火炎少女ヒロコ


第二話  『捕囚』

その一

 



 暗闇の中をヒロコは漂っていた。
 自分の身体はない。感覚と言える感覚もない。ただおぼろげな自意識だけがあった。暗闇はどこまでも暗闇で、その暗闇は、言ってしまえばヒロコそのものであり、言い換えればヒロコ以外の何物でもあり、そして結局のところ、何物でもなかった。こういう経験を、はるか昔、どこかでしたように、ヒロコは思った。ひょっとしたら、生まれるよりずっと以前に。
 「大丈夫? 高瀬さん」
 男の声だ。記憶にある声。と同時に、暗闇のあちこちが裂け始めた。光が迸る。五体の感覚がよみがえる。吐き気と眩暈。引き戻されつつあるのだ。だけど戻りたくない───どこに? 現実に。
 「高瀬さん」
 揺さぶられる感覚を覚え、意識がはっきりした。立っている。誰かに腕を抱きかかえられて。温かみのある、細い手。そう、これはユウスケ君だ。
 ヒロコは目を開けた。一瞬の眩しさの後、眼前に広がったのは、鬱蒼と茂る森林だった。
 「ここ・・・どこ?」
 彼女は首をめぐらし、ユウスケの顔を覗きこんだ。ぼさぼさ頭につぶらな瞳が、優しく自分を見つめている。まるで恋人同士のように近い。ヒロコは戸惑い、顔を赤らめて身を退いた。ユウスケもぎこちなく手を離した。
 彼の背後に、白い建造物が横たわっているのが、ヒロコの目に映った。それはジャングルのように繁茂する木立の中で、唐突な白さであった。校舎ほどに横に長く、小さな窓が点々とあるだけの、のっぺりと大きな建物である。
 呆然と建物を見つめながら、いまだくらくらする頭でヒロコは必死に記憶を整理した。さっきまで、駅にいたはず・・・朝靄の中、電車を待っていた。あのとき・・・・
 <また人を燃やしたんだわ! しかもお父さんとお母さんの見ている前で! あれだけ高い火柱が上がったんだから、あの人はたぶん死んだ。絶対、死んだ。もう、あそこには戻れない。もう私は───私は、どうやってここに来たの? ねえ、いったい何が起こっているの?>
 再び、建物を見上げる。冷酷なまでに無機質な外観に、これから自分に待ち構えている得体の知れない運命とでも言うべきものの実体を垣間見た気がした。
 気分の悪さが急速に蘇ってきた。
 「ここは、安全な場所だよ」
 ユウスケがためらいながらつぶやくのが、やけに遠くに聞こえた。ヒロコの意識は再び遠のきつつあった。
 「なら・・・よかった」
 そう言い返すのがやっとであった。力を失った彼女の身体を、ユウスケの細い腕が再び抱きかかえた。ヒロコにわかったのはそこまでだった。

○     ○     ○

 次にヒロコが目覚めたのは、白く固いベッドの上だった。 
 とても変な気分である。見ると、ベッドの傍らで、見知らぬ女性が文庫本を読んでいる。眉間に皺を寄せ、真剣な面持ちである。四十代前半、骨格のしっかりした大柄な女性で、白髪混じりの長髪を後ろで束ねている。着ている服は木綿の長袖に麻の貫頭衣という、まるで縄文人のように簡素なもので、上下とも淡い黄土色をしている。
 「ちょっと待ってね。今いいところだから」
 視線は文庫本から離さない。若干掠れ気味だが張りのある声。
 ヒロコは彼女を見つめたまま、黙って待った。文庫本の背表紙を読み取ることができた。題名は、『痴愛の果て』。
 五分ほどが沈黙のまま過ぎた。
 「ふう。お待ちどうさま」
 文庫本を下ろし、女性は額の汗を拭った。ベッドの患者が、自分の読んでいた文庫本の方を気にしているのに気づくと、屈託のない笑顔を見せた。
 「わたし、結構いやらしい本が好きなのよ。いろいろ想像するじゃない。ほんとはね、ここじゃ、こういう本を読むのも禁じられてるんだけどね」
 女は右手を差し出した。
