火炎少女ヒロコ


第二話  『捕囚』

その二

 



○    ○    ○


 ちょうどそのころ、別な二つの場所でも、ヒロコを巡る話し合いが行われていた。
 一つは高層ビルの十一階、警視庁公安部第七課の課長室。
 天井の空調がかすかに音を立てる。
 課長席に座り、部下の報告を聞いた宮渕は、珍しく顔色を変えた。顔が赤くなると、左頬の痣がよりくっきりと黒ずんで見える。彼は握り拳を震わせさえした。報告は、駅員炎上とヒロコの失踪に関するもので、見知らぬ男の子と手を繋いでトイレに入るまでは見届けたが、後を追ってトイレに入ってみると、二人の姿は跡形もなく消えていた、というものであった。報告者は言い淀んだり早口になって舌が回らなくなったりしながら、額に脂汗を浮かべて必死で概要を伝えた。
 卓上の書類が、宮渕の手によって歪められた音を立てた。
 「馬鹿もんが!」
 報告者は膝に額が付くほどのお辞儀をした。
 「申し訳ありません!」
 「何のために尾行させたのだ。お前を。万が一ヒロコが暴発したときはいち早く拘束するためではないのか」
 「すみません!」
 「お前の特殊能力では、駅員の心理を読み取ることができなかったのか」
 「私に気付けたのは、ヒロコが炎上させる直前でした」

 「なぜすぐヒロコを捕縛しなかった」
 「炎上する駅員に気を取られた隙に・・・」
 奇妙なことが起きた。言いかけた彼は、急に激しい頭痛を覚えたのか、両手で頭を抱えて悲鳴を上げた。電気ショックを受けたように体を引きつらせる。耳を塞ぎたくなるような哀れな叫び声。彼は床に倒れ、なおも悲痛な声を上げてのたうち回った。
 その様子を、宮渕はべっ甲眼鏡の奥の残忍な目でじっと見守った。殺虫剤をかけた蜂の死にゆくさまを見守るように。床に転がる男の悲鳴が次第に弱まる。全身が痙攣する。宮渕はようやく、机の下から左手を出し、手にしていた楕円形の装置についたボタンを親指でゆっくり押した。
 頭痛は嘘のように消えた。部下は息をぜいぜい言わせながら体を起こし、膝に手を置いてよろけつつ立ち上がった。ひどく衰弱している。
 「探し出せ」
 「は」
 「日本中を探し出せ」
 「はっ!」
 宮渕は椅子から立ち上がった。窓辺に行き、大都会を見下ろす。ビルも道路も、電子回路のように小さく見える。
 「おそらく、仰木ユウスケという高校生が関与している」
 「仰木・・・ユウスケですか」
 「ユリエが事故の直前にファミリーレストランで発見した特殊能力者だ」
 「は・・・あ」
 「まさかと思うが、そやつはテレポーテーションが使えるのかも知れん」
 部下は愕然とした。
 「と、となりますと・・・」
 宮渕は外を眺めながら、左頬の黒ずんだ痣を指先で撫でた。歪んだ笑みを浮かべる。自分に問いかけるように、ガラス窓に向ってささやく。
 「行先はどこだ?」

