火炎少女ヒロコ


第三話  『シリア』

その四

 



○    ○    ○


 ヒロコの運命は一変した。アラジンのランプで魔法にかけられたかのようであった。もう少しで砂漠に一人追いやられ、朽ち果てたかも知れない、そんな寄る辺ない身の上から、一足飛びに、アル・イルハム部族(それが彼女を匿った部族の名前であった)の守護神的存在に祭り上げられたのだ。生と死の境するこの不毛地帯で最も不幸な立場から、一夜にして最も恵まれた地位へと上り詰めたことになる。
 彼女は彼女専用のテントを一張り与えられた。六人の侍女と高価な衣装と、毎日食べきれないほどのご馳走を提供された。夢のような生活であった。ヒロコは戸惑ったが、拒絶しなかった。一つに拒絶の方法を知らなかったのと、もう一つに、これは同情に値するが、彼女としては、人生で初めてちやほやされたのだ。それもいきなり、アラブの王族並みのとびきり豪勢なちやほやである。どんなに慎み深く控えめな性格でも、その誘惑に抗することはできなかったろう。ヒロコは着飾った。胸を張り、毛織物のソファに優雅に寝そべり、銀の器からなつめやしの実を取って食べた。そして少しだけ傲慢さを身につけた。 
 人々は彼女の前に額づいた。族長も。もちろんダリアの家族たちも。
 アル・イルハムとしても、シリア解放戦線の報復攻撃に備えて、是が非でもヒロコに部族内に留まってもらう必要があった。
 シリア解放戦線は実際、すぐに反撃に出た。だが、戦車であろうが騎兵であろうが、ヒロコの視野に入った途端に炎上させられては、太刀打ちできなかった。特殊能力の持ち主も戦闘員に駆り出された。彼らはヒロコの心理を操作しようとしたが、彼女はもはや完全に心を閉ざす能力を身につけていた。ヒロコにかなう者はいなかった。アル・イルハムは瞬く間に勢力を広げ、一大軍事組織になった。もともとはどちらかというと政府よりの部族であったが、いつしか政府を脅かすほどの存在になった。シリア政府もようやく、国家安全保障に関わるという理由で鎮圧に乗り出したが、時すでに遅かった。アル・イルハムには国内から、また隣国から、さまざまな思惑の人物たちが参入してきていた。協力を申し出る者、政治的利用を狙う者、軍事顧問を名乗る者・・・。組織は次第に、征服欲と支配欲にまみれ始めた。拡大それ自体が目的化した。当然敵も増える。が、案ずることはない。我々にはヒロコがいる。
 ヒロコ。彼女の名前は瞬く間に中東全域に───いや、世界中に広まった。

 ダマスカス行きの飛行機の機内で、以上の事実を改めて確認した日本人がいた。日焼けした鷲鼻の顔。新調の高価なスーツ。膝元に英字新聞を広げているが、記事を読んでいるようには見えない。先ほどから写真ばかりを睨んでいる。写真は二点。一つは黒いチャドルに顔を隠したヒロコの写真。もう一つは墜落して燃え盛る戦闘機。鷲鼻の彼は爪を噛みながら怖い形相で考え事をしている。ときどき呻き声を漏らす。彼が呻くたび、隣の座席に座る白人女性が眉を顰める。
 呻く男は、織部警部補である。
 およそ二か月前のことだ───────。