 「わたし、ミサ。ちょっとした治癒能力を持っているから、ここでは医療関係を担当させられているの。あ、まだぼーっとするようだったら、手なんて出さなくていいわよ」
 ヒロコは毛布から出そうとした手を、まごつきながら引っ込めた。
 「あなたが混乱しているのはわかるわ。だから、卒倒したのよ。そうね。両手両足に余るほどの質問があるだろうけど・・・わたしさ、こういうとき、順序よく説明するのが苦手なのよねえ。ええと、何か質問ある? それとも水飲む?」
 しばらく考えてから答えた。「水をください」
 「そう。それがいいわ。だって水を飲ませるのは医療の基本だもん。わたし、告白すると医学的知識はゼロなの・・・起き上がれるかな。そうそう。こぼさないでね・・・うん。よし。さてと、何か質問あったっけ?」
 「ここはどこですか」
 「まずそれだよね。その質問が来て当然。ここはね、オースプ富士研究所と言って、富士山の樹海の中にあるの。樹海って知ってる? そう。樹海の中にあるくらいだから、一応秘密の基地ね。オースプというのは、AUSPと言って、まあ、平たく言やあ、はぐれ者の超能力者たちの集まりよ。あなたユウスケに連れられて来たでしょ。あいつも超能力者だからね。もう身に沁みてわかってるだろうけど」
 「ユウスケ君は・・・」
 「彼は今、中央棟にいるわ。ここは、女性専用の棟。男性専用の棟もあってね。一応、男女別になってるの。ここって、高野山みたいに堅苦しいところがあるのよ」
 「ユウスケ君が、私をここまで運んだんですか」
 「そうよ。運送業は彼の得意分野だからね」
 「確か、テレ・・・テレポーターって、言いました」
 「そう。それ。ガソリン代と手間暇のかからない、かなり便利な運送業ね。何しろ彼は自分以外の物も運べるんだから。彼ほどの能力のテレポーターは、世界でもまだ数人しかいないの。あの子、あんなぼさぼさ頭だけど、相当優秀なのよ」
 何をどう考えていいのか整理のつかない表情をしているヒロコを見て、ミサは彼女の膝のあたりの毛布に手を置いた。
 「あまり考え込まないで。わかるべきことは、徐々にわかってくるわ。今は休養が一番大事」
 「私、もう戻れないんですか」
 この質問に対する答えは用意してなかったのか、ミサはたじろいだように、目をしばたたいた。
 ヒロコは思い出していたのだ。家族旅行のため、よそ行きの服に身を包んでプラットフォームに立つ両親を。昨日病院で涙を浮かべながら自分を抱きしめてくれた祖父母を。あまり楽しくはなかったが、確かな日常を提供してくれた学校。同級生たちのはじけるような笑顔。
 唇が自ずと震えた。
 「もう、戻れないんですか」
 貫頭衣を着た女医は毛布から手を引き、背筋を伸ばして座り直した。息を吸い込み、真剣な顔つきになってヒロコを見つめた。
 「その質問には、リーダーが答えてくれるわ」

○     ○     ○

 それからおよそ一時間後、チェダーコートだけ脱いだ姿のヒロコはミサに先導されて、施設の狭い廊下を渡っていた。とにかくほとんど窓がなく、薄暗くじめじめした廊下である。あまり住み心地の良さそうな場所じゃない、とヒロコは思った。森の湿気が壁伝いに滲み入り、ひんやりとよそよそしい空気を漂わせていた。
 「ここよ」
 ミサが指さしたドアには、『会議室』と、白字で黒い小さな板に書かれてあった。
 ノックする手の形を作ったまま、ミサはためらいをみせた。彼女は憐れむような、懇願するような表情で、ヒロコの顔を覗きこんだ。
 「あのね、これだけは信じて。何も怖がる必要はないの。ここはみんな、いい人たちばかりだから」
 <まるで、嫌な思いをさせる前の言い訳みたい!>
 ヒロコは憮然とした。ノックの音が響き、目の前でドアが開いた。その瞬間、ヒロコは驚きのあまり心臓が止まりそうになった。