○    ○    ○


 ヒロコについて語られたもう一つの場所は、都内の高級ホテルの最上階にあるスウィートルームだった。バスローブを羽織ったがっしりした体格の初老の男が、ロココ調のテーブルにつき、盛んに朝食を食べていた。メニューはロブスターのトリュフバターソース添え、真鯛の香草焼き、フカヒレスープにキャビア。
 初老の男はしきりに手と口を動かし、まるでそういう機械かなんぞのように料理を片端から平らげていたが、いかり肩から分厚い背中にかけてはほとんど動かさなかった。それは一種近寄りがたい威厳を彼に与えていた。瞼を押し潰したような眼差しは、目下のところ食べること以外には何も関心がないかのように宙を見つめている。
 テーブルの前には、初老の男と向き合う形で、一人の男が立っていた。小太りで、頭の中央は禿げ上がり、両脇の髪はざんばらに伸びている。上から万力で押し潰したような顔をしている。
 老人はワイングラスから水を口に含んだ。それからナプキンを首から外し、一つ嘆息し、両手の節くれだった指を拭った。
 すりこ木で擦ったような低い声で、彼は前に立つ男に語りかけた。
 「ヒロコを連れてこい」
 「はい」小太りの男は短く答えた。
 「生きたままだ」
 「はい」
 「小杉がしくじりよった。わしの想像通りのいい女だ。是が非でも手に入れたい。わしの思うには、富士山が怪しい。探し出して連れてこい」
 「はい」
 「自治連の奴らに洗脳される前にだ」
 「はい」
 「板井」老人は若干くだけた口調になり、今初めて彼の存在に気付いたかのように、目に親しみを浮かべた。
 「はい」
 「また太ったな」
 「は」
 「肉ばっかり食っておろうが」
 「は」赤くなった禿頭が下がった。
 「わしのように魚だけ食え。魚だけ食うと長生きできる」
 「肝に銘じます」
 「そうせい」老人は小さなげっぷをし、急にすべてに関心を無くしたかのように視線を落とした。「生きて帰ってこれたらの」

○    ○    ○


 オースプ富士研究所。
 建物の周りではヤマガラやホオジロが囀り、ミズナラの新芽が日を浴びて風に揺れる。白い建物だけが、入る人のない巨大な棺桶のように静かである。
 その建物の一隅で、ヒロコの新しい生活が始まった。それは過酷で容赦がなく、非人間的で、とてもこの現代に存在するとは思えない代物であった。ミサの表現を借りれば、「鉄釘でびっしり埋め尽くされた」時間の連続であった。
 三人部屋に寝泊まりし(同室者はミサと、もう一人、チアキという名の眼鏡を掛けた小柄な女性であった)、朝五時に起床。十分で支度を整え、自室と廊下の清掃。それから大講堂に集まり、三百人一斉の体操と四十分間の瞑想。瞑想中少しでもぐらつけば、竹刀が飛ぶ。その後リーダーの訓示があり、それからようやく朝食と十五分の休憩。それからが「初等訓練」と呼ばれるものの本番である。
 訓練の初日に、フミカから説明があった。広い講堂で、二人だけ残り、床に胡坐をかいて向き合った。二人とも黄土色の貫頭衣姿である。ヒロコは指示を受け、紺色のカチューシャを外している。カチューシャまで外すと、彼女は本当に自分が自分でなくなったような気がした。
 フミカは痩せているが引き締まった体つきをしていた。そばかすのある顔はほとんどいつも無愛想であった。自分に厳しく生きてきたせいで、他人にまで厳しくなってしまったタイプの女性である。彼女はヒロコに全く関心がないかのように床を見つめ、ぼそぼそとしゃべった。ヒロコは最初、自分がひどく嫌われているのかと思ったが、のちにそれは、彼女が誰に対しても取る態度だとわかる。
 「能力を高めるのに、必要なのは、何だと思う」
 自分に質問されていることに、ヒロコはすぐには気がつかなかった。
 「あ・・・わかりません」
 「肉体と精神の酷使。それから、孤独」
 切れ上がった二つの目が、ヒロコの反応を確かめた。
 「孤独。わかるかしら。残念だけど、幸せを感じてたら、特殊能力なんて身に付きゃしないの。親子関係や親族とか友人とか、そういった人間関係を一切断つ。過酷な環境で修業する必要があるの。恋愛も一切禁止。いい。この建物の中は恋愛厳禁なの。自分たちの能力を保つためなら我慢してもらわないとね。SEXなんてしちゃうと、一発で能力を失うらしいよ。残念だけど」
 切れ目のフミカは赤面するヒロコを見て、意地悪い笑みを浮かべた。
 「要するに、超能力者なんて、とんでもない不幸者ってわけ。あんた、それでも特訓を受ける気ある?」
 鼻で笑って、フミカは立ち上がった。
 「まあ、やる気がなくても、ここで生きたけりゃやるしかないけどね」

