火炎少女ヒロコ


第三話  『シリア』

その一

 



 「次は、火炎少女のニュースです」
 コバルトグリーンのスーツに身を包んだ女性ニュースキャスターは眉を吊り上げ、目を輝かせ、身を乗り出すようにして告げた。前のニュースが、自衛隊法改正を巡る与野党攻防により通常国会の延長が見込まれる、というあまりぱっとしない内容だっただけに、まるで次にこの話題を出せば日本中が盛り上がることを確信しているかのようであった。
 「六年前の児童炎上事件、二年前の男性炎上死事件、今年四月の駅員炎上死事件、と、三つの怪奇現象がすべて彼女の身近で起こり、三つの事件への関与が強く疑われている、通称、火炎少女Aさん。高校二年生の彼女が、今年四月の駅員炎上事件の際、現場である★市★駅のプラットフォームから姿を消して、これで三か月が経ちました。いまだ彼女の消息はつかめていません。各地で、彼女を見た、あるいは会って話をした、などの証言が複数警察に寄せられていますが、いずれも彼女の居場所を特定するには至っていません。彼女はどこに消えたのでしょうか。三人を燃やしたのは、本当に彼女なのでしょうか。そんなことははたしてあり得るのでしょうか。これはいったい、人類の歴史を揺るがす、前代未聞の超常現象なのでしょうか。それとも単に、巧妙にトリックを仕掛けた悪質な殺人及び殺人未遂事件なのでしょうか。その謎に迫ります。
 まずは解説委員の久保さんに解説していただきます。久保さんよろしくお願いします」
 画面は彼女の左隣に座る、小柄な五十過ぎの男に切り替わった。頭髪が薄く、胃腸が弱いのか顔色が不健康に青白い。朝から便通がよくない、というような苦り切った表情をしている。テロップには、『解説委員 久保文彦』とある。
 彼は、自分の発言に重みをつけるためか、暗い表情をさらに暗くして、とつとつと語り始めた。
 「はい。えー、これはですね、何らの着火操作もしていないのに人の体が燃え上がる、それも証言によれば、ほとんど瞬時にして全身が燃え上がっています。えー、そこに、火炎少女Aと呼ばれる少女の関与が疑われている。今のところ、タネや仕掛けは見つかっておりません。一方で、一部で騒がれているように魔力や超能力によるものだという科学的論証もできておりません。そもそも、事故なのか、犯罪なのか。はい。えー、その辺りはまだ捜査の行方を待たなければなりません。がしかしですね、いずれにせよ、非常に危険な現象であり、人命にかかわる災害であることには変わりはないんでして、いつ、どこで、誰が、燃やされるか予測がつかない。これはですね、人の生死に関わる重大問題ですよ。はい。例えば、インフルエンザの流行とか、エボラ出血熱の国内発生などに対するのと同じくらい、国を挙げて取り組まなければならない最重要課題だと思うんですよね。それなのに、政府はいまだ本腰を入れて取り組もうとしていない。警察も三千人規模の捜査態勢を取っていると言っていながら、いまだに女子高生一人の身を拘束しきれずにいる。こういう初動の甘さはですね、えー、これは結局、国も警察も、まさか超能力なんて、と、どこか馬鹿にしていたからだと思うんです。はい。ところがですね、現代の科学をもってしても解明できない現象はいくらでもあるんです。とにかくですね、真相が何であれ、ですよ。奇跡であれ、トリックであれ、国家の安全保障というものが第一なんです。安全保障の問題なのです。えー、その観点からして、政府の対応はあまりに遅きに失している。そのくせ秘密主義で、情報もなかなかマスコミに開示しない。と、こんなことではですね、えー、まあ変なたとえかも知れませんが、そのですね、宇宙人がもし今、目の前に現れて、地球を侵略し始めても、まさか宇宙人なんているわけないんだから気にするな、と国民に言っているのと同じだと思うんですよね。はい。同じだと思うんです。でも現に宇宙人は目の前に現れてるんです。火炎少女も出現してるわけなんです。そういうことなんですよ。はい。火炎少女Aの身柄拘束についてはですね、確かにいろいろ難しい問題を含みます。法的問題。何より、危険性の問題。まさに、非常に、危険な作業になると予測されます。だからですね、超法規的措置を含めたですね、国民の安全第一の立場に立った、柔軟な対策の検討が急がれると、こう思うわけなんです」