 そこには四方を壁で囲まれた部屋の代わりに、無限大の暗い宇宙が広がっていたのだ。ヒロコの後ろでドアが閉まり、彼女は宇宙空間のど真ん中に抛り出された。四方に散らばる星々が光を放つ他は、果てのない暗闇である。しかし床の感覚はあった。見えはしない。だが確かに床は、存在する。<じゃあこれは幻覚?>本当はあるはずの床の延長上に、奥に延びる長テーブルを囲む形で───その長テーブルも椅子も姿は見えなかったが───数名の男女が腰かけていた。人間の姿だけはっきり見える。みな、貫頭衣を羽織っている。女は薄い黄土色、男は焦げ茶色である。
 一番奥にヒロコと向かい合う形で、一人の男。坊主頭だが、若い。端正な顔立ちで、太く凛々しい眉が頑固で熱血漢であることを思わせる。リーダーとはおそらく彼のことなのであろう。
 その左右に四人ずつ。髭面の人もいれば、ひどく痩せ細った人もいる。ヒロコから見て左の一番手前はユウスケであった。そのことが少しだけ安心感をヒロコに与えた。しかしながら、いつもぼんやりしているという印象の彼は、ここでは、ずっと引き締まった表情をしていた。しかも不安な目つきで、突っ立つヒロコを見上げていた。
 誰もが、ヒロコの到来を待っていた。宇宙を背景に、沈黙して。
 <私はここで、裁かれるの?>
 両の拳を握りしめ、ヒロコは正面の坊主頭を睨んだ。
 「ようこそ」朗々とよく響く声。「わが砦へようこそ!」
 眉の太い坊主頭は右手を差し伸べた。
 「さあ、そちらへかけなさい」
 声と同時に、ヒロコの目の前に質素な木造の椅子が現れた。彼女は少しためらったが、その椅子に腰かけた。と、その椅子は尻の感触だけ残して再び姿を消した。
 「怖がらなくていい。怖がらなくていいよ。この宇宙は私が作り出した集団幻覚だ。つまり偽物だ。この会議に参加する者に共通して見えるだけのものだ。偽物もみんなに見えるとなれば、なかなか真に迫っているだろう! は!・・・実際には、この部屋にはテーブルと椅子しかない。殺風景なものだ。ここで開く神聖な会議には、宇宙とか砂漠とか、広大な幻影を提供することにしている。私のちょっとした余興芸でね。だってその方が、より思慮深い判断ができそうじゃないか。ま、参加者全員がそれを快く思っているわけでないのは承知の上だが」
 一部でくすくす笑いが起こった。
 「私はエイジ。ここのリーダーだ。左右に座るのは幹部たち。一番若くて前途有望なのが君の近くに座っている。そう! 彼の顔はすでに見知っているね」
 ヒロコとユウスケは再びほんの一瞬だけ目を合わせた。ユウスケの顔は赤らんでいた。
 エイジと名乗る男は、肩の凝りをほぐすようにぐるりと首を回し、再び話し始めた。
 「ヒロコ。ここではファーストネームで呼び合うのが通例だから、そう呼ばせてもらう。いいね。ヒロコ、君はすでに、警視庁の宮渕という人物と会ったろう」
 ヒロコは緊張していたが、喉の調子を整え、「はい」と答えた。
 「うん、そうか。しかし用心し給え! 役人連中というのは、時代の変わり目にはだいたい間違いを犯すものだ。頭が公務員試験用にしかできてないからね。ただ間違うだけなら可愛いものだが、地位と影響力があるだけに、その間違いが大きな危険を伴ってしまう。宮渕という男の管轄する公安警察。これは実際、恐るべき組織だ。何しろ我々超能力者の人権を全く認めていない。彼らにとって、我々は人じゃない。駆除すべき害虫であり、実験道具であり、よくて兵器でしかないんだ。よくて兵器なんだ。ここ十年余りの間に、彼らは国内だけで百を超える超能力者たちを逮捕した。ある者は薬により骨抜きにされ、ある者は極秘に始末された。何より───何より許せないのは、そういう迫害をする一方で、非人道的な調教によって、政府に忠実なエスパーたちを次々と育て上げていることだ。エスパーの奴隷労働だよ。そして残念ながら、それは現在ほぼ、軍団という形を成しつつある」