 駅前の食堂で飲んでいた彼は、下膨れでてかてか顔の、橋爪と名乗る男に声を掛けられた。「商談がある」という彼の誘いに乗り、小料理屋に場所を移して話を聞いた。驚いたことに、橋爪は自分の身分を、アメリカNASAの仲介人だと明かした。
 「へへへ、びっくりしましたか」
 橋爪は織部の反応を楽しむように口の端に唾液を溜めて笑った。「無理もありませんやね。たかが一人の女子高生のために、ついにNASAが動き始めたんですわ」
 織部は不信感でいっぱいの表情で相手を見返した。
 「目的は何だ」
 「もちろん、研究ですよ。研究です。人類の発展と世界の平和のための研究ですわ。願っただけで人を燃やせる少女がいるなんて言ったら、そりゃ研究の価値が大有りでしょ。NASAはそういうことでは常に世界の先駆者たれ、と思っていますからな」
 酔いを醒まそうと懸命に首を振りながら、騙されてはいかんぞ、と織部は心に何度も叱咤した。
 「俺に何の用だ」
 「彼女を捕まえていただきたいんです。あなたは彼女と面識があり、過去の事件で捜査を担当していたことも知っています。彼女はもともと閉鎖的な性格だ。孤独な十七の少女だ。彼女の両親というのも、実の両親ではないそうですな」
 織部はますます驚いた。その情報を、彼は最近ようやく入手したところだったのだ。
 「あんたどこまで知ってんだ」
 「あなたの知っている範囲のおよそ一、五倍くらいですよ。でもそれ以上じゃありません。へへ。彼女の潜伏している先は、遠からず我々が突き止めます。しかし彼女との直接の交渉は、彼女の良く知っている人物が適当だろうとNASAでは思っとるんです。幸い────いや、不幸にも、と言うべきでしたな、あなたはヒロコの事件の管轄を外され、職業への意欲を無くしておられる」
 顔をどす黒く染め、織部は押し黙った。
 「いや、隠されんでもいい。我々にとっては都合のいいことなんですわ。え? そんなことまでよく調べ上げたなと思っておいでですか? NASAを舐めちゃいけません。まあ、今回のことには他のいろんな機関も協力しているんでね。実にいろんな機関がね。言ってみりゃ、アメリカ一国がこぞって彼女を欲しがっているんです」
 今度は顔から血の気が退くのを、織部は感じた。「まさか、CIAとかも絡んでいるのか」
 「ま、何でもいいんですよ。上はね。上が誰であろうと、我々しもじもは命令されたまま動き、約束の給金をもらえばいいんです。そうでしょ? とにかく、わたしゃ仲介人としてあなたを確保さえすればいいんで。へへ。NASAは、あなたの身分と財産を保証します。警察官は病気を理由に休職していただきたい。だが警察を辞めている間も、警察だった時と同じように、いやそれ以上に行動できる自由が与えられます。いい話でしょ? 今よりずっと懐も温かくなりますぜ。へへへへ。ヒロコを探し出す心配はございません。それはNASAやその他の情報網が、遠からずやってのけます。心配ご無用。あなたの使命はヒロコと交渉し、NASAに手渡すこと。それだけです。それが終わればまた警官に戻ってもよし、報奨金を元手にカリブ海あたりでバカンスを決め込んでもよし。取り敢えず当座の資金として、あなたにはこれだけが与えられます」
 橋爪の差し出した五本のむっちりと太った指を、織部は、グロテスクな蛾の幼虫でも見るように眺めた。
 「五十万か」
 「五千万です」
 眩暈がした。
 「ヒロコを受け渡すことに成功すれば、さらに同じだけ」
 本当に昏倒してしまうんじゃないかと、織部は思った。もちろん酔いのせいではない。金額で目がくらむなんてさすがに恥ずかしいことだと、彼は必死に眉間に意識を集中させた。
 「なんで・・・それにしても、どうして俺なんだ? なんで俺みたいな者にそんなに出す気なんだ、アメリカは」
 橋爪はビールを織部のグラスに注いだ。しかし目は彼から離さなかった。
 「ヒロコはすでに、日本国内にはおらん、と思われます」
 「本当か?」
 「わかりませんがね。まあ、あの連中のやることは────あの連中というのは、つまり特殊能力者のことですが────常軌を逸してますんでね。奴らは、ひょっとすると、ぽん、とトランポリンでも跳ぶように跳んで、そのまま海外まで飛んでいったとしても、あながち不思議じゃないですからな。へへへ。いずれにせよ、ヒロコは海外に潜伏した可能性が高い。海外にいるとなると、ちとややこしくなるんです。捕まえるのがね。でもあなたは日本人で、警察として有能でおられる。ええ。そして何より、ヒロコと面識がある。まあそれほど親しくは無いと言いたいでしょうが、しかしあなたのざっくばらんで積極的な性格は、内向きのヒロコと実は通じ合いやすいんじゃないかと我々は睨んどるんです。いろいろ調査した結果ね。つまり、あなたは適任なんですよ。へへ。それに・・・へへへ」
 「それに、何だ」
 「え? 言わせるんですか?・・・いやあ、まあ・・・へへ。何よりですな、あなたは昔からヒロコに、個人的に強い関心を持っておられる。非常に強い、ね」
 織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。