 「では、街の声をお聞き下さい」
 テレビ画面には東京の街並みを行く一般市民の姿が映し出された。
 裕福そうな身だしなみの婦人が、口に手を当ててインタビューに答える。
 「怖いですう。はい。そりゃ怖いですよお。うちの子にもあんまり外を出歩かないように言っています。特に公園とか、人ごみの多いところとか怖いじゃないですか。だって、ぱっと人を燃やせるんでしょ? え、睨んで燃やすの? 睨んで、燃やすの? そんなの、その子に睨まれたら終わりよね」
 女子高生の二人組が、ふざけ合うようにお互いを見て含み笑いをしながら、マイクに向かって答える。
 「え、まじ?って感じです。まじ、もしこの辺にその人がいたらやばいじゃんって感じです」と一人。
 「うーんと確か、うちらと同じ年齢の人ですよね、確か」ともう一人。「えー、なんか、ちょっと会ってみたいけど怖い」
 上着を脱いで肩にかける中高年のサラリーマン。
 「はい。はいはい。信じられないなあ・・・超能力なんですか? いやあ、まさかねえ・・・たちの悪いいたずらじゃないですかねえ。ま、いずれにせよ人殺しは人殺しです。一般人を燃やすことを何とも思ってない感じですもんね。なんか腹立ちますよ」
 街角の場面が消えた。「ここで一連の炎上事件を振り返ってみよう」と、やたらもったいぶった口調の男性ナレーターの声が入り、事件の経緯をまとめたVTRが流れた。小学児童炎上事件。山中での男性炎上死事件。駅員炎上死事件。画面が切り替わるごとに、刺激的な活字や効果音が躍る。
 再び、男性ナレーターの声。
 「我々取材班は、火炎少女Aさんが最初に燃やしたと思われる小学校時代の同級生にインタビューすることができた」
 画面にはぼかしが入り、音声が変えられているが、女のような甲高い声の主はサトシである。
 「はあ、その・・・大人しい子、だったです。なんか、暗かったっていうか。あまりしゃべらなかったっていうか。こっちが話しかけても、黙って無視したりとか、その、ちょっと何考えてるかわかんないところがあって。みんなのこと、嫌ってるのかなあって。はい。え? いや、でも・・・そんな、超能力とかは普段、全然感じませんでした。その、燃やされるまでは。燃やされるまでは普通でした。
 「びっくりしました。すごくびっくりしました、その、燃やされたときは。睨んできたな、と思ったら、一瞬で、体が、ぼーっと、はい。は?・・・はい。そうです。睨んできました。下校の時に、ちょっと声をかけたら、なんか虫の居所が悪かったっていうか、カチンときたらしくて。はい?・・・いやあ、感情が激しいってわけでも・・・普段はもの静かでしたから。え? あ、殺意ですか。殺意か・・・殺意は感じました。すごく感じました。ああ、殺されるって思いました」
 男性ナレーターの声。「火炎少女Aは、いったん睨んだ獲物は逃さない殺人鬼なのか。しかし一方で、彼女は全く普通の女子高生だったという証言もある。我々取材班は、Aさんが失踪前まで通っていた高校で、Aさんと親しかったという女性の話を聞くことができた」
 画面には、私服を着た女子高生の首から下が映し出された。声は替えられていない。
 その声は、向坂ユリエのものであった。病院のベッドで宮渕と話していた時とは比べ物にならないほど元気で、能天気に明るい声だった。
 「えー、あの子は、普通ですよお。普通。でもめちゃ可愛くて、ほんとめちゃめちゃ可愛いんですよ。学校の男子にもモテモテで、うーん、それで逆に恨まれたり因縁つけられたりすることがあったのかなあって。多分変な噂も、その人たちが言ったと思うんですよ。だってどう考えたって、念力で人燃やすとか、そんなマカ不思議なことありえないでしょ。はは、ありえないですよ。あたしむしろ思うんですけど、彼女がなんか別の組織から狙われてて、そういう、燃やすとかの濡れ衣を着せられるみたいな」
