火炎少女ヒロコ


第三話  『シリア』

その三

 



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 砂漠の夜明けである。
 褐色の大地に靄が立つ。岩肌が光る。目覚めたばかりのラクダが鼻息を荒げる。
 開けっ広げの黒いテントの下で、毛布を被って横向きに伏したまま、ヒロコはじっと外を見つめた。
 ここはシリア南部、ヨルダンとの国境にほど近い砂漠地帯である。
 砂漠と言っても石だらけである。枯れたような草がところどころに生える。遠くにはごつごつした岩山が連なる。どこまでも荒涼とした風景である。この風景は、見る者から安っぽい笑顔を奪う。ただ眺めているだけでも、眉間に深い皺が刻む。
 ベドウィンたちのテントが二十七張りほど集まっている。その一つに、ヒロコがいた。彼女は半月ほど前から、一家族と共に寝泊まりしている。母親のダリア、ヒロコより一つ年下のアイシャ、二つ下のジャミラ、そして年が離れて十歳の弟ハサン。ダリアはイブン=サヘル=ファヘドの三番目の妻であったが、イブンは三年前、イスラエルとの戦闘で死んだ。
 砂漠の上に意識を失って倒れているヒロコをハサンが発見し、このテントで介抱して以来、ヒロコは家族の一員のように扱われている。ヒロコはアラビア語ができない。心も開かない。それでも、身振り手振りで言われたことを何となく理解し、家事を手伝い、食事を共にし、日々を過ごしている。
 今、家族の中で目覚めているのはヒロコだけである。彼女は体を少しだけ動かし、うつ伏せの状態になって、さらに外を眺め続ける。彼女が着ているものは、他のベドウィンの女性たちと同じく、ゆったりとした黒い長衣である。
 羊たちがメーメーと互いを起こし始めた。一羽だけいる痩せた鶏も鳴く。
 『ヒロコ。今朝はあなたが水汲みよ』
 目覚めた母親のダリアがヒロコに声を掛けた。もちろんアラビア語の意味はわからない。が、彼女が指差している桶を見れば、指図された内容はわかる。
 ヒロコは小さく頷き、立ち上がった。
 黒いベールを被り、顔を隠す。桶を手にして、テントを出る。乾ききった風が、彼女を不毛の大地に迎え入れる。
 サンダル越しにも砂地の冷たい感触が伝わる。昼にはまた、熱せられたフライパンのようになるのだろう。
 ヒロコは二つの桶を担ぎ、黙々と歩き続けた。

 末っ子のハサンが上の姉の衣の端を引っ張りながら尋ねる。
 『ねえ、あの人、どこから来たの?』
 『知らない。絶対言わないんだもの』と長女のアイシャ。『シャイフ(族長)が地図を見せても答えないんだから』
 『帰るところがないのね』と次女のジャミラ。
 『帰るところがなくても、来たところはあるわ』と長女が言い返す。彼女は心を閉ざし続ける新参者に少々不満げである。
 母親のダリアはテントの前に佇み、じっとヒロコの後姿を見送っている。
 『砂漠にたった一人、置き去りにされたんだから、不幸な子よ。アラーのお恵みがあの子にありますように。さあみんな、毛布を片付けて。朝食の準備よ』

 砂漠を行く一頭のラクダのように、ヒロコは歩き続けた。
 心中に湧き起るものは、来る日も来る日も、同じであった。疑問と、困惑と、憤り。なぜ、予言者は自分をこの地に送り込んだのか。ここが中東に位置するシリアという国であることを理解するのに、ヒロコは三日もかかった。ベドウィンのテントの中で意識を取り戻したとき、何が何だかまるで分らなかった。予言者はなぜ、こんな僻地に自分をテレポートさせたのか。これは彼の気まぐれな悪戯か? 日本人が一人もいない地の果てで、焼け付く日を浴び、喉の渇きに苦しみながら死んでいけばいいとくらいに思われたのか。だがそれではおかしいではないか。だって彼は、自分に生きることを勧めた。人類の天敵として生きればいいとまで言った。それに─────。
 ヒロコは井戸場にたどり着いた。先に来ていた一人の婦人が、ポンプから水を汲んでいた。向こうからアラビア語で短い挨拶を交わしてきたが、ヒロコはどう返していいかもわからないので、黙っていた。婦人は険しい目つきでヒロコを睨んでから、水の入った桶を手に去って行った。
 ヒロコは錆びついたポンプを動かし、二つの桶に水を満たした。
 ───それに、自分はユウスケ君に会いたいとお願いした。ユウスケ君に会うにはどうすればいいかを尋ねた。それなのに、なぜ。なぜシリアなのか。あの男は、どこまで自分をなぶり者にしたのか。許せない。絶対に許せない。あんな奴、会った時すぐに燃やしてやればよかったのだ───。