 エイジはゆっくりと目を閉じ、また開いた。宇宙は消え、真っ白になった。九人とヒロコを除いて、何もない、純白の世界。
 「我々は、人間だ。そうだろう? 君も、私も。特別な能力を持っているが、何よりもまず、人間だ。政府に犬畜生のように扱われる筋合いはない! そりゃ確かに、一部で、エスパーの犯罪が増えているのは確かだ。しかしそれを理由に我々を虐げるのは、昔のアメリカが、黒人の犯罪率が高いからと言って、彼らを一様に危険分子扱いしたのと一緒じゃないか?───十二年前、イギリスで最初に、超能力者たちが立ち上がった。彼らの結成した組織は、超能力者たちによる、政府の庇護も干渉も受けない、自立した共同体だった。超能力自治連合。The Autonomous Union of Supernatural Power。頭文字を取って、オースプという。この動きは世界に広がった。密やかに、しかし速やかに。オースプ・アメリカ、オースプ・インディア、オースプ・サウスアフリカ・・・六十を超える国々に、現在、この動きは広まっている。オースプ・ジャパンは八年前に産声を上げた。日本には四か所、研究所という名目で関連施設が存在する。富士研究所ができたのは五年前。ここにいる我々が手掛けた」
 この男が本当は何を考えているか、ヒロコはその心を読み取ろうとした。自分をどうしたがっているのか?───一見、感情も露わに熱弁しているように見えるが、腹の奥底に何かを隠し持っている。しかし、今朝駅構内で自分をホームに突き落そうとした男の心理を読み取ったようには、明確なものは何も掴めなかった。ヒロコは身を固くした。宮渕との会見以降、自分にいろいろ説明したがる人物は、自分に対し何かを企んでいるのではと疑う癖が自然と身についていた。
 何も信じられない。誰も、簡単に信じてはいけない。
 「ヒロコ。君もぜひ! 我々の一員となり、我々と生活を共にして欲しい。何しろここにいれば安全だ。君を轢こうとする車もないし、君をたぶらかそうとする政府の役人も現れない。君はここで適切な訓練を受け、自分の能力を正しく強化し、彼らの攻撃に対抗できる力を身につけることができる・・・」
 彼は言葉を切り、押し黙った。急に不機嫌になったようであった。ヒロコは内心の反感を、彼に読み取られている気がした。
 <心を白紙に。白紙にしなくちゃ!>
 男は太い眉を立てて黙り込んでいたが、再びゆっくりと目を閉じ、開いた。純白の世界も姿を消し、大きなテーブルと、各人の椅子と、狭い部屋が姿を現した。幻覚は消えたのである。むき出しのコンクリートの壁に覆われた、彼の言った通り、実に殺風景な部屋であった。ただし、部屋の四隅は暗く、テーブルを中心に、各人の顔をほんのりと明るく浮かび上がらせる光が存在した。それはいかなる照明器具によるものでもなかった。
 下からの光に照らされ、男の顔は、先ほどとは打って変わって陰険な影を帯びていた。
 「同意してくれるか」
 「同意しなければ、帰してもらえるのですか」
 「無理だ」
 重々しい声だった。誰かが椅子をギィ、と軋ませた。
 「君はすでに、われわれの秘密を知っている」
 「じゃあ、同意しなければ・・・」
 ヒロコは声の震えを必死に抑えたが、後が続かなくなった。男の暗い顔を見れば、それが一つの答えを物語っていた。
 椅子を引きずる大きな音。ユウスケが立ち上がっていた。顔は蒼白である。
 「リーダー、それでは話が違います!」
 「座りなさい。ユウスケ」
 声を掛けたのはリーダーのエイジではなく、その右隣に座る女であった。エイジよりは十歳ばかり年上に見える。小さな目鼻立ちに縁なし眼鏡をかけ、顎のない顎を引き、背筋を伸ばして座り、いたって生真面目な雰囲気を醸し出している。
 「我々は例外を認めないだけです」
 「でも・・・でも彼女は自分の意志でここに来たんじゃありません」