 インタビュアーの声。「あなたは、交通事故に巻き込まれそうになった彼女をかばって、自身が入院するほどの大けがを負ったということですが」
 「え、やだ、かばったわけじゃありません。車が急にこっちに向かって来たんで、逃げようと思ったらあれ? 彼女じゃなくてあたしが轢かれたみたいな。でもそれで彼女をかばえたんなら、嬉しいです。だってあたしたち親友でしたから」
 インタビュアー。「今、日本のどこかに潜伏していると思われるAさんに、親友として何かメッセージはありますか」
 「はい」ユリエは声の調子を整えた。姿勢も若干変えた。映っていないが、顔をカメラに向けたようである。
 「名前を呼べないのが残念だけど・・・Aさん。聞いていますか? どこかであたしの声を聞いていますか? 聞いてたら、ぜひ連絡をください。あたしはいつだってあなたの味方です。味方だよー。一日も早く元気な声を聞かせてください。心配してます」
 続いて画面は、円グラフを表示した。『火炎少女Aに対して、国はどんな対応をすべきだと思いますか』というアンケートの結果である。五十五パーセントが、法律の範囲内で逮捕を前提とした対応を検討すべきであると回答している。二十九パーセントが、法律の範囲を超えてでも、殺害を含めた対応を検討すべき、との回答。二パーセントが、炎上事件との因果関係がはっきりしない限り、逮捕すべきではない。その他十四パーセント。二十九パーセントの扇形だけ、少し突出して大きく、派手な色に塗られている。
 国民の三割が、殺害を含めた対応を検討せよと考えている。そのことを強調する演出である。
 円グラフは消え、画面は、太鼓腹に赤ら顔の人物を映し出した。テロップには、『日本超能力学会会長 田辺愼造』とある。
 ここまで観て、織部警部補は舌打ちしながら、テレビ画面から手もとの二合徳利に視線を落とした。
 茶色のくたびれたジャンパーを着て、私服である。
 いつもの生き生きとした快活さは鳴りを潜め、陰鬱で病的な目つきをしている。相当むしゃくしゃした感情が、体全体から滲み出ている。すでに幾分か酔いが回っている。
 駅前にある、そばとうどんを看板に掲げた大衆居酒屋。汚らしいことが店の存在意義であるかのように、天井近くに貼られた品書きは油染みでほとんど文字を判読できない。カウンターの隅っこには誰も拭き取らないねっとりしたゴミが溜まり、通路の床は注意深く見ない方が飲み食いするには都合がいい、といった塩梅である。集う客たちも、店の体裁に合わせるように、世俗的な成功や幸福のうち幾つかを諦めた観のある者ばかりである。
 織部警部補は昼間から、カウンターの端っこに一人座って酒を飲んでいた。そこから二歩で行ける距離にある小さなテーブル席には、体重百キロはあろうかというつるっ禿の男と、かつてはお洒落だったのだろうと思わせる、袖口の擦り切れた青いジャケットを着て、長い顎にまばらに無精ひげを蓄えた男が陣取り、ラーメンを啜りながら瓶ビールを酌み交わしている。無精ひげの男はかなりの喋り好きと見える。先ほどから、政治であろうが、知人の噂であろうが、パチンコの玉の出方であろうが、何から何まで、すべて自分一人だけ知り尽くしているかのように断定口調で切り捨てている。その度、巨漢の男が低い声でいちいち相槌を打っている。
 「だいたいありゃ、警察がよ、たるんでるんだ」
 無精ひげがテレビを見上げながら眉を顰めて言った。
 「最初の小学生を燃やした時に、ちゃんと逮捕して網走か府中かどっかに抛りこんでりゃ、こんなことにならなかったのによ」
 「そうだそうだ」禿の巨漢がビールを呷ってから頷いた。彼はアルコールでかなり上機嫌である。「手足を縛って牢屋に抛り込んでりゃよかったんだ」
 「手足縛ってもよ、睨んだら燃やすってんだから駄目よ。むしろ、精神科医よ。こりゃ、精神科医の仕事よ。精神科医が治療して、人を燃やしたくなくなるような幸せな夢でも年中見せておけばよかったのよ」
 「そうだ。精神科医の仕事だ。精神科医が治療すりゃいいんだ」