 訓練が始まった。それは主として、体を鍛えるというより、体に痛みを与える内容であった。座禅を組まされ、四方から容赦なく竹刀で叩かれた。どこを叩かれても、座禅を解くことを禁じられた。しかし激痛に耐えきれず身をよじると、怒鳴られた上なお一層強く竹刀を浴びせられた。どんな困難な状況でも精神を集中させるための訓練、とのことであった。座禅の次は、狭い部屋に移動し、ベッドに手足を固定され、電気を体に流された。ここでもやはりじっと耐えるよう要求された。彼女の体はゴム人形のように痙攣し、跳ね上がり、とてもじゃないがじっとするどころではなかった。また、滝のある場所に連れていかれ、シャツ一枚になって、冷たい水を半時間浴びせられもした。とにかくどんな外圧を受けても、揺るがない精神力を求められた。体を痛めつけることが一段落すると、目隠しをして、長い廊下を真っ直ぐに行ったり来たり歩かされた。少しでも体が揺らぐと、やはり竹刀が飛んできた。
 ところで、訓練の間中、ヒロコはずっと涙を流し続けていた。理不尽、という言葉の言葉の意味が、今明確にわかった気がした。流れ出るのは涙だけでなく、鼻水も、時には涎も、汚く彼女の顔を伝った。しかし彼女は決して声を上げて泣かなかった。何か彼女自身にも得体の知れない、強力な意志に突き動かされて、文字通り死に物狂いになって彼女は訓練を受け続けた。
 午前中いっぱいはフミカの調教を受けた。
 昼食。広い食堂に、貫頭衣姿の男女たちが百人以上ひしめいていた。しかし全身あざだらけで疲労と吐き気に混沌とした精神状態のヒロコには、周りを見渡す余裕がなかった。食欲はまるでなかったが、無理してでも食べるように言われた。能力開発に必要な薬物が含まれているからとのことであった。彼女は背中を丸め、魂の抜けた囚人のようにぼそぼそと食べた。料理はどれも水に晒したような薄味であった。 

 午後は個別の講師に順番に指導を受けた。
 最初は建物を出た敷地内。生徒はヒロコの他にも十八人。講師は黒髭の谷であった。
 意外なことに、彼は特殊能力者ではなかった。何の超常現象も起こせなかった。元自衛隊の曹長であり、兵器の専門家ということであった。  「新米が一人加入したから、現状について簡単に説明しておく」
 地べたに六人ずつ三列に座らせて、その前にライフルを抱えて仁王立ちし、彼は説明を始めた。
 「聞き飽きた野郎は我慢して聞け。目下、我々は戦時下にある。これは事実だ。我々と敵対関係にある組織はごろごろある。一つは公安という警視庁の特殊部隊。お前らと同じ種類の人間を大量に雇っている。すでに小競り合いが幾つかあった。こちらは死者一名、負傷者三名。向こうは二名の死者を出している。今一つは磐誠会」
 初めて聞く言葉の響きに、地面を見つめていたヒロコはぴくりとした。
 「ヤクザだ。ここにもお前らと同じ芸当のできる人間が何名かいる。双方の間でまだ死傷者は出ておらんが、いずれは全面衝突する。確実にする。ヒロコとその友人、これは公安のスパイだな、そのユリエを襲ったミニバンは、奴らの仕業だ。昨日朝、駅のプラットフォームでうちの新米を突き落そうとした駅員も、おそらく奴らの一味だ」
 ヒロコは顔を上げた。
 「もちろん」谷はちらりとヒロコを見やってから、すぐに顔を背けた。「ミニバンの運転手も、駅員も、磐誠会の組員なんかじゃねえ。心を操られたただの一般庶民だ。操り人形たちが死んでも、組の連中は痛くもかゆくもないってわけだ。つまりだな、奴らはあらゆる人間を我々の敵に変える力を持ってるってことだ。俺たちがなん人に対しても警戒しなきゃいけねえのはそのせいだ。奴らは、前々から我々のアジトを付け狙ってたが、いよいよ本腰を上げて乗っ取りにかかるものとみられる。あー、それは」
 谷は再びヒロコの方を横目で見て、彼女が自分をじっと見つめていることを確認した。彼はちょっとだけ言いにくそうに口に手を当てたが、そういう自分にさも不愉快げに顔を顰め、言葉を続けた。
 「それは、我々が殺傷能力のある超能力者を手に入れたからだ」
 微かにではあるが生徒たち全員に動揺が走った。ヒロコは、すぐにでも立ち上がり、ここから走り去りたい気分に襲われた。
 谷は髭の裏を粗暴に掻いた。
 「だがよ、その新米も含めてだが、お前たちの能力はまだまだ、戦闘能力の域に全く達してねえ。敵が火器や凶器を持って攻めて来たら、それを防衛するのはやっぱり飛び道具だ。だから、元自衛官である俺が雇われて、お前たちに武器の使い方を教えるってわけだ。本日はこのM4カービンを使った装填、射撃、また、警備体制下における銃口管理などを訓練する。その前にいいか、これだけは忘れるな」
 黒髭の指導教官はじろりと全員を見渡した。
 「今から俺が教えるのはままごとじゃねえ。実戦のための訓練だ。実戦においては、侵入者は躊躇なく殺せ。奴らは躊躇せんぞ。お前らを殺すことにな。以上。起立!」

