火炎少女ヒロコ


第二話  『捕囚』

その三

 



○    ○    ○


 樹海の中の施設に入って二十日ばかりが過ぎた。
 厳しい訓練は毎日続いた。竹刀が走り、怒号が飛んだ。気を失い、冷水をかけられて目を覚ました。食べたものを三十分後に戻し、その後片付けをさせられた。訓練が進むうち、ヒロコはだんだん、余計なことを考えなくなっている自分に気付いた。感情を失い、短期記憶を失った。ついさっき起きたことを思い出さなければ、心が葛藤することもなかった。彼女は優秀な機械のように黙々と指示に従った。ただし、AUSPの考えに染まったわけでもなかった。ここで行われる何もかもが、納得できなかった。彼らの一員になりたいとはとても思えなかった。かと言って、彼らを憎む精神的余裕すらなかった。訓練のメニューは毎日続くものもあれば、日替わりのものもあった。朝の集団瞑想は必ず行われた。軍事訓練も頻繁にあった。中には、風変わりな訓練もあった。建物の見えない場所にいる人数を当てさせられたり、五メートルほど離れた床に置かれた蝋燭の火を念力で消すよう命じられた。どれも、結果は芳しくなかった。いつまで経っても、ヒロコは何もできなかった。
 臨床検査を週に二度ほど受けた。「博士」と呼ばれる白髭の初老の男が、白衣を着て診察した。初日の会議室での面会のとき、ユウスケを諌めた人物である。血液検査をし、脳波を取られ、薬を飲まされた。この「博士」も、黒髭の「谷」と同じく、特殊能力を何も持たないことを本人の口から知らされた。本人曰く、全くの学術的興味からこの団体に接触したのが、ここと関わることになったきっかけらしい。 
 彼は検出されたデータを見て、首を捻った。
 「能力は、そうさな、おそらく凄いものがあるんだがなあ」
 回転いすに深く腰掛け、床にまで綿々と続く長い脳波のグラフを見ながら、彼は眉を顰め、白髭をしきりにしごいた。
 「しかし、それを自由に使いこなせるってわけでもなさそうだ」
 ヒロコはベッドに腰かけたまま、しばらく考え込んだ。
 「私のは、病気みたいなもんでしょうか」
 博士は不意打ちを喰らったようにじっとヒロコを見つめた。
 「言いえて妙だ」彼は納得したように頷いた。隣に立っていた看護師の女が狼狽したが、博士は構うことなく何度も頷いて見せた。
 「うむ。全く言いえて妙だ。そう。そうだな。おそらく君の能力は、ある種の病気みたいなもんなんだろう」 

