火炎少女ヒロコ


第三話  『シリア』

その二

 



○    ○    ○

 高瀬ヒロコは、その頃どこにいたか。
 愛するユウスケを燃やし、磐誠会の四人をまとめて灰塵にしたあと、ヒロコは泣きながら森の中を駆け抜けた。悲しみで全身がバラバラに砕け散りそうであった。叶うなら砕け散りたかった。小枝で何本ものひっかき傷をつけ、足の裏は膿を出し血を流しても、それでも彼女は走り続けた。転ぶたびに、土がべっとりと汗についた。呼吸困難なほど息切れし、前へ進むよりも倒れこむことの方が多くなっても、それでも彼女は走った。走ろうとした。目的地があるわけではなかった。ただ同じ場所にじっと留まることに耐え切れなかった。
 悲しみのあまり声を上げた。悲痛な呻き声が林間を満たした。まるで野獣のようであった。自分のしたことを、彼女はどうしても許せなかった。磐誠会の四人を燃やしたことに悔いはない。彼らみたいな極悪人は、焼け死ぬに値する。だが、ユウスケは。ユウスケはなぜ燃え上がらねばならなかったのか。なぜそれをしたのが自分なのか。自分はなんという取り返しのつかないことをしてしまったのか。彼は果たして無事なのか。それとも死んでしまったのか。ユウスケがもし死んでしまったら、自分はどうしたらいいのか。
 <どうして、どうして、どうして、どうして、どうして私なんて生まれてきたの?>
 倒木に苔むすヒノキの森を駆け抜け、小石だらけの小川を渡り、シダを掻き分け、蔦を払い除けた。
 <私はここで死ぬのよ。ここで死ぬの! この森にさまよって、出られなくなって死ぬのよ。だって行くところがないんだもの! 怖い森! なんて怖い森なの? 蛇とか熊とか出てきたらどうしよう? でもいいの。どうせ私はこの森で死ぬんだから! 私はもう人を殺し過ぎたわ。私が死ななきゃ、もっとたくさんの人を殺してしまう。ユウスケ君・・・ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 恨んでるよね。ユウスケ君、生きてたら、絶対私のこと恨んでるよね。高瀬ヒロコ、高瀬ヒロコ、あなたはもう誰にも愛される資格がないのよ。この森で行方不明になったって、のたれ死んだって、誰一人悲しむ人なんていないわ!>
 だが、自暴自棄に走る一方で、彼女は本能的に出口を探していた。どこまで走っても民家の見えない不安が胸をざわつかせた。急速に宵闇が浸透していく森を駆け抜けるうちに、いつの間にか、死にたい、という願望を、死の耐えがたい恐怖感が凌駕していた。
 ついにこれ以上走れなくなり、彼女は立ち止った。地面に両手を突いた。心臓がピストンのように激しく鳴る。ぜいぜいと息が切れる。ここがどこだかまるでわからなかった。彼女を包み込む森は、今や急速に輪郭を失いつつあった。ひたひたと迫りくる闇。まるで森全体が、彼女をおし潰そうとしているかのようであった。
 彼女は震えあがった。
 <怖い───私───私、死にたくない・・・>
 そのとき、全く唐突に、彼女は自分が誰かに見られていることを悟った。四方を見回してみたが、薄墨の滲んだような茂みや木立の他は何もない。しかし確かに、誰かに見られている。目ではない。これは、意識である。特殊能力による強烈な意識が自分に注がれていることを、彼女は強く感じた。プラットフォームで自分を突き落そうとする駅員に気付いたのと似ている。ただ、今の方が数段強力である。殺意は感じない。これは殺意ではない。もっと何か、興味や好奇心に近い感情である。そして、この意識は確かに、自分を手招いている。
 ヒロコは恐れを振り払うため、大きく息を突いた。それから、意識の向かってくる方向に歩き始めた。
 手招く感覚は続いている。熊笹を踏み分け、倒木の下をくぐり、斜面を登った。
 樹木と樹木の間の薄暗がりに、小屋が見えた。
 <小屋?>