 ダンベルのように重い、とヒロコの感じるアサルトライフルを抱えての訓練は二時間に及んだ。立膝を突いて構えたり、匍匐して狙いを定めたり、ライフルを抱えたまま林間を走らされたりした。谷は時折にやにやしながら新米の動きを監督した。
 「お前ら、ちっとは特別な人間を気取ってるかも知れんが、俺に言わせりゃ、しょせん人間だ。いいか。世の中で、一番脆くて頼りにならんのが人間だ。肝に銘じとけ!」
 ヒロコが薬莢を落としたときは、彼は彼女の脇腹を蹴り上げた。
 「命より大事なものを落とすな、馬鹿!」
 汗と土まみれの顔で、震えながらヒロコは教官を睨み返した。
 「なんだこら、俺を燃やす気か?」
 みんなの動きが止まり、緊迫した空気が流れた。ヒロコは血の出るほど唇を噛みしめていたが、項垂れ、冷たい木漏れ日を背に浴びながら薬莢を拾った。

 日が西に大きく傾くころ、初日最後の「講義」があった。それはエイジの個人レッスンであった。
 名前を呼ばれ、ヒロコは最上階である三階に上がり、『瞑想室』と書かれたドアをノックした。そのころまでには、彼女は疲れ果ててほとんど意志というものを無くしていた。
 「入りたまえ!」
 部屋の中は暗い。壁際に燭台と火の灯った蝋燭が並べて置かれ、その仄かな灯りだけの空間に、坊主頭のエイジが胡坐をかいて座っていた。
 「そこに座りたまえ」
 彼は会議室のときよりずっと老けているようにヒロコには見えた。凛々しい眉は相変わらずだが、顔にくっきり陰影がつき、整った顔立ちを醜悪に見せている。
 燭台は左右の壁に五台ずつ、エイジの背後に二台、ドアの傍らに二台。まるで生贄の儀式のようである。心身ともに疲れ果て、もはや何をされても驚かないほど不感症になっている自分は、生贄にぴったりな気がした。
 「これは幻影じゃない。本物だ」エイジはにこりと笑った。「蝋燭の灯りは瞑想するのに適しているからね・・・それは心と同じように揺らぎ、心と同じように静まる・・・さてと、初日はいかがだったかな?」
 この男をどうしても好きになれない気がしていたが、その理由はおそらく、この男がどこかで、人を弄んでいるように思われるからだと、ヒロコは自覚した。
 自分の思考を読み取られる懸念もあったが、一方で、今は心を読み取られていないという不思議な確信があった。それは「気配」のようなものだった。
 部屋の中は肌寒い。
 エイジは目を閉じ、鼻で深呼吸をした。燭台の蝋燭の灯りが、一度に一回り小さくなった。
 「では、始めようか」
 独り言のようにつぶやく。と、エイジの体が、すっと、胡坐をかいた姿のまま床を離れた。見る間に天井近くまで浮上し、停止した。
 ヒロコに格別の驚きはない。これくらいの能力はある男なのだろう。ただ、座禅を組む人間を下から見上げるのは、なんとも気味が悪かった。
 上から声が響く。
 「この個人授業は、ある一定レベル以上の能力を潜在的に持つ者に対して行われる」
 エイジは今度は、ヒロコの目の前まで下降してきた。それでもまだ床から十センチほど浮いている。至近距離から見つめられて、ヒロコはたじろいだ。