 生活が進むにつれ、ヒロコは建物の居住者たちのことがいろいろわかってきた。エイジから聞いていた、睡魔を催させる能力を持った男にも会うことができた。
 一人で昼食を取っているときだった。なぜここの食事はいつもこんなに不味いのだろうと思いながらヒロコが黙々と匙を口に運んでいると、目の前に小太りで短髪の男が現れ、椅子を引いた。
 「ここ、いいかい」
 以前テレビで観た芸能人の誰かに似ている、と思いながら、ヒロコは会釈で同意を示した。
 「君、新入りの火炎少女だろ」
 ヒロコは目をしばたたいた。初めて聞く言葉であった。
 「あ、火炎少女って君自身は言わないよね、もちろん。巷のうわさでさ。巷ってつまり、下界でってことだけど。ニュースとかすごいらしいよ。あ、これ本人に言っていいのかな」
 小太りの男はひそひそ声で口に手を当てたり急に周りを見渡したり、迷っている風を見せているが、明らかにしゃべりたそうであった。自分のトレイの食事には目もくれず、彼は身を乗り出してヒロコに話しかけた。
 「君、駅から失踪したじゃん。あれから、ニュースとか新聞とか大変でさ。いつの間にか火炎少女とかファイヤーガールとか名づけてさ、勝手に。まあ、昔の事件とか掘り下げたりして、どうもすべてが君の仕業じゃないかってね。何もわかってない論説委員がわかったように解説したりしてさ。あ、ごめん。気に障ったらごめんね。気に障った?」
 ヒロコは首を横に振ってから、「いいえ」と言葉を添えた。
 「でも君凄いよね。本物だろ? ヒロコって言うんだよね。俺ユメジ。ほんとはユウジって言うんだけど、みんなからそう呼ばれてるんだよ。眠らせて夢を見させるからさ。馬鹿馬鹿しいだろ。よろしくね。いや、凄いと思うよ、実際、君は。俺さ、俺、なあんにも能力ないんだけど、人を眠らすことだけなぜか出来てさ」
 極度に疲労が蓄積していた上、慢性的に心が塞ぎ込んでいたにも関わらず、ヒロコは思わず吹き出しそうになった。どこかで観たことがあると思ったのは、情けないキャラクターを売り物にしているお笑い芸人であったことを思い出しながら、ヒロコは急いで真面目な顔を作り、頷き返した。
 「お聞きしたことあります。眠気を与えるんですよね」
 「うん。まあ、超能力かどうかわかんないけどさ。羊数えてもできることだからね。なんだかほんとに詰まんない能力だよね」
 ヒロコは懸命に首を横に振った。
 「そんなことないです。なんていうか、平和で、その、本当に羨ましいです。あの、いつでもかけることができるんですか?」
 「うん。かけて欲しい?」
 「あ、いや・・・」
 ヒロコは本当に眠ったらどうしようと思った。彼女のためらいをよそに、ユメジは止めどなくしゃべり続けた。
 「俺、それしか出来ないからさ。なんでだろうな。ここが開設する前は秋田にいたから、訓練を始めてもう六年か七年くらいになるけど、でも全然ダメ。ほかの能力は全然ダメなんだ。蝋燭の火を揺することすらダメなんだから。びっくりするでしょ。その訓練は千回くらいやったけどね。でも催眠なら、誰にでもかけることができるんだよ。ガードされなければね。ときどき不眠症の奴に頼まれて・・・あ、もう眠った?」
 首をかくかく動かしながら前髪をスープの上に垂らしそうになっていたヒロコは、ユメジに肩を揺さぶられてはっと目覚めた。二人の成り行きを見守っていた周りの数名が、いつものことらしく、くすくすと笑った。ヒロコは真っ赤になった。
 「あ・・・寝てましたか」
 「うん、ごめんね」ユメジはどちらかというと気恥ずかしそうにもじもじと体を揺すり、トレイの食事を食べながらなおもしゃべった。
 「俺の場合、べらべらおしゃべりしながらかけるんだよ。催眠を。何でもいいから話し込んでいたら、相手が眠っちゃうんだ。お前それ、ただの退屈な男じゃないか、なんて悪口言うやつがいるけど、博士に測ってもらったら、脳波にちゃんとサイ反応が出てたんだから。だから超能力は超能力さ、たぶん。でも、どっちかというと、俺、心から真剣に聞いてもらいたい、と念じながらしゃべってると、相手が寝ちゃうんだ。だからさ、自分の願ってることと正反対の反応が起きちゃうんだ。なぜだか。そんなの嫌だよね。だって今は眠くないでしょ? 心から真剣に聞いてもらいたい、と思ってないもん。やっぱり変だよね。こんなの、能力とは言えないよね」
 ヒロコが曖昧な相槌をしていると、ユメジはさっさと食事を平らげ、「俺、天性の早食いだからごめんね」と言い残して、立ち去って行った。
 一人残されたヒロコは、中身の半分残ったスープ皿にスプーンを立てたまま、ぼんやりと物思いにふけった。ほとんど一つの能力しか使いこなせず、それすらも意に反して使ってしまうという点では、自分はユメジさんと似ている。だが、人に眠気を与えるとは、なんと幸福な能力であることか! 人を燃やすのとは違う。全然、違う。
 自分はユメジさんを笑えるだろうか?
 能力とは、果たして何なのか。スープの冷めるがまま、ヒロコはひとしきり考え込んだ。