 それはずいぶん粗末な造りだった。枝や葉を山積みにしただけ、と言った方が正確であった。しかし一応は小屋である。のこぎりの類は一切使われていない。長短さまざまな細い枝を何本も束ねて並べ、壁と屋根(と言うよりは蓋)を形成し、隙間をツガやヒノキの葉で埋めてある。立っているのがやっとのような頼りなげな小屋である。入口は大きな布のようなもので覆われ、中は見えないが、四人入れば窮屈だろうと思われた。その中へと、ヒロコを手招きする意識は導いていた。
 こんな山中に人が住んでいるとは信じがたかった。しかも生活するには、あまりにひどい住居である。ヒロコは汗を流し息切れしながら佇み、中を覗くのをためらった。ひょっと怪物が出てきてもおかしくない雰囲気があった。
 しかし強烈なオーラが、依然として彼女を惹きつけていた。その力はいや増しに増していた。彼女はどうしても中を見たくなった。自分はそもそも死のうとしてるのだから、なにを今さら怖がる必要があるだろうか、とも思い直した。ヒロコは決意した。
 彼女は小屋に近づき、入口の布をめくり上げた。
 暗い。
 彼女は鼻を押さえた。肉の腐ったような異臭。蠅がたかっている。きゃっ、という叫び声を上げて、慌てて布を下ろした。ヒロコは、自分が見たものが信じられなかった。薄暗く狭い内部には、恐ろしくやせ細り、ほとんど骨と皮だけになった人間の、座禅を組む姿があった。ミイラなのか、生きているのか判別できなかった。ただ眼が、ギラギラと光っていた。してみると生きていたのか。
 すぐにこの場から逃げ出したかった。が、同時に、もう一度見たいという強い欲求に突き動かされた。なぜそんな気になるのか、ヒロコ自身全くわからなかった。
 口と鼻を押さえ、彼女は震える手で布をもう一度めくり上げた。
 飛び出してきた蠅が頬にぶつかり、気持ち悪さで腰が抜けた。それでも彼女は布を持ち上げたまま、薄暗がりの中を正視した。
 男はやはり、生きていた。
 あばら骨が浮き出、腹はえぐられたように凹み、顔は表情を作りようがないほどにやつれている。一突きすれば、ガラガラと崩れ落ちそうな体である。それでも、男の目には意志が宿っていた。
 『燃やす女か』
 耳に聞こえたのではない。心に聴こえた声であった。ヒロコの驚きは尋常ではなかった。
 『人を燃やす女か。お前がそうなのか。名はなんと言う』
 やはり心に聴こえる。男の口も喉も動いていない。彼は意志の力で語りかけているのだ。心に響くその声なき声は、たとえるなら、水中で鐘を鳴らされたような感覚であった。びりびりと神経の揺さぶられる声であった。
 ヒロコは後退りした。
 『怖がることはない。もはや、喉を使ってしゃべる体力すら残ってないのだ。精神と精神で会話することならお前にもできる。聞こえるように語りかければよい』
 『───私は、ヒロコ』
 『ヒロコか。なるほど。相応しい名だ』
 『あなたは、誰』
 『私か。私は予言者と呼ばれている。他の名は、ずっと昔に失った』
 『予言者?』
 ヒロコは耳を疑った。彼が特殊能力者であることは間違いない。しかし予言する能力の存在など、AUSP内でも聞いたことがなかった。
 『未来のことが、わかるの』
 表情のない顔が、少しだけ笑った気がした。
 『正確に言えば、未来を意志するのだ』
 『意志する?』
 『こうなって欲しい、と思うように、未来がなる』
 あまりに荒唐無稽な話である。ヒロコは眉をしかめた。
 『じゃあ、あなたは未来を変えられるの?』
 『そうではない。未来のあり方に、私の意志が従うのだ』
 わけがわかんない、とヒロコは思った。<何なのこの人? ペテン師? それとも、餓死しかけて気でも狂ったのかしら?>
 『どうして、あなたは、私のことを知ってるの』
 『お前の出現を期待した。人を燃やす力を持つお前の出現を。そして、ここを通りかかることを望んだ。お前に会いたい、と願った。その通りになっただけだ』
 『どういうこと? あなたは、私の出現を期待したの?』