 「超能力には実にさまざまな種類がある。中には面白いものもあってね。やがて君も当人に会うだろうが、他人に眠気を与えるだけの男とか。は! そんな奴も本当にいるんだよ・・・だが君の場合は、明らかにかなりの潜在能力を有している。それもかなり強い能力だ。カチューシャを外させた理由がわかるかな」
 ヒロコは思わず髪の毛に手を当てた。
 「あのカチューシャが、君の能力をある程度制御していたんだ。あれは、おそらく公安の指示か何かに従って、君のご両親が君に着けたものだ」
 何事にも動じなくなっているヒロコも、この話にはさすがに目を見張った。
 エイジは床の十センチ上を滑るように後退し、元の位置に戻り、姿勢を崩さないままふわりと着地した。その間、彼は話を続けるのを躊躇った。
 眉をピクリと動かすと、彼はまた語り出した。
 「君によく似合うカチューシャだった・・・ずいぶん幼いころからあれをつけていたんだろう・・・あれをつけると、ある程度だが、感情の暴走を食い止めることができた。つまり、君は小さいころから、潜在的な能力保持者として目をつけられていたんだ。君は気づかなかったろうがね。君のご両親は公安と内通していた。一つ事実を教えておこう。君のご両親は、君の本当の肉親ではない」
 気力を支えていた最後の一本の柱が、折れたような気がした。枯れたはずの彼女の目に涙が浮かんだ。「嘘」
 「嘘ではないことを、我々の調査班が調べ上げている。君は生まれたとき、すでに脳波に超能力者特有の兆候があった。サイ反応と呼ばれるものだ。そういうとき、肉親は国から二つの選択を迫られる。一つは、薬物投与や手術によってわが子の危険因子を消し去る。普通の子に戻すわけだ。早期発見早期治療というやつだな。もう一つは、育児を放棄し、国に委ねる。国がその能力を開発する方向で育てるのだ。国がね。親もとじゃだめだ。君もすでに教わったろうが、能力開発には孤独な環境が必要だからね。何より国は、超能力者を完全に管理下に置きたいのだよ。君の肉親は、国に委ねる方を選択した。その経緯は詳しくはわからない。君の本当のお父さんとお母さんがどこにいるかも、我々は掴んでいない。ただ、わかっていることは、君は偽物の父親と母親を送り込まれた。国から派遣されたスパイだ」
 彼女は自分でも気づかないうちに両膝を立て、膝と胸との間に顔を埋めていた。涙はそれ以上出なかった。泣きたい感情なのだが、どうしても出てこなかった。しかし今の顔を見られたくはなかった。
 エイジは目を細めた。「うすうす気づいていたか」
 ヒロコは顔を埋めたままである。
 「気づいていなければショックだろう。普通は施設に預けられるのに、なぜああいう形で、偽の両親を用意したかはわからない。君はずっと騙されてきたんだ」
 ヒロコはわずかに顔を上げた。かすれ声で尋ねた。
 「おじいちゃんと、おばあちゃんは」
 「二人は君と血のつながった、実の祖父母だ。もちろん事情は知っている。君のふた親は養育権を放棄し、祖父母は留まったのだ。なぜそういう形を取ったかは、理解に苦しむ」