 雨を降らせる女、というのにも出会った。
 この施設には「雨女」がいることを、以前、ミサに教えてもらっていた。
 「それも、本物のね」とミサは強調した。「変わってるけどね」
 その邂逅は、全く偶然に訪れた。  黒髭の谷による集団軍事訓練で、M4カービンを抱え、林間を二時間で十キロ踏破する、というものがあった。半行程進んだ地点で十分間の休憩を与えられた。ヒロコはあまりにも疲れ切って、他の者のようにその場にしゃがみ込むこともできなかった。ふらふらとみんなから離れた斜面まで歩き、そこで力尽きたように腰を下ろした。谷に対する呪いの言葉を小声で吐いた。
 ふと、何かが気になった。
 顔を上げて見渡すと、百メートルと離れていない松の木の根元に、白い服を着た老女が腰かけているのに気付いた。ヒロコは自分の目を疑った。黄土色か焦げ茶色の貫頭衣ばかり見慣れた目には、白い服自体が珍しかった。施設からも離れたこんな山奥に、なぜ。他の訓練兵たちの目の届かない場所だったので、ヒロコは銃を置き、重い足を引き摺り、こっそりと近づいてみた。
 枯葉を踏む足音で、老女はこちらに振り向いた。白髪交じりで、喉元も頬もやせ細っている。目は感受性豊かな少女のように潤いがあり、優しく見開いていた。
 「まあ、こんにちは」
 何と可愛い声だろう、とヒロコは思った。慌ててお辞儀を返した。
 「こんにちは」
 「訓練ですか。ご苦労様」
 「あの・・・」
 「私?」老女は微笑みを返した。「私はサキコって言うの。あなたは?」
 「ヒロコって言います」
 「そう。ヒロコさんって言うの。新入りさん?」
 「あ、はい」
 「どうぞ。こちらに腰かけて」
 火炎少女の噂は、この老女の耳には届いてないのだろう。ヒロコは老婦人の隣に座った。
 サキコと名乗るその人は楽しそうに、木々の隙間に広がる空を見上げている。
 「あの、何されてるんですか」
 「え? 私?」
 質問されることがさも喜びであるかのように、老女はゆっくりと笑顔をヒロコに向けた。「私、お空の色を見るのが好きなの。お空の色ってすぐ変わるじゃない。毎日こうして、お空の色を確かめにここに来るの」
 「えーっと・・・AUSPの人ですか」
 「そうよ。あなたもでしょう?」
 「はあ」
 今すぐにでもこの組織から逃げ出したいんですけど、という続きの文句は呑み込んだ。呑み込んだつもりであった。しかし、老女はまるでその声が聞こえたかのようにまじまじとヒロコを見つめた。
 「私も逃げ出したいの。どこか、遠くへね」
 しまった、この人は読心術が使える。ヒロコはすぐに心を閉ざした。そういう技術はここ一週間で随分容易にできるようになっていた。ただ、この女性に対して本当に心を閉ざすべきなのか、という迷いがあった。とても悪意のある人には見えない。
 誰かに尋ねたかった質問を、この女性に問うた。
 「ここから、逃げられるんですか」
 サキコは思いの外真剣な眼差しでヒロコの腕を握った。
 「駄目よ。逃げちゃ。逃げちゃ駄目。どんなにつらくとも、逃げたくても───逃げたいわよ。私も。いつだって逃げたいわ。海を見たいし、デパートで買い物して、おしゃれな服を着て・・・でもね、駄目なの。そんなこと望んじゃ駄目なの。ここが一番安全だから。私たちは、もう普通の人たちの社会には戻れないんだから。だって戻ったって、迷惑なんだから。ね、私たち、迷惑なんだから。普通の人たちにとって」
 哀願するように説得された。あまり哀れに訴えかけられると、人はむしろ頑なな気持ちになる。ヒロコはだんだん、腹が立ってきた。<どうして自分の存在に引け目を感じなきゃいけないの? どうして普通の生活を望んじゃいけないの?>