 ──────あの時、自分は魂をアメリカに売ったのだ。そう、織部は回顧した。自分の職業も、日本も、家族も、ある意味ではあの時、捨てたのだ。そして今、彼らの指示を受けて、彼らと共に飛行機に乗り、シリアに向っている。
 <そうだ>彼は爪を噛み、眉間に皺を寄せた。<俺は結局、あの娘に会いたいだけなんだ。どんな手段を使っても会いたいんだ。あの娘の今を見てみたい・・・会って、それからどうする? この切ない胸の内でも告白するか? は、は! はは!・・・だけど、俺はほんとに、あの娘をNASAなんかに引き渡すつもりか?>
 彼は通路を挟んだ隣の席を一瞥した。見ると、そこに座る白人が、先ほどからじっと彼の方を観察している。
 「おい、ジョージ」
 極まりが悪くなった彼は、白人に新聞を突き出してみせた。
 「ここんとこの記事にはなんて書いてあるんだ」
 彼は英字新聞の内容をほとんど理解していなかったのだ。ジョージと呼ばれた顔の小さなとんがり頭の白人は、彼が指差す部分に目を通し、片言の日本語で答えた。
 「ヒロコのこと」
 「それぐらいわかってらあ。これだけ写真が載ってりゃあな。ここの飛行機が墜落して燃えてる写真も、ヒロコのしわざか」
 「ミグ23。ヒロコが燃やした」
 「ミグ23・・・シリア空軍か」
 「イエス。シリア空軍。ついにシリア政府、世界にお願いした。軍隊送ること。いよいよ世界から軍隊シリアに集まる。ヒロコとても危険」
 ジョージの隣に座る別の大柄な白人が英語でジョージに囁いた。ジョージは頷き、織部を振り返った。ぐっと声を落として囁く。
 「この飛行機、別の国のエージェント乗っているかも知れない。ヒロコの話題ダメ」
 けっ、と吐き捨てるように呟いて織部は前を向いた。面白くなさそうにソファに身を沈め、爪を噛む。
 <畜生。『とても危険』ってなんだ。どっちがどっちに対して危険だってんだい。ほんといろんなことがわかんなくなってんな。何であの娘はシリアなんかにいるんだ? あいつの意志か、これは?・・・じゃあおい、俺はどうだ。俺は果たして自分の意志でこの飛行機に乗っているのか? は! 大した「自分の意志」だよ。この売国奴が!・・・畜生、駄目だ。人間、いったん日陰に追い込まれると、性根までどんどん腐っていくみてえだ・・・いや。違う。違うぞ。俺にも正義感のかけらってものがまだ残ってらあ。俺はヒロコを救い出しに行くんだ。そうだ。そうだろう? それが俺の、俺だけが知る使命だ。ヒロコ、俺が助けに行くぞ。俺が行くまで死ぬな。誰かに傷つけられたりするな。それに・・・・それに、もう無益に人を燃やすな、馬鹿が>
 機体が揺れた。乱気流に入ったのだ。