 「でもよ、まず捕まえんことにゃ、精神科医も手も足も出ねえじゃんか。だからおら言ってんだよ、小学校の時か、せめて中学生くらいのときによ、まだ本人があんまり強くねえときになんで警察はふん捕まえなかったんだ? 本人があんまり強くねえときが大チャンスだったのよ。こりゃ警察の大失態よ」
 聞いている織部警部補は身を固くした。当時、事件を担当していたのは自分である。酔いとは別に、顔がカッと熱くなるのを彼は感じた。
 店主が心配そうにちらちら見てくる。店主は彼の本当の身分を知っているのだ。
 <お前はこっち見ずにそばでもゆがいてろ、馬鹿>
 「なあ店主」無精ひげは賛同者を増やしたいのか、店主を巻き込みにかかった。「なあ店主、そう思わねえか店主? 警察がいちいちだらしねえんだよ。そう思わねえか?」
 「へ、へえ」
 店主はしどろもどろになって、いよいよ織部の方を気にした。
 「なんだよ店主」
 無精ひげは店主の動揺に目ざとく気づいた。彼は、自分たちにほとんど背中を向けて座る茶色いジャンパーの男をうさん臭そうに見やった。
 「なんだよ、このお客さんが何かその筋の人とでも言うのかい」
 織部の変わり身は速かった。職業柄、身分を偽るのには慣れてる。即座にただの酔っぱらいを装い、だらしなく弛緩した笑顔を作って、彼らの方を向いた。
 「え? 私かい? へへ、私は、ただの近所の人間だよ。えーまあ、知り合いにサツのもんがいるがね」
 「そうかい。ほお」無精ひげは思惑ありげに目を輝かせた。「なんだ、そのあんたの知り合いって人は、この事件に関わってるんかい」
 「いや、直接じゃないみたいだが」
 嘘が中途半端だったことを内心悔やみながら、織部は依然としてとぼけて見せた。「ただね、前例のないことだからね。警察も動きにくいらしいよ」
 「前例がないからこそ素早く動かなくちゃ警察の意味がねえじゃんか」と無精ひげ。
 「そうだ。警察の意味がねえ」と巨漢。
 「いや、あんたの知り合いを悪しざまに言うつもりはないけどね」と無精ひげはなおもからむ。「警察はたかが少女のやることって、ちょっと軽く見てたんじゃないかなあ」
 織部は酔いも手伝い、無性に腹が立ってきた。声の震えを抑えながら言い返した。
 「相手も何しろ、人間だからね」
 「人間じゃねえよ。人燃やすんなら宇宙人だよ。ほら、さっきの解説委員も言ってたろ。宇宙人と一緒だって。おらが思うに、その子は宇宙人だな。人間と考えちゃいけねえ。宇宙人だ。インベーダーだ。インベーダーA。人類の敵だよ。ただちに退治しなくちゃ、地球が危ないぜ」
 織部は我慢できなくなった。
 「なんでえ。少女を見つけた時点で、撃ち殺しておけば良かったってかい」
 二人の酔っ払いは思わずたじろいだ。呟き声であったが、はっとさせる凄みがあった。ぎこちない沈黙が店内を満たした。
 しん、とした中、テレビが唯一、絶え間なく口を開いて次のニュースを告げていた。警察と自衛隊が協力し、昨日、富士山麓にあるとされる新興宗教「オースプ」の不法施設に対し、一斉捜査に乗り出しました。が、霧も深く、電波も混乱し、施設の所在地を特定するに至らなかった模様です・・・。
 織部はふとテレビの内容が気になり、ちらりと見上げたが、意識は依然として、テーブルの無精ひげと禿げ頭の二人に向けていた。次に何を言われるかを警戒した。警察の人間であることがばれるかも知れない。そのときは、どう切り返そうか───。
 しかし彼は、もう一人、先ほどから自分のことを興味深そうにじっと見つめている人物に気付いていた。この店は間口が狭く、細長い造りをしており、厨房を真ん中に置いてぐるりとU字型に長いカウンターがしつらえてある。そのU字型のカウンターの、厨房を挟んで自分と真向いの席に、その人物は腰かけていた。幾つかの小皿を注文し、瓶ビールを脇に置いているが、瓶にはほとんど手を触れてない。そのことに、織部はずっと前から気づいていた。年齢不詳のところがあるが、おそらく織部より上であろう。顔は下膨れで、とにかくてかてかした肌つやをしている。人生経験は豊富そうだが、それを表に出さない気味の悪さがある。小さな目は何を考えているのか読み取り難い。恰幅が良く、小奇麗なスーツを着込んで、老獪なビジネスマン、といった出で立ちである。店の淀んだ雰囲気にまったく合っていなかった。間違えて入店したんじゃないかと、皆が思ったくらいであった。しかし彼はしばらく前から腰を据え、唐突に始まった織部と酔漢二人の応酬も、にやにやしながら聞いていたのだ。まるで、ようやく自分の待っていた話題が出た、といった感じである。