 腕を揺さぶられながら、自分は絶対ここを逃げ出してやる、と心に誓った。
 老女はヒロコの心の変化がわかったかのように、一層切実に口説いてきた。
 「駄目よ。ねえ。お願い。お願いだから逃げないで。私も昔好きな人がいたの」
 これには心底驚いた。心を閉ざしている上に、好きな人のことなんて考えてもいなかったからだ。<も、てどういうこと? 私───私に好きな人がいるの?>
 「とっても素敵な人だったわ。その人も特別な能力を持っててね。いろんなことができたわ。でも、私を守るために、自分を犠牲にして───自分の能力を、見せちゃいけないところで見せてしまったの。それで、公安に捕まって・・・めちゃめちゃな体にさせられたの」
 今や老女は目を潤ませて下唇を噛み、涙を必死にこらえていた。
 <いったい何なのこのおばあちゃんは?>
 気味の悪さと嫌悪感に、ヒロコは身を退いた。
 「ねえ、お願い。ヒロコさん。私たちは下界に行ってはいけないわ。私だって逃げたいの。逃げて、普通の生活に戻りたいの。でも、駄目。あなたも私も、ここに留まるべきなの。お願いだから、そんな目で見ないで」
 ヒロコの頬がピクリと痙攣した。
 「ここから、逃げようと思ったら逃げられるんですか」
 「そんなこと、やろうと思ったらできるわ」
 「どうすればできるんですか」
 「そんなこと聞かないで。道らしい道は駄目よ。見張りの人がいるから。でも、もちろん、逃げようと思ったら逃げられるわ。日の沈む方向へもう少し行ったところに小川が流れてるわ。途中、水芭蕉が咲いているはず。そこを下っていけば、集落に出られるわ。でも、行っちゃ駄目。絶対後悔するから。あなたの愛する人も悲しむから」
 悪魔的な笑みが顔に浮かぶのを、ヒロコは意識した。
 <愛する人? 知ったかぶって。なによこの人。逃げないでって言いながら、逃げ道を教えてるじゃない。からかってるの? それとも、秘密ができないほどお馬鹿さんなの?>
 ヒロコは立ち上がった。
 どうしてこう自分は残忍になれるのだろうと心の隅で思いながら、彼女はきっぱりと言い放った。
 「私は、逃げます」
 「どうして? どうしてそういうことを言うの?・・・悲しい・・・いけない私、楽しい気分で、楽しい気分でいなくちゃ・・・もう・・・駄目・・・」
 老女は泣き崩れて地面に突っ伏した。その姿を見下ろしながら、激しい罪悪感がヒロコを襲った。自分は、自分に優しくしてくれる人に対し、こういう苛め方をするんだ、ということに気づき、少なからぬショックを受けた。
 肩に何かが当たった。頭にも。雨。ヒロコは空を見上げた。いつの間にか空は薄雲に覆われ、細い糸を引く滴があちこちに落ち始めていた。
 雨? 
 ヒロコは驚いて老女サキコを見つめた。サキコは涙に濡れた顔を空に向け、深い後悔に襲われたように目を閉じ、唇を震わせて雨垂れを受けていた。
 「こら!」
 谷の怒声を背後から浴びて、ヒロコは慌てて振り向いた。
 「雨女を泣かす馬鹿がいるか! 戻ってこい! 休憩終わりだ!」
 <雨女? じゃあ、この・・・この人が?・・・本物の?>
 混乱する頭を抱えながらも、ヒロコは駆け足で隊に戻った。ときどきサキコの方を振り返りながら。戻ると案の定、谷から大目玉を喰らった。集合時刻の遅刻、並びにカービン銃を置いてその場を離れたことが叱責の内容であった。雨女が何であるのか、あの老女が何者なのかの説明は一切なかった。
 残りの行程を、谷の荷物も抱えて移動する罰を命じられ、日没後の森のように鬱屈した思いでヒロコは歩を進めた。