○    ○    ○


 線香の重い薫りが漂う。ランプの灯りが十七の乙女の肌を紅に染める。憂いを帯びて見開かれた黒い瞳には何も映っていない。腕や肩、額に巻かれた宝石の数々も、彼女一人だけのために銀の器に盛られたさまざまな果物も、彼女の倦んだ眼差しの先にはない。
 ヒロコは広い天幕の中で肘枕に寝そべり、溢れかえる贅沢に囲まれ、この上なく憂鬱であった。
 部屋にはヒロコを除いてもう一人、隅の暗がりで片膝を突いて座り込み、じっとヒロコを見つめている女がいた。ジャミラである。彼女はヒロコの側仕えになっていた。
 線香の煙が蜘蛛の糸のように細く立ち昇る。
 立ち昇った煙は、夜風もないのに、途中で乱れる。
 <もう、百人くらい殺したろうか>
 苛々とヒロコは視線を動かした。
 <いや、そんなことはないわ。さすがに百にはまだ行ってない・・・>
 「ジャミラ」
 ジャミラはすぐに走り寄ってきた。
 「ホット!」
 手で首筋を煽ぐ真似をして英語で言うと、ジャミラは頷き、ヤシの葉で作った扇を取り出して女主人を煽ぎ始めた。ジャミラには幾つかの英単語しか通じない。ヒロコの使える英単語もごく限られている。それらの言葉も、きちんと意味が伝わっているのか、ヒロコの手振りで何となく意図を理解しているのか怪しいものである。それに、ジャミラは最近、どんな命令を受けるときもどこか不機嫌そうである────ヒロコが最初の「奇跡」を行って戦車を燃やし、弟ハサンの仇を取った時は、泣きながら首筋に抱きついてきたのだが。あの時、生涯の服従を誓ったので、ヒロコもわざわざ彼女を侍従に指名したのだ。ちなみに長女のアイシャは「奇跡」の後もヒロコをいぶかしげに眺め、距離を置き続けた。
 扇で煽がれても、ヒロコの顔の曇りは一向に晴れなかった。やり場のない苛立ちが、もはや我慢できないほどに募る。
 「アイスが食べたい」
 日本語で言い放った。
 ジャミラは眉を顰め、顔を覗き込んだ。「What?」
 「アイス。アイスよ。アイスクリーム」
 「Oh. No. No ice cream」
 「わかってるわよ。どうせここには冷蔵庫がないもの。こんな砂漠のど真ん中じゃ」
 「マーファヒムトアレーク」
 ヒロコの苛立ちは頂点に達した。「アラビア語でしゃべらないでよ。イングリッシュ。イングリッシュ!」
 ジャミラはうろたえて天幕を出て行った。
 残されたヒロコは舌打ちする。宝石を嵌めた指が震え、髪が乱れる。自分はこんなところで何をしているのだろう、と彼女は思った。日本語の通じない、暑くてもアイスも食べられないような辺鄙な場所で。
 何をしているか? 殺人をしているのだ。殺人────それ自体は、回を重ねるごとに、ヒロコの心を前ほどかき乱さなくなっていた。そのことも彼女自身驚きであった。彼女は自分が人の死に対して不感症になっているのを自覚した。だが、ずっしりと重い、まるで自分が焼け焦げさせた遺体が自分の胸に次々と折り重なっていくような重苦しさを、日を追うごとに強く感じていた。
 ヒロコは吐息をついた。
 ジャミラは背の高い通訳の男を連れて戻ってきた。彼の名はサリム=カルハシュ。彼女の通訳を任されている。この部族で唯一英語のできる男である。鼻髭を蓄え、彫りの深い目をしている。
 彼が入ってくると、ヒロコの様子が変わった。さりげなく髪の乱れを直し、毅然とした態度を取る。頬がうっすらと紅潮している。
 サリムは深くお辞儀をした。それから、『何をお望みですか』と英語で尋ねた。
 ヒロコは伏し目になり、小声の英語で答えた。
 『彼女を外へ』
 サリムは頷き、ジャミラにアラビア語で外へ出るよう指示した。ジャミラは驚きと憤りの表情でじっとヒロコを見つめると、部屋を出て行った。
 広い天幕に、青年と二人きりになった。ヒロコは天幕の壁を見つめながら、熱い吐息をついた。
 サリムは凛々しい眉の奥にある情熱的な眼差しで女主人を見つめた。その視線を、目を合わさなくともヒロコは痛いほど感じ取っていた。ユウスケは────ユウスケはもちろん、彼女の思い出の中で依然として大きな位置を占めていた。しかし彼はここにいなかった。会える見込みもなかった。果てしない砂漠と打ち続く戦闘は、ヒロコの精神をひどく疲弊させた。どれだけもてはやされても、心は洞穴のように空虚であった。虚しさのあまり死んでしまうのではないかと思った。何より彼女は若かった! 彼女は慰めを欲していた。また、慰めを求めても許される地位にあった。
 紅潮した顔をさらに火照らせ、ヒロコは視線を落としたまま、小さく頷いて見せた。それが合図だった。サリムは興奮した眼差しで彼女を見つめたまま足元まで近寄ると、その場でひざまずき、額が床に突くほどの礼拝をした。
 「サイェート(ご主人様)」
 そうつぶやくと彼は面を上げ、ヒロコの右の素足を両手に取り、接吻した。
 ヒロコは目を閉じた。