 その男が、張り詰めた空気の中、静かに席を立った。にやけ顔のまま、カウンターをゆっくりと回り、こちらに近づいてくる。
 織部は身を強張らせた。テーブル席の二人まで、口をつぐんだ。
 男はにこやかに片手を上げた。
 「やあ。織部社長。こんなとこでお会いできますとはなあ」
 織部はひどく動揺した。自分の名前を知っているということは、すなわち、自分が警官であることを知っていることになる。それなのに「社長」とは。社長? だが、相手の男が自分の窮地を救おうと機転を利かせてくれていることにすぐ気付いた。
 「あ・・・ああ」
 「橋爪です。覚えておいでですかな」
 「いやあ、覚えていますとも。お久しぶりですなあ」
 二人は握手を交わした。橋爪と名乗る男は織部の隣の席に「お邪魔しますよ」と言って腰を下ろした。
 「その節は大変お世話になりましたが・・・お元気ですかな」
 「はあ。まあ何とか元気で」
 無精ひげと巨漢は、織部が警察の者だとほとんど確信しつつあった矢先だけに、拍子抜けしたように口を開けて二人を見守った。
 織部は笑顔を見せながらも、全神経をとがらせ、この正体不明の橋爪という男が何者であるか探ろうとした。
 橋爪は手を揉みしごきながら嬉しそうに話を続けた。
 「いやあ、さっきから社長じゃないかな、と思って見とったんですがな。会社とは違って私服でおられることだし、息抜きのところをお邪魔しても、とね。声をお掛けするのを控えておったんですが。ま、それでも、なかなかこうして私的にお会いする機会もないもんですから」
 「いえ。こちらこそ気づきませんで」
 「時に社長」
 橋爪は目を光らせ、ぐっと身を前に乗り出してきた。口調には表れていない気迫を、織部は感じた。
 「折り入って、商談があるんですが」
 「商談?」
 「おたくの会社にも絶対得になる話でして。へへ、儲かる話ですよ。今話題のね。まあ───ちょっとここじゃ話しづらいな。へへへ。いかがでしょう。もしよろしければ店を替えて、少々お付き合い願いませんでしょうか」
 織部は背中が汗ばむのを感じた。この男は、すべてを知っている。自分が織部警部補であり、ヒロコの炎上事件を昔から捜査し続け、ヒロコ本人とも面識があることも。その上で、自分に何か交渉を持ち込もうとしている。何者か。いかなる団体に属する者か。警察を相手に交渉を持ち掛けるなど、どんな神経の持ち主なのか。
 織部は躊躇した。
 <ヒロコよ。なんてこった。お前さんの知らないところで、世の中はずいぶんお前さんをネタに騒ぎ立てるようになったもんだ! 世の中はお前を殺せと言う。お前を宇宙人扱いだ。この橋爪とかいう男はまた、お前を狙って何を言い出すかわからんぞ。実にうさん臭い男だ。ひどいもんだよ。ヒロコ。ひどいもんだ。お前はただの可愛い女子高生なのになあ。なあ、いったい、今頃どこをうろついてるんだ? 俺は本当に、本当にお前さんを救い出してやりたいだけなのに、もう何にもできやしないよ。管轄を外されたんだ。俺は無能だってさ。おそらく宮渕の野郎の差し金だ。畜生! 俺は何だか、お前に痛切に会いたいよ。お前に会いたい。ヒロコ。今、どこで、何してるんだ?>
 拳を口に当てたまま、彼は小さく頷いた。
 「わかりました」
 猪口に残った酒を吸い上げ、もう一度頷いてみせた。
 「わかりました。付き合いましょう」

第三話 その二へ

homeへ

 
Copyright (c). 2015 overthejigen.com