 答えはない。
 『暗いな』
 そうつぶやくと、彼は小屋の中をほんのりと明るくした。もちろん、蝋燭も電燈も使わない。彼自身は彫像のように微動だにしないままである。
 夜陰に鳥が鳴いた。
 ヒロコは逡巡した。どこまでこの男の言うことを信じればいいのか。だがもし、もし本当に、この男に未来がわかるなら・・・。
 『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
 それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。
 『ユウスケとは』
 『テレポートで私をここに連れてきた人。私・・・私、彼を・・・』
 『ああ、お前が燃やした男か。無事だ。将来、お前たちは再会する』
 感激のあまり、ヒロコは手が震えた。
 『また会えるの?』
 『ただし、幸福なかたちではない』
 ヒロコはひどく落胆した。
 『幸福なかたちでないって・・・どういうこと』
 ほとんど髑髏の顔が、じっと彼女を見つめる。
 『ねえ、教えて! 私たち、会わない方がいいの?』
 『会わざるを得ない』
 『会わざるを得ないって・・』背筋に寒気を覚えた。自分たちの再会が、互いをさらに不幸にする可能性はある。十分にある。何しろ自分は、彼を焼き殺そうとした人間なのだ。
 祈りを捧げる人のように、ヒロコは思わず予言者の前に両膝を突き、胸の前で手を組んだ。藁にもすがる思いだった。 
 『未来を・・・未来を意志するのなら、未来を変えることもできるんですか?』
 『愚か者が。未来がそうなるようにしか意志できない、そう言ったはずだが』
 未来がそうなるようにしか、意志できない。ヒロコは呆然と心の中で反芻した。
 『人間は自然の一部だ』予言者は続けた。『人間の意志は自然の作用を受ける。同じようにして、自然は人間の意志の作用を受ける。たった一人の人間の思いが、地球の裏側を変えることもある。だがそのたった一人の思いにも、地球の裏側が影響を及ぼすこともある。すべては巨大な因果の連鎖の中にある。どちらが原因でどちらが結果になるかは、すべて、立ち位置の問題なのだ。』
 糸を引いた蜘蛛が一匹、ヒロコと予言者の間に降りてきた。蜘蛛に目の焦点が合い、予言者がぼやけて見える。予言者の言葉はあまりに難解である。ヒロコはひどく混乱していた。だが何となく、納得できる気になるのが不思議であった。
 蜘蛛は自ら糸を切って地面に落ち、姿を消した。
 未来はそうなるようにしか、ならない
 『私は───どうなるの』
 『さまざまな苦難が、お前を待ち受けていよう』
 『私、じゃあ、今すぐ死んだ方がいいの』
 もし死んだ方がいいと言われれば、今すぐ舌を噛み切って自殺してもいい。それくらいの思いが、ヒロコにはあった。それは心からの痛切な問いかけであった。
 予言者は答える代りに、光を増した。宵闇に沈む森の只中で、そこだけ丸く小さな光に包まれて、予言者とヒロコは対峙した。
 『ヒロコよ』予言者は語りかけた。『お前は自分の能力を恨むことはない。お前の責任は、お前にはない。お前の存在は、自然の成り行きなのだ』
 『どういうこと』
 『かつて、ある湖で繁殖し過ぎた貝が、自分たちの個体数を減らすために、互いを殺す毒を持った、という話がある。えさ不足になるまで増殖したネズミが、一斉に水の中に飛び込み、集団自殺した、という話もある。お前は不思議に思わないか。現代社会における、無差別殺人や児童虐待、精子の減少、精神病の増加・・・不思議ではないか。まるで人類全体が、滅亡へと駆け足で向っているように、お前には思えないか。
 『人間は気付き始めたのだ。人間の発展が決定的に悪であるということを。人類は繁殖し過ぎて、今やどうしようもない事態に陥りつつある、ということを。はっきり意識しようがしまいが、その気づきは、個々の潜在意識に強迫観念として植えつけられているのだ。人間は今、無意識に、何とかして自分たちの種の数を減らそうとしているのだ。