 ヒロコが水を汲んでいるさなか、ダリアたちのテントでは、ラクダに乗った男が訪れていた。黒い鼻髭を横に伸ばし、アラブ人特有の垂れ気味で彫りの深い目つきをした、族長のアブドゥル=ラフマーンである。頭に巻いたスカーフを風になびかせ、彼はテントの前に降り立った。
 ダリアがそれを迎え入れた。
 『シャイフ(族長)・アブドゥル=ラフマーン様』
 『ダリアよ。家族の皆は元気か』
 『アラーのお導きによって』
 『結構だ。ヒロコは、今、ここにいないな』
 『はい。仰せの通り水汲みに行かせています』
 『うむ』族長は頷き、落ち着かなげに周囲を見渡した。『部族会議の結論が出た。ヒロコについてだが、やはりこのままここに置いておくわけにはいかない』
 ダリアは目を伏せた。
 『あの子がムスリムでないことが一番の要因だ。異教徒を我が部族の中に留め置く危険は、お前も分かろう』
 『あの子はまだここに来て数週間しかたっていません。アラビア語もわかりません。アラビア語が話せるようになれば、必ずあの子はムスリムになります』
 族長アブドゥル=ラフマーンは苛立ったように指で頬を掻いていたが、身を屈めると、見開いた目を未亡人に近づけた。
 『もしあの子がコーランを選ばなければ、あの子は侵入した異教徒として、ここの部族の男たちの餌食となろう』
 ダリアは衝撃のあまり息もできなかった。
 『シャイフ様、あれは、まだ子どもです』
 『選択できる年齢だ』
 『あれは、自分の意志を言葉にすることすらまだできないのです』
 『あの子の頑なさが我々の決定に従うことを拒むなら、同情の余地はない』
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様。あの子は、ここを出ても行くあてがないのです』
 『異教徒にここで暮らす道はない』
 族長はラクダに跨った。
 『三日だけ猶予を与える。ヒロコに答えを用意させておけ』
 族長を乗せたラクダは砂塵を上げて去って行った。