 理解なんてしたくなかった。ヒロコは今こそ全力で、ここを飛び出し、祖父母のもとに戻りたかった。もう何もかもがうんざりだった。
 遠くから、エイジの声が聞こえてくる。
 「君は偽物の呪縛から逃れ、鎖も外したのだ。君は、本当に自由になったんだ、ヒロコ。カチューシャがあっても、君は人を燃やすことができた。それを外した今、君がどんな風に能力を発揮していくかは、とても楽しみだし、正直、怖いくらいだよ。君は遠からずこのように空中浮遊できるかも知れない。ユウスケが見せたように瞬間移動できるかも知れない。あるいは───私もそうなんだが───それら複数の能力を同時に使いこなせるようになるかも知れない。その可能性も十分あると、私はそう思っている。そういうのを高次超能力者と我々は呼ぶ。高次超能力者は二つのことに責任を持たなければいけない。自分も、周りも、危険に巻き込まないためにね。一つは、自分の能力をコントロールできること。もう一つは、他人の攻撃を防ぐ力を持つこと・・・聞いているのか?」
 エイジは言葉を切り、唾を呑み込んだ。彼は異変を察知した。ヒロコが、激しい憎悪の形相で自分を睨んでいることに気づいたのだ。
 <この男をここで燃やせば、ここから逃げられるわ!>ヒロコは制御しがたい強烈な感情に支配されつつあった。<この男を殺せば、おじいちゃんとおばあちゃんのところへ帰れる。帰りたい。もうやだ。もういや。もう、一刻も耐えられない。この男を、この、人の運命を弄んで笑っているこの男をここで焼き殺せば───>
 しかし、ヒロコは再び項垂れた。殺意が途切れた。我を忘れるまで殺意を高めることは、できなかったのだ。現実的でないことは、彼女もよく承知していた。
 見ると、エイジはいつの間にか、右手に何かを握っていた。白く、手の平に乗り、楕円形のもの。
 「これは」
 ヒロコの視線に気づき、少しばつの悪そうな表情になり、彼はまるでその機器を初めて手にしたかのように、ためつすがめつして見せた。
 「ジャマーと呼ばれる機種で、公安の連中が使っているもののレプリカだ。うちのイモリが、構造をまねて作って見せた。イモリっていうのは、昨日会議室にいた顔の細い男だよ。覚えてないかな? わが研究所の優秀なコンピューター技師だ。公安の宮渕などは、これの何倍も強力な奴を持っている。これはある一定の周波数の電波を出して、超能力者を苦しめることができる。能力の発揮を防ぐこともね。宮渕はこれで超能力者たちを懲罰し、操っているわけだ」
 彼は苦笑いを浮かべた。
 「君が能力を発揮するのを恐れて、これを取り出したわけではないよ。君は今、カチューシャも外れて危険性を増してはいるが、まあ、まだ私に防げない程度ではないと思う」
 エイジの笑い声が暗がりに吸い込まれていった。
 彼は真面目な顔に戻った。陰影が彼の顔に刻まれた。
 「この授業では、まずこのジャマーに君が打ち勝つための訓練をするつもりだった。君の身を守るためにね。しかし、その授業は明日からにしよう」
 燭台の蝋燭の灯りが一回り大きくなった。ヒロコの背後のドアが、誰の手も借りずに音を立てて開いた。
 「戻りたまえ。君は今日、もう十分苦しんだ」