 『お前の出現はその一例に過ぎない。今後、お前のような殺傷能力のある特殊能力者たちが次々と現れ出るだろう。人類はこれまでにない全面戦争の時代を迎える。それは、国と国とが戦ったかつての戦争とは違う。個人と個人が殺し合うのだ。あるいは自分自身を殺すこともある。様々な死が、未来を彩る。道具を使ったものもあれば、道具を使わないものもある。世界の人口は減っていく。ゆっくりと、着実に。
 『お前の悪は、お前のせいではない。お前の存在を必要とするまで肥大した人間社会のせいなのだ。お前がいなくなっても、次のお前が出てくる。ヒロコ。お前の役割は、人類のために人類の数を減らすことなのだ。だからためらうことなく人間を燃やし続けるがよい。お前の力が強大になれば、お前はもっと能率よく、もっと大勢の人間を片付けることができるようになるだろう。それでよいのだ。人類はあまりに長い間、天敵を失っていた。お前は、お前の同胞たちのために、あえて天敵となるがよい。それが、お前の存在する意味であり、お前に課せられた役割なのだ』
 予言者の言葉は淡々と、ヒロコの心に注ぎ込まれた。ヒロコは彼の話に打ちひしがれたか? なるほどと感銘を受けたか?───とんでもなかった。その代り、何とも不可思議で一種異様な感覚が、ヒロコを捉えていた。ミイラのようにしか見えなかった予言者が、非常に人間臭いものに見えてきた。まるで酔っぱらった大人に絡まれたかのように、彼女は距離を置き、冷静に内なる耳を傾けることができた。聞きながら、心の中では、ずっと首を横に振り続けていた。どれだけ聞いても、反発心しか湧き起ってこなかった。ヒロコはそこまで頑なな性格だったのだ。それは宮渕に語りかけられたときも、エイジの説得を受けたときも同じである。ただ今回は、心が暗く落ち込むどころか、むしろふつふつと生きる力が湧いてくるのを感じた。
 まったく唐突な感動だった。ほとんど喜びすら彼女は感じていた。それはユウスケが生きている、という情報を手に入れたからに違いなかった。彼が生きている。彼が生きている限り、彼に会いに行こう。彼女は固く心に誓った。
 <だって、会わざるを得ないって、この人も言っていたわ! 確かに、確かにそれは、不幸な再会になるかも知れない。私たちはひどく辛い思いをするかもしれない。そうなったら本当に悲しい。でも、私は───私は絶対に、不幸になるようには意志しない。私は全力で、未来を変えてみせる。変えてみせるわ。意志の力ってそういうことでしょ? 私にその力がないとは限らないじゃない? だって、他の人にはない力を持っているんだもの。ある意味、私は特別なのよ。たぶん。役割? ふざけないで! 人殺しをすることが私の運命だって言うの? 冗談じゃないわ。未来がすでに決定してるって、いったい誰が決めたの? 私は彼に会って、謝るわ。泣いて謝るわ。許してもらえないかもしれない。たぶん、許してもらえない。でもユウスケ君なら、彼なら、許してくれる気がする。仕方がなかったんだよって。心を操られていたんだからって。あの人、優しい人だから。許してくれるまで、何度でも謝ろう。何度でも、土下座してでも。それで、もし奇跡的にでも、許してもらえたら。もし、また、彼を好きになることが許されるなら───。>
 ヒロコは、かつて初等訓練の時、フミカに言われた言葉を思い起こしていた。