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 日は徐々に高みから砂漠を熱する。
 鉄板の上で平べったいパンがいい香りを上げ始めた。カップに注がれた紅茶のすえた様な香りがそれに混ざる。朝食の始まりである。
 『はい、ヒロコ』
 ハサンがちぎったパンをヒロコに手渡す。ヒロコは小さく頷いてそれを受け取る。ハサンはもっと話しかけたそうだが、ヒロコが俯いて応じない。
 みな、車座になって、味気のないパンを黙々と食べる。
 天幕が風でバタバタと鳴る。
 『今日はお姉ちゃんがルブ(ラクダの名前)の乳しぼりね』とジャミラ。
 アイシャは不機嫌である。『ヒロコも乳しぼりをやるべきよ』
 『無理よ。ヒロコにラクダの乳しぼりはまだ無理よ。やり方がわからないわ』
 『やり方は教えればいいでしょ。私たちは忙しいじゃない。機織りもあるし、薪を拾ってこなくちゃいけない。羊の放牧もあるし。ルブの乳しぼりはヒロコに任せるべきよ』
 『無理よ』
 『できるわ』
 ハサンがもぞもぞと顔を出してきた。『ぼく、ヒロコに教えてあげるよ』
 『あんたは黙ってて』突き放すようにアイシャが言う。
 母親のダリアは黙っていた。眉間に皺を寄せ、深刻に考え込んでいた。娘や息子たちの会話をまるで聞いていないようにも見えたが、その実、神経過敏なほど耳をそばだてていた。険しい表情になると、彼女の端正な顔立ちは、砂漠に住むトカゲのように皺だらけになり、老けて見えた。
 テントの中は薄暗い。
 彼女は紅茶を喉に流し込んだ。それから首を横に振った。
 『ヒロコは乳しぼりを覚える必要はないわ』
 『どうして』
 『彼女はここを出ていかなくちゃいけない』
 子供たちは三人とも食事の手を止めた。皆一様に驚きの表情を浮かべていた。その雰囲気で、当のヒロコも何か不都合なことが起きたことを悟った。
 ハサンが母親の衣の裾をつかんだ。『ヒロコはまだ病人だよ。砂漠に出ていくのは無理だよ』
 『出ていくのよ』
 そう言うダリアの目は厳しい。潤んでるようにも見える。二姉妹は声も出せずに母親を見つめた。
 『出ていくのよ。ヒロコはここにいれば、もっと不幸になるわ』
 誰も、何も言い返さない。
 ヒロコは静かに立ち上がった。言葉はわからなくとも、おおよその状況を理解できたからだ。まるで雨女サキコのように、ダリアや子供たちが何を考えているかわかるような気がした。
 自分はここを、出ていかなければいけない。
 しょせん、自分の居場所ではないのだ。だが、ここを出て、どこへ向かえと言うのか。この異国の砂漠地帯で、自分はたった一人放り出されるのか。帰る場所は、ない。頼れる人もいない───そう考えると、彼女は急に胸が苦しくなった。立っているのもやっとであった。呆然と佇むヒロコに、ダリアが声を掛けようとしたそのときであった。
 外で銃声が立て続けに何発も鳴った。大気をつんざくような音。テント村一帯が騒然とした。
 男たちの怒号が聞こえる。
 『敵だ!』
 『スンニ派の連中か? イスラエルか? アルカイダか? どこの連中だ!』
 『わからない!』
 『戦車が来るぞ! 戦車の大群だ!』
 『逃げろ!』
 『応戦するんだ!』
 『逃げろ!』
 ダリアの行動は素早かった。彼女はすぐさま荷物の下からカラシニコフを取り出し、弾丸を装填した。ヒロコには見覚えのある形だったが、年式がよほど古いように見える。アイシャとジャミラは抱き合って怯えた。アイシャはすでに泣き出しそうである。ハサンは十歳の子供とは思えないほどの怒りの形相で立ち上がり、奇声を上げると、棒切れを持って外に飛び出した。
 『戻ってきなさい、ハサン!』
 ダリアはハサンを追うようにして、銃を抱いたままテントを飛び出した。続いてヒロコも。彼女はAUSP時代に叩き込まれた習慣で、とっさに戦闘用ベストを探したが、もちろんそんなものはなかった。自分用のライフルもない。ただ、戦闘態勢に入らなければいけないことは冷静に自覚していた。
 外に出てみると、すでに喧騒状態であった。砂ぼこりの舞う中を人や家畜が右往左往し、怒声や悲鳴が飛び交う。男たちはライフルを手に、ある者は馬に乗り、ある者は女たちを避難させた。杖を突く老人はひたすら天を仰ぎ、コーランを唱えた。女たちは、逃げ惑う者、羊やラクダを何とか安全な場所に誘導しようとあたふたする者、大声で呪いの言葉を叫ぶ者。しかしほとんどの者は、岩陰のある方へ全力で走り出していた。
 『シリア解放戦線だ!』
 『奴らが来た!』
 『皆殺しにされるぞ。奴らは人間じゃない・・・逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!』
 ヒロコは遥か彼方の地平線に信じられない光景を見た。
 戦車が合わせて六台。砲口をこちらに向けて近づいてきている。その間三キロメートル。戦車の立てる振動が柔らかい地面を伝わって体を揺さぶるような気がした。戦車の周りには何人かの歩兵も見えた。
 銃を持って立ち向かおうとする者は皆無に等しかった。兵力の差は歴然としていた。
 そのとき、何かが最前線に飛び出した。少年だ。一人の少年が、逃げ惑う人々に背を向け、戦車の群れに向って棒切れを振り回し、何か喚いている。
 ハサンである。ヒロコは愕然とした。
 「ハサン!」