 四半時が過ぎた。
 ヒロコが去った後の瞑想室では、蝋燭の灯りがかすかに揺れる中、エイジがなおも座禅を組んだまま、じっと暗がりの中にいた。目を閉じ、眉間に皺を寄せ、微動だにしない。その額には、うそ寒い空気の中にも関わらず、うっすらと汗が浮き出ていた。

○    ○    ○


 日が早くも林間に没するころ、すえた臭いのする狭いシャワールームで、ヒロコはシャワーを浴びた。
 天井付近の壁に取り付けられたカランから、湯気を立ててシャワーが迸り出る。皮膚が濡れた瞬間、ヒロコは呻き声を上げた。竹刀の跡が背中の縦横に幾筋も走っていたからからである。腫れ跡に湯はひりひりと沁みた。それでも彼女は裸身を濡らした。痛みなんかどうでもよかった。止めどなく湧き出る涙を流し去ってくれればよかった。感情は抑えきれなくなった。拳を振り上げる。シャワー室の三方は板塀だが、カランのついている壁だけはセメントだった。そこをヒロコは拳で叩いた。どうしても開けてくれない扉を叩くように、右でも、左でも叩いた。セメントの壁なら叩いても外に響かず、誰かに見つかることもないからである。何かを叩かなければ、この悲しみのやり場をどうすることもできなかった。
 <ずっと、ずっとずっと、ずっと、騙されてきたのよ。お父さんとお母さんに。いや違うわ。お父さんとお母さんじゃない。お父さんとお母さんの演技をしてきた赤の他人によ!・・・ひどい。あまりにひどい。何となく、何となくわかってたわ。私をあんまり愛してくれてなかったもん。いつもよそよそしかったもん。でも、なぜ? ひどすぎる! だったらなぜ、家族旅行に行こうなんて言い出したの? あの朝、私を連れ出して、どうするつもりだったの? あれも・・・あれも全部、私を騙すための家族という演技?>
 拳を壁に打ちつけるたび、拳の上を水しぶきが走り、ヒロコの顔にかかった。彼女は拳だけでなく、自分の額も打ちつけた。やがて力が尽き、これ以上片時も立っていられなくなり、ふらふらと床のタイルに両膝を突いた。仰向いて熱い飛沫を浴びる。高い位置から勢いよく落下する湯は、彼女の細い裸体に鋭く打ちつけた。床に近くなった分、すえた臭いがきつくなったが、そんなことは全然構わなかった。このまま全身が溶けるまで浴び続けたかった。
 彼女は自分の二の腕を愛おしくさすった。白く、弾力があり若々しく、内心自慢にしている肌であった。それが今日、なんと酷使されたことか! 
 <地獄よ・・・ここは地獄だわ! 狂ってる。ここの人たちは、みんな狂ってる。能力って何よ。異常なだけじゃない! 変人よ。みんな変人よ。なのに自分たちは何でもできると己惚れているのよ! フミカって人、大嫌い! 私を苛めるだけ苛めて楽しんでたわ。無表情だけどわかるの。ああいう女は、同性を苦しめることが生き甲斐なのよ。あの人何ができるっていうの? 自分もあれだけの訓練をしてきたの? 信じらんない。ユウスケ君も・・・ユウスケ君も、あんな無茶なことをされてきたの?>
 ぼさぼさ頭のユウスケのことを考えると、ヒロコは胸が痛んだ。会議室で、リーダーのエイジに抗議した時の彼を思い出した。ショックを受け、申し訳なさそうに自分を見る目。
 まだ膨らみの足らない両胸を抱きしめ、ヒロコは項垂れてシャワーを浴びた。
 <寂しい・・・すごく寂しい・・・帰りたい・・・どこへ?・・・おじいちゃんとおばあちゃんは、私の本当のおじいちゃんとおばあちゃんなんでしょ?・・・でも、でもどうしてあの人たちも私に嘘をついてきたの? あの人たちも宮渕とかの味方なの? 私・・・どうなっちゃうんだろう・・・私まだ高校生なのに・・・>
 「シャワーの使用は十分間!」
 フミカの声であった。外で監視しているのだ。ヒロコは歯を剥き出しにして怒りを表した。誰にも見せたことがない、野獣のような形相だった。
 彼女は拳を固めて、片足ずつ立ち上がった。

