ければ、甚大な能力を発揮する可能性がある。君は人類にとって、非常に有望であり、かつ非常に危険である。その両方の可能性を秘めているのだよ、ヒロコ君」
 魂を抜きとられたように、ヒロコは微動だにしなかった。自分のことを言われている感覚がまったくなかった。宮渕の言葉だけを聞けば、ほめられたような気もしたし、大いに侮辱されたような気にもなった。頭の整理がまったくつかなかった。いかがわしい薬を飲まされた感じすらした。<どうしてさっきからこんなに気分が悪いの?>重い頭の奥で、邪悪な気持ちも芽生えた。自分は、人々を恐れさせるほどの力の持ち主ということなのか。その能力を使えば、遠からず、みんなが自分にひれ伏すのではないか。いっそそうしてやろうか、と。しかし、何より彼女の感情の中心を占めたのは、恐怖であった。具体的な何に対しての恐怖かははっきりしない。自分自身に対するものか。自分を狙っているという組織に対するものか。それとも、普通の女子高生としての日常生活が、もはや二度と戻らないことに対するものか。
 何色もの絵の具をいっしょくたに塗りたくられたような混乱を覚えながら、彼女の口にした疑問は、先ほどからどうしても気に掛かっていることであった。
 「あなたは、特殊能力者なんですか」
 不意を突かれた驚きが、宮渕の顔に広がった。が、すぐに涼しげな笑みに変わった。
 「そう思うのだったら、職務上の機密事項としておこうか」
 彼は手帳やボールペンを仕舞った。
 「まあ、君も即答はできまい。一両日じっくり考えてみてくれ。いい返事を待つ」
 彼は立ち上がった。部屋を出ようとする彼に、ヒロコが追いすがるように尋ねた。
 「ユリエは。ユリエには会えるんですか」
 宮渕は振り向き、左頬の痣を触って答えた。
 「彼女は一命を取り留めたが、昏睡状態であることに変わりはない。一、二週間は面会謝絶だろう」
 ヒロコは深く項垂れた。今こそ、自分は本当に倒れ込むのではないかと思った。
 「ヒロコ君、出たまえ。君の家族の方々が、一階の受付フロアで待っておられる」
 家族───家族なんて、私にいたのかしら? こんな、奇形児みたいな私に。彼女はたった一人、広大な暗黒の荒野に、置き去りにされたような心持がした。そこでは、家族も、自分が知り合ってきたすべての人々も、この目の前の宮渕と言う男も、みな、ずっと遠い地平線から自分を遠巻きに眺めていた。自分の近くには、誰もいない。
 <ユリエ>
 彼女は心の中で、ついさっきまで唯一無二の親友と思っていた友の名を再度呼んだ。もちろんそれは、誰にも届くことがない。
 彼女は歯を食いしばって、立ち上がった。

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