 夜、ヒロコは疑問をミサにぶつけた。
 「ああ、会ったのね。へえ。雨を降らされたんだ。本物だったでしょ?」
 ミサは文庫本から目だけ上げて答えた。文庫本の題名は『シーツの狭間で』。
 ミサのベッド脇の丸椅子に腰かけたヒロコは、それだけの答えでは満足しなかった。
 「ほんとにあの人が降らせたんですか」
 「そうよ。あの人、悲しくなると雨を降らしちゃうの。だから、普段はにこにこしてなるべく気分を落ちこませないようにしてるそうよ」
 チアキの丸眼鏡が二段目のベッドから顔を出した。
 「あの人神経がいかれてるからね。あんまり近づかない方が身のためよ」
 ヒロコは驚いた顔を上に向けた。
 「病気なんですか。あの人」
 「そうよ。気が付かなかった? 普通気が付くけどね。白い服を着ていたでしょ。あれ、精神病棟の患者が着る服なの」
 「・・・ここに、精神病棟もあるんですか」
 チアキは丸眼鏡を指で整え、勝ち誇ったように答えた。
 「訓練がきついからね、弱い人なんて簡単に精神がやられちゃうもんね。まあ、別の理由もいろいろあるけど。そもそもここでの生活に耐えられないとか。そういう人はね、根本的に弱いところがあるのよ」
 「人のこと言えるの」文庫本から顔も上げないで野次が飛んだ。
 「なに、なに、何言ってるの。私はちゃんと耐えてるわよ。こう見えても、私精神が強いからね」
 「神経が太いのは知ってるわよ」
 「あの」ヒロコはミサに尋ねた。「あの人、心も読めるんですか」
 「どうかな」ミサは文庫本のページをめくりながら答えた。「聞いたことないけど。ある程度はできるかもね。でもどうかな。あの人、感受性豊かだから、テレパシーで読み取らなくても、その人の表情とか見てるだけで、何考えてるかわかるんじゃない。そんな感じの人よね」
 ヒロコはしばし考え込んだ。
 「昔、好きだった人に助けられて、好きだった人はそのせいで公安に捕まったとか言ってたんですけど・・・」
 ミサは文庫本を倒した。
 「そんなこともしゃべったの、あの人」
 「ええ。男の人は公安にぼろぼろにされたって。でも、それって、随分昔になりますよね」
 口を出そうとするチアキを睨んだ目で牽制してから、嘆息し、頭を掻き、ミサは仕方なさそうに答えた。
 「あの人、いろんな能力があってね。自分を実際より早く老け込ませることができるの」
 「え?」
 「実年齢は、あの人はあなたより十ばかり上なだけよ。私より若かったんだから」
 ヒロコは絶句した。
 「事件が起こったのはほんの数年前。彼氏と二人でドライブしてて、彼女が運転手でね・・・対向車にぶつかりそうになったの。彼女の運転ミスらしいわ。もう少しで正面衝突ってところで、彼氏は自分たちを救うために、相手の車を吹き飛ばしちゃったのよ。サイコキネシスのすごく強力なやつね。それで公安に捕まったんだけど・・・でも、ぼろぼろにされたのは間違いよ。サキコさんの思い込みだわ。あの事件から、彼女の方の神経がおかしくなってね。責任を感じたのかしら。可愛そうな人。自分に老化のマジックをかけちゃったの。つまり、少しでも早く人生を終えたいってわけ」
 余りに意外な話に呆然とするヒロコに、上からチアキの声が降ってきた。
 「その彼氏というのはね、実は・・・」
 「あんたそれ以上その馬鹿口を開けて下らないことしゃべったら、明日の朝起きたら椎間板ヘルニアになってるわよ」
 「ば、ば、ば、馬鹿なこと言わないでよ。できもしない癖に。それから、馬鹿口ってなによ」
 消灯となり、布団に入ってからも、ヒロコは目を開けて考えた。
 <私の好きな人・・・>
 ぼさぼさ頭のユウスケの顔が浮かんだ。初日の会議室以来、彼に会っていなかった。施設と「下界」を行き来して相当多忙だということは人づてに聞いていた。自分は、彼が好きなのだろうか。いくら考えても、ヒロコにはわからなかった。ただ、会いたかった。会えばいろいろわかるような気がした。
 自分を老けさせた雨女のサキコ。精神病棟の服を着て、毎日樹海を彷徨い、逃げることもできず、空を見上げ、泣かないように努めている女。
 ヒロコは目を強く閉じた。
 孤独───どうしてここまで、孤独にならなければいけないのか。
 孤独が能力を高めるの、と言ったフミカの言葉を思い出した。ヒロコは布団の中でかぶりを振った。絶対にそんなことはない。絶対に。そもそも、能力なんて高めたくない。逃げよう。ユウスケ君と逃げよう。そうだ。彼はテレポーテーションが使える。彼と、ここから逃げよう。好きかどうかは───好きかどうかは、まだわからないけど。彼に会わなくちゃ。彼に会う。ユウスケ君に。ユウスケ君。

 蓄積した疲労によりヒロコが急速に眠りに落ちていった頃、長い眠りから目覚めた者がいた。
 ユリエである。
 病院の個室のベッドで、医療機器だけが小さな光を放つ暗がりの中、彼女はたった一人、目覚めた。医療関係者の予想をはるかに上回る長期にわたった昏睡状態のせいで、丸かった顔の輪郭は別人のように窪み、げっそりとやつれていた。しかし目は爛々と輝いていた。
 彼女はテーブルの上の、水の入った吸い飲みの容器に目を留めた。じっと、それを見つめた。強い確信を抱いて、彼女は穴のあくほど見つめた。
 プラスチック製の容器は、かた、かた、と音を立てて震え始めたかと思うと、ぱん! と大きな音を立てて潰れた。水は四方に激しく飛び散った。
 一瞬の出来事であった。
 容器の残骸と、水しぶきの跡を、ユリエは飽くことなく、じっと見つめ続けた。

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