 ヒロコは思わず叫んだ。母親ダリアの悲痛な呼び声もそれに折り重なった。少年は引き返そうとしない。死んだ父親の仇が来たとでも思いこんでいるのだろうか、彼は全身全霊でもって、戦車に向って罵り続けた。
 一台の戦車の砲身が、正確な角度で少年に向けられた。
 <まさか>ヒロコは心で激しく否定した。<まさか、無抵抗の子供を狙うつもり?>
 戦車が揺れた。まるで、戦車が撃たれたかのようであった。しかし、実際には戦車が撃ったのだ。
 地響きと共に、強烈な爆音が聞こえた。空に達するほどの砂煙が上がり、ヒロコは思わず地面に倒れ伏した。顔を上げると、先ほどまでハサンのいた場所の大地が抉り取られていた。ハサンの姿はすでになかった。彼の幼い姿は、どこにも見当たらなかった。
 母親ダリアの悲痛な叫び声が耳をつんざいた。二人の姉も泣き崩れた。
 あらゆる騒音が急に遠ざかったようにヒロコは感じた。焦げ臭い、と不思議なくらい冷静に心に思った。戦車の砲弾って、こんなに焦げ臭いんだ。それともこれはハサンが焼け焦げた臭い? 何なのあの戦車たちは? ハサンが何をしたと言うの? 子供一人殺すのに、あの人たちは主砲一発使うの? 
 <許さない>
 ヒロコは片膝を立て、立ち上がった。
 息子の命を奪われた母親がライフルを抱え、戦車に向って走り出すのが横目に見えた。彼女を止める男たちの声が聞こえる。ヒロコに対しても、伏せろとか逃げろとか何か言われている。だがヒロコは、しっかと大地に立ち、今やダリアに照準を合わせつつある戦車を睨んだ。その姿はまるで、憤怒の形相を持つ不動明王のようであった。
 一瞬、ヒロコの脳裏を、憤りとは別のものが掠めた。それはほとんど心地良いほどの驚きだった。ここは、なんとわかりやすい世界なのだろう。殺すか、殺されるか。あの馬鹿馬鹿しいほど破壊的な戦車に比べたら、自分の存在は、ここでは、それほど異質じゃない───ヒロコは自分の存在意義が妙なかたちで承認されたような、小気味良ささえ感じていた。
 彼女には、絶対の自信があった。それは今までにないものであった。これが、AUSPでの訓練の成果なのか。自分はもはや、「病人」ではない。有能で精密な「兵器」になろうとしているのだ───ヒロコは刹那に、そんなことまで考えた。
 石ころだらけの砂漠の上に、朝日はすでに高く輝いていた。雲一つなかった。もともと砂漠にはほとんど雲がない。全ては公開処刑場さながらに明るみに曝け出されていた。泣き叫び逃げ惑う人々。今や五百メートルまで近づいた戦車の列。最終的にはすべて者たちの死を待ち、呑み込もうとしているかのように絶対的な沈黙を保つ、果てしない不毛地帯。
 <死ね>
 ヒロコが念じた、その瞬間に、戦車という戦車から激しく火柱が上がった。六台全部が一度に燃え上がったのである。いや正確に言えば、車体が燃えているのではない。中にいる人間が燃えているのだ。業火で地平線は怪しく揺らめいた。砂漠に幾つもの太陽が落ちたかのようであった。間もなく爆音が立て続けに起こった。電気系統か何かに引火したのだろう。炎も煙も、一層激しくなった。もちろん、這ってでも出てくる兵士は一人もいない。皆真っ先に焼け死んだのだ。
 あまりにも異様な光景であった。人々は声を上げることすら忘れ、今まさに起こっていることを見つめた。誰もが、自分の目を信じられなかった。
 ざわめきが、徐々に人々の間に広がった。歓声を上げる者もいれば、必死に祈る者、ひそひそと仲間内でささやき合う者。彼らの視線は一様にしてヒロコにあった。言葉はなくとも、目の前で繰り広げられている怪奇現象の原因がこの東洋の少女から発せられた魔力にあることは、そこにいるすべての者が理解した。それほどの強烈なオーラを、今の彼女は放っていた。
 燃え盛る車両の中の一台で、地響きを伴うほどの爆発が起こった。砲弾に引火したのだ。また一台。黒煙が上がる。戦車の周りにいた歩兵たちが慌てふためいて逃げて行く。
 大空へと絞り出すように、大歓声が沸き起こった。ベドウィンたちは今こそ、勝利を確信した。銃声が鳴り、拳が振り上げられ、人々は歓喜の表情で抱き合った。
 ヒロコは一人、立ち尽くしていた。まるで故郷を焼かれた人のような表情で、天高く立ち昇る複数の黒煙をじっと見つめた。これで何人の人を焼き殺したことになるのだろうか。彼女は心の中で数え挙げようとした。だが戦車一台に何名の戦闘員がいたかさえわからない。自分はもう数えきれないほどの人を殺したことになるのだなと、ふと思った。自分に焼かれるのは、どんな気分なのだろう。みんなどんな気分で死んでいくのだろう。
 自分に近づいてくる人の気配に気付いた。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンである。傍らに背の高い男を連れている。部族内で唯一英語が話せるので、半月前ヒロコが砂上に現れ意識を回復した時も、彼女と族長との通訳を任された男である。
 二人はヒロコの前で立ち止まった。
 シャイフは胸に手を当て、ヒロコに向ってお辞儀をした。
 通訳の男がぎこちない英語で要件を伝えた。ヒロコは辛うじてその意味を理解した。
 『偉大なる同志ヒロコ。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが、あなたを宴に招待したいと言っています』


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