 消灯は夜十時。あと数分を残す。
 ミサと同室であることは、数少ない救いの一つであった。ヒロコはざっくばらんなミサの性格に、初めて会った時から親近感を覚えていた。ちょっとこちらがイライラするほどお節介過ぎたり、口がよく滑る傾向も含めて、安心感があった。しかしこの組み合わせは幸運でも何でもなく、新米の女性メンバーはある時期まで彼女と一緒の部屋をあてがわれるのが通例であることがわかった。ミサは初等訓練で傷ついた体を、文字通り「手当て」できたのだ。
 背中を出してうつ伏せになった姿で、ミサに手を当てられた。
 「もっと呼吸を楽にしなさい。固い固い。あのね、筋肉を固めたら治りにくいのよ。襲ったりしないから安心して」
 長髪を後ろで束ねたアメリカの先住民族のような風貌の彼女は、絶えずべらべらしゃべりながら、手だけには念を込めて患部にかざした。
 「あんた相当やられたねえ。ちょっとこりゃひどいわ。フミカは手加減しないからね。ふうん。ま、それだけ期待されてんだ」
 ミサの手のかざされた部分は、じわじわと薬が沁みるように効いてくるのをヒロコは感じた。痛みが嘘のように退くのだ。
 「ど・・・どういうことですか、期待って」
 「動かないの。こら。効きが悪くなるわよ。え、何だって? 期待? そりゃ、潜在能力の高い人間ほど、訓練は厳しくなるもんよ。そうでしょうが。だってほら、そうでしょう。自分で自分の能力をコントロールできなきゃ困るでしょうが」
 三段ベッドの二段目に寝そべって眺め下ろしていた丸眼鏡のチアキが、上から口を挟んできた。
 「そんなことないわ。フミカは誰でも半殺しの目に会わさないと気が済まないのよ」
 「そりゃあんたが真面目にやらなかったからでしょ」
 「ひどい。私だって一生懸命やったもん」
 「たまに冷蔵庫の中身が見えるくらいじゃね」
 「ひどい。あんただって、手かざしに毛の生えたような真似しかできないじゃんか」
 「毛の生えたので結構。チアキは早く寝たら? あんた明日は東京まで偵察に行くんでしょ?・・・さ、だいぶ良くなったわよ。どう?」
 ヒロコは肘を突いて上体を起こし、背中に手を回してみた。
 「あ、ありがとうございます。とっても楽になりました」
 「一瞬で傷跡がなくなるような芸当はできないけどね。何しろ毛が生えた程度ですから。それでも、そうね、腫れはずいぶん退いたわよ」
 「どうせまた明日付くのよ」チアキが顔も見せずにつぶやいて見せた。
 上のベッドを嘆息して見上げてから、ミサは長い後ろ髪をさらりと梳いた。
 「まあ一年は我慢ね。一年目だけなのよ、こういうのは。こういうのって・・・だから、軍隊みたいにビシバシやられるのはってこと。あのさ、今読んでいる本にさ、あなたみたいな娘が出てきてね・・・とっても可憐な子なんだけど・・・いろいろ苛められるのよ。男に。ムチとかでさ。この背中の傷だって、男にやられたんならまだ快感もあるだろうに」
 ヒロコは顔を赤らめて慌ててシャツを着た。
 チアキがベッドから再び顔を出してきた。
 「あんた、人を燃やしたって本当?」
 ヒロコはすぐに返事を返せなかった。ミサが、彼女の代わりに上のベッドを睨み上げた。
 「その能力で一番苦しんでるのはこの子なのよ。ちょっとは考えてものを言いなさい」
 それからミサは優しくヒロコの肩を叩いた。
 「さ、あんたは一番上よ。梯子を登るだけの体力は残ってるわね」
 「ありがとうございます」
 ヒロコは二倍くらい重くなったように感じる自分の体を起こし、ようようのことで梯子を登り、自分のベッドに倒れこんだ。朦朧とした意識の中で、自分が人殺しであることをぼんやりと思い起こしていた。
 ミサが部屋の電灯を消した。
 暗闇と静寂が訪れた。
 「人を燃やすときってどんな気持ち?」チアキの声が一段下のベッドから飛んできた。
 「その口に枕でも押し込んで黙って寝なさい」ミサの声がさらに下から飛んできた。「それと、寝てる人をあんたのいかれた透視で覗き見するの止めなさい」
 「し、してないわよ。そんなこと、してるかどうか、わかる能力ないくせに」
 「あんたの人格を知ってるからわかるのよ。大人しく寝ないと私の手当てでぎっくり腰にさせるわよ」
 「え、え、え、ミサって、そ、そんなこともできるの」
 「嘘よ。あのね、新人君は疲れ果ててるの。寝かせてあげなさいよ」
 「ちょっと知りたいだけじゃない。ねえ、おーい、ねえ。あんた聞こえてんの」
 返事はない。
 「ほら、バタンキューよ」とミサ。
 「ちぇっ、おやすみ」とチアキ。
 「おやすみ」とミサ。
 ヒロコは、実際、すでに寝入っていた。怒涛のごとく過ぎた一日の疲れに、毛布をしっかり体にかける元気すらなく、死んだような深い眠りについていた。下の二人の会話は、途中までしか頭に入ってこなかった。
 閉じた目からは、一筋の涙の、まだ乾かない跡があった。

第二話 その三へ

homeへ

 
Copyright (c). 2015 overthejigen.com