 <───もし、彼が再び私を受け入れてくれるのなら、私は今度こそ、全力で彼を愛すわ。私たちは本当に愛し合うのよ。恋人同士として、心と、体で。全身全霊で。それでフミカさんの言う通り私の能力が消えてなくなるなら、それこそ本望だわ! 私喜んで、今の自分を捨てるわ! もう二度と、人を燃やさない。能力なんて、何もいらない。そのためにできることを何でもするわ。心を強くする必要があるんだったら、強くするわ。弱くすることが必要だったら、弱くするわ。わかんない! でも、私、なんだってやってみせる。ユウスケ君のために。彼なら、答えを知っている。彼なら、私を正しく導いてくれる。そう。きっと。彼は私のことを怒ってるかしら? もちろん怒ってるわ! 私に許される資格なんて・・・でもいいの。私は唾を吐きかけられても、足蹴りにされても、彼のもとへ行くわ。彼に死ねと言われれば、その時死んでみせる。死刑にされるなら、喜んで処刑台に上がる。それでも、私はユウスケ君にもう一度会う。もう一度。その時すべてが決まるのよ。その時まで、私は生きてみせるわ!>
 それらのことを、ヒロコは予言者の落ちくぼんだ眼窩を見つめながら、一気に思ったのだった。予言者は相変わらず身動き一つしなかった。ヒロコは、彼が自分の心境の変化を面白がっている気がしてならなかった。
 ヒロコは立ち上がった。
 『ここからどこへ行けば、ユウスケ君に会えるの』
 『思った以上に、頑迷な女よ』
 初めてヒロコは微笑んだ。
 『あなたにも予想できないことがあるのね』
 『予想ではない。意志するのだ』
 『そう。希望がわいたわ。どこへ行けばいいのか、道案内はしてもらえるの?』
 二人を包むほの明かりの外側は、漆黒の闇であった。フクロウがどこかでしきりに鳴いていた。草木がさざめき、遠くで獣同士が互いを呼び交わした。
 予言者は、長い間をおいた。
 『私はもはや動けない体だ。私は、自分の一生の中で、お前に会うことまでを意志して生きてきた。死ぬまでに、お前に会えればよかった。私の望みはここまでだ。やがて私は朽ち果てよう』
 ヒロコはじっと予言者を見つめていたが、ふと、思い出したように、貫頭衣の袖口に手を入れた。そこから、一切れのパンを取り出した。それは二日前ユウスケに言われていた通り、脱出の際密かに持ち出したものである。
 彼女は自分の思いつきにわくわくしながら、パンを予言者に差し出した。
 『じゃあ、じゃあ、これであなたの予言を変えるわ。もう少しだけ、長生きしてもらえるかしら。私のために』
 今度こそ、予言者は笑った。ほとんど肉のついていない頬が引き攣り、口が開いた。
 『私の意志を超えるつもりか』
 『食べて。できるんでしょ?』
 『面白い子だ』
 ヒロコの手にしたパンは、粉々に砕け、空中に浮遊した。さらに砕け、目に見えなくなるほどに細分化された。それらは掃除機に吸いこまれるように、予言者の口へと入っていった。
 ヒロコは彼の能力の高さに今さらながら感動した。
 『あなたは、AUSPの人たちより、高い能力を持つの?』
 『エイジは、かつて私の弟子だった』
 驚く間もなく、ヒロコが経験したことのない現象が、さらに生じた。座禅を組む予言者の体から、もう一人の彼の輪郭が出てきたのだ。
 幽体離脱である。
 背景が透き通って見えるそのおぼろげな輪郭の身体は、座禅を組む体と違って自由に関節が動いた。それは、ヒロコの前にすっくと立った。
 恐怖におののいたが、後退りすることなく、ヒロコは目を見開いてその霊体を見つめた。
 『食べ物の礼だ』
 そう言うと、霊体の予言者は、両手を差し伸べてヒロコに触れた。ユウスケがテレポートを使ったときと、同じ感覚がヒロコの体内に湧き起ってきた。
 どこかに、連れていかれる。
 『どこへ行くの』
 不安は最高潮に達した。
 『私の意志だ。お前には旅をしてもらう』
 から、から、と、予言者が笑い声を上げたような気がした。
 激しい衝撃が、ヒロコを襲った。

 ───森に闇が戻った。
 ひんやりとした夜風が通る。どこかで、野猿が甲高く鳴く。
 月の光も差し込まない粗末な小屋では、あばら骨の浮き出た予言者が、ただ一人、誰も拝む人のいない石像のように、黙然と座禅を組み続けた。  


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