 「あなたが連れてくるのを、拒まなかったわ」
 「だから」ユウスケは手を振り上げて必死に抗弁した。「僕は何も説明しなかったんです。ただ彼女を無理やりここに連れてきた。このままじゃ、僕が彼女を拉致したことになる」
 「そうだとしたらどうだってんだ」
 また違う、粗暴な男の声が飛んだ。縁なし眼鏡を掛けた顎なし女の斜め向かい、ユウスケと一人挟んで座るタワシのように短い黒髭の男である。
 「俺たちは戦争中なんだよ。戦時下は、てめえの意志とか相手の意志とか言ってられねえんだ。お前さんは俺たちの組織の一員として、あの時やるべきことをやったまでだ」
 「谷さん、私はそんなつもりで言ったのではありません」縁なし眼鏡が反論した。
 「そんなつもりもどんなつもりも、だから言ってるだろうが・・・」
 「まあ、ま」
 黒髭が言いかけたのを、白髭の男が遮った。こちらの男の髭は、黒髭と違い、仙人のように胸元まで伸びている。九人の中で最年長に見える。
 「ここは、この若い客人にとって、それほど自由ではない。だが、ここより自由で安全な場所は、もうこの人には残されてない。リーダーはその意味で選択肢がないと言ったんだ。ユウスケ、お前は間違っていないし、この場の決定も間違っていない。この客人もやがてそれがわかる。座りなさい」
 ユウスケは拳をテーブルに押し付け、肩を震わしていたが、白髭の噛んで含めるような物言いに、力なくまた着席した。彼は非常に後悔した顔でヒロコをちらりと見やった。目を伏せ、そのままこうべを上げなかった。
 誰も何も言い出さなかった。リーダーのエイジは腕を組み、目を閉じていた。白髭の男が空咳をした。
 ヒロコは、ふと何もかもが可笑しくなって笑い出しそうになった。<馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ>それから大声を上げて泣きそうになった。高校での時間にライ病患者の話をきいたことがある。ある日突然隔離施設へ収容すると言い渡された彼らも、今の私のような気持ちになっただろうか。
 かつていじめにあっていたころの自分を、彼女は思い出していた。結局あのころと何も変わってないではないか。
 <つまり私の意志なんて、初めから関係ないんじゃない>
 厳めしい顔で黙想していたリーダーが、沈黙を破った。
 「同意してくれるか」
 無言の抵抗を示した後、ヒロコは小さく、うなずいた。しかし、それでは通じないらしい。
 仕方ないので、空気が掠れる程度の声で、はい、とささやいた。
 「ありがとう」
 この場で最も発言権のある男が、感謝の言葉を述べた。
 「君が我々の信頼できる仲間の一人になることを願っている。以上だ、ヒロコ。退出してよろしい」
 ヒロコは俯いたまま立ち上がり、小さくお辞儀をして部屋を出た。部屋の外には、ミサが心配そうな面持ちで待ち構えていた。
 自分が倒れこみそうなほどひどく疲れていることを、ヒロコは意識した。

 ヒロコの去った会議室に、九人はなおも座ったまま、黙りこんでいた。まるで、極刑の判決を下した後、自分たちの裁きに今更ながら迷いと良心の呵責を感じて黙り込む九人の裁判官たち、といった観があった。
 ユウスケは依然としてすごい形相で下を向いている。
 彼の隣に座っていた体も顔も細い男が、ネズミの鳴くような甲高い声で「まあまあ」と言って彼の肩を叩いた。「あまり気にするなって」
 「このやり方は卑怯です」
 後輩のぶっきらぼうな言い返しにびっくりした細面の男は慌てて手を離し、遅ればせに憤激して「なんだその言い方は」ときいきい声で喚いた。
 「ユウスケ、おい」
 谷という名で呼ばれた黒髭の男が椅子にふんぞり返り、耳の穴をほじくりながら面倒くさそうに呼びかけた。「お前わかってねえなあ。今あの子にどこに行くべきか選択できるわけねえだろう。何にもわからずに人だけぼんぼん燃やして逃げてきたんだ。あっちこっちに狙われてる。多少強引にでも招き寄せてやるのが武士の情けってもんじゃないか。それともお前、あの子にとってここが一番恵まれた場所だってことに不賛成なのか」
 「そんなことないですけど・・・」
 「これは戦略です。武士の情けなんかじゃありません」
 縁なし眼鏡の顎なし女が、毅然として言い放った(彼女は名をレイコと言った)。彼女は先ほどから黒髭の言うことにいちいち反駁している。黒髭にとってはいつものことらしく、耳に指を突っ込んだまま不愉快そうに舌打ちしてそっぽを向いた。
 ユウスケの向かいに腰かけていたショートヘアの若い女が、両手で頬杖を突いて物思いにふけっていたが、ぼそりとつぶやいた。
 「あの子、大変そうだなあ」
 リーダーが彼女に向って口を開いた。「大変かも知れん。しかし大事な人材だ。フミカ、初等訓練をよろしく」
 「そうねえ。あの子、過酷なスケジュールに耐えられるかしら」
 「耐えなければいけないわ」縁なし眼鏡が答えた。「耐えなければ、我々にとって危険な存在になる」
 「いずれにせよ取扱い要注意ってことか」細面の男が甲高い声でつぶやいた。
 ユウスケに睨まれて細面はまたびくっと体を動かしたが、遅ればせに後輩を睨み返した。
 「今後の確認をするぞ」とリーダー。「ユウスケ、お前はまた学校に戻り、ヒロコの蒸発で公安や他の組織の連中がどう動くかを監視し続けろ。フミカはヒロコのトレーナーとして初等教育のカリキュラム作りと各講師への伝達を。ええと、谷さん」
 黒髭の名が呼ばれた。「今回のことで、ここの施設はおそらく以前にまして狙われるようになる。警備の強化をよろしく」
 「おう」谷は指についた耳垢を吹き飛ばして答えた。
 「博士」エイジの視線は、白髭に移った。「ヒロコに対する薬物投与だが、慎重にやりたい。能力を高めるだけでなく、抑える方の薬も用意する必要がある。何しろ危険な潜在能力を持つ子だ。おって細かい指示を出す」
 博士と呼ばれた白髭の男は、何か引っかかりがあるかのように、腕組みをして首を捻った。
 「リーダー。確か我々は、政府と違うんだったな」
 「そうだが」気色ばんでエイジが答えた。
 「開発する側から言うのもなんだが、あの子にはなるべく薬剤を投与したくない」
 「なぜだ」
 「あの子が、ごく普通の子に見えるからだよ。普通の精神と、普通の肉体を持った。あの子は訓練や薬剤投与をしなけりゃ、いつの日か成長に伴って能力を失うかもしれん。その方があの子にとって幸せだとは考えないのかね」
 場の空気が張りつめた。縁なし眼鏡のレイコはあからさまに怪訝な顔をした。黒髭の谷はちっ、と舌打ちした。ユウスケは顔を上げて救いを求めるように博士を見つめた。
 エイジは立ち上がった。眉を逆立て、張りのある声で全員に語りかけた。
 「いいか。これだけ誤解するな。新規加入者であるヒロコは、見た目以上に強い精神力と、能力を持っている。これは確かなことだ。すでに誰に教わったわけでもなく、読心術を防ぐすべを身につけつつある。それが今回の会見でわかった。それから今朝の駅員炎上事件。ユウスケの状況報告から推し量ると、駅員の方を振り向きもせず、透視能力があるかのように、駅員の殺意を読み取っている。信じられないことだ。まったく、信じられない。事実だとすると、彼女の能力は人間を燃やすだけじゃない。その潜在能力には測り知れないものがある」
 誰もが視線を落とした。
 「彼女はすでに生ける兵器となりつつある。それが私の見解だ」
 反論する者は、もう誰もいなかった。
 「会議は以上だ。解散」
 八人は椅子の音を立てて立ち上がった。


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