 足の甲に潤いを感じた。そして情熱。接吻は儀礼的なものに終わらなかった。柔らかく離れ、また柔らかく戻ってきた。足の甲から、指先、土踏まずへと。ヒロコは目を閉じて口を半開きにし、官能の疼きに身を委ねた。
 なぜか哀しくて涙が目に溢れた。
 絶えず監視される身である主人と下僕に許された、これはぎりぎりの戯れであった。どちらが言い出したわけでもなく、始まり、続いてきた戯れであった。これ以上は決して進んではいけない、という暗黙のルールだけがそこにはあった。
 だが今日はサリムの方が興奮していた。彼は我慢ができなくなったのか、思わずヒロコの足首を強く掴んだ。あっ、とヒロコが思ったちょうどその刹那、天幕の外からジャミラのアラビア語が聞こえてきた。
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様がお越しです』
 若い通訳は慌てて身を退いた。アラビア語のわからないヒロコも、名前だけは聞き取ることができる。彼女は火照った頬に手を当て、ひどくうろたえながら姿勢を正した。
 香の煙が乱れる。
 幕が開き、族長が姿を現した。
 白い長衣に何重にも巻いた首飾りを下げ、その上に族長だけが身に着けることを許された彩り豊かな外套を羽織っている。ここ数か月のアル・イルハムの軍事的躍進が、彼の威信をかつてないほど高めていた。腰には宝石を散りばめた金色の短剣。威風堂々とした立ち姿に似つかわしい、長く黒々としたあごひげ。  族長はじろりと室内を見渡し、部屋の隅に小さくなっているサリムを見やった。
 『なぜお前がここにいる』
 『ヒロコ様のご命令で、戦況について説明していました』
 『ふむ。まあ、お前がいると都合がよい。わしの話すことを英語で伝えろ』
 『かしこまりました』
 族長は正面を向き、超人的な力を持つ女を見据えた。ヒロコは動揺を悟られないよう努めて彼を見返した。
 族長は片膝を立てて腰を沈めた。
 『同志ヒロコに神のご加護を。時が来た。多国籍軍がこちらに向かっている』
 サリムはすぐに英語に訳した。
 族長は続ける。
 『あなたの一層の活躍を、我々は期待している』
 ヒロコは身じろぎもせず、族長のアラビア語とサリムの英語に耳を傾ける。
 『今度の戦いは、今までのように簡単にはいかない』
 族長は自らを落ち着かせるために言葉を切った。貫くような視線でヒロコを捉える。
 胸を膨らませ、深呼吸を一つ。それからヒロコににじり寄った。
 『同志ヒロコ。時は来たのだ。我々は本当の意味で団結して、一つになって外敵に当たらなければいけない。一つにならなければいけないのだ。ヒロコ。あなたは砂漠にかかる月のように美しい。あなたは私の妻として相応しい。私もあなたの夫として相応しい男である。一つになろう。これは、あなたがムスリムに改宗する絶好の機会でもある。どうか、私と結婚してほしい』
 ヒロコは青ざめた。語られたのが求愛の言葉であることを、雰囲気で察知した。しかし、確かなことが知りたい。肝心の英語が聞こえてこない。若き通訳は、あまりに愕然として声が出なかったのだ。
 族長の鋭い視線が通訳を捉えた。
 『どうした。サリム。なぜ訳さない』
 『いえ、はい。ただいま』
 『なぜ汗を掻いている。なぜ顔が赤い』
 シャリフ・アブドゥル=ラフマーンは、怒りに満ちた形相で、若い通訳と東洋の女を見比べた。明敏な彼は直観ですべてを悟った。
 『おのれ、サリム。身の程を知れ!』
 黄金の短剣が抜かれ、鋭いうなりを立てて弧を描いた。目にも留まらぬ速さであった。ざくっ、と音を立てて、青年の首が血しぶきを上げ、胴体から離れた。全てがあっという間の出来事であった。首は、絶叫を上げることすら許されず、宙を飛び、天幕にぶつかり、床に転がった。
 ヒロコは癲癇を起こしたように全身を痙攣させた。あまりの恐怖に腰が砕け、逃げ出したくても後ずさりすらできなかった。ヒロコは恐れおののいた。数多の人を焼き殺しながら、今初めて、彼女は死の恐怖というものを味わった。大量の鮮血。血痕が彼女の衣服にかかっている。アブドゥル=ラフマーンも、首のない胴体が倒れるときの返り血で真っ赤になった。足元には血の池。
 天幕の裾から、ジャミラががたがたと震えながら中を見つめていた。
 顔までも血に染めた族長が、凄まじい形相でヒロコを睨みつけた。
 もちろん、彼自身も命の危険と隣り合わせであった。火炎少女に燃やされる恐れがある。だが、彼の気迫ははるかにヒロコの能力を上回った。ヒロコは怒りを覚える余裕すら与えられなかった。彼女は子犬のように怯えた。
 アブドゥル=ラフマーンは短剣を鞘に納めた。荒い息で肩が上下する。
 『敵の襲来に備えろ』
 彼は広い背中を向けた。
 『血の付いた物はすべて替えさせる。通訳も新しいのを見つける』
 そう言い捨てると、彼は天幕の外に立ち去った。もちろん全てアラビア語だったが、ヒロコは不思議とその内容を理解できた。
 あとに、凄惨な胴体と首と、大量の血と、ヒロコが残された。ランプの灯りがそれらを無情にもくっきりと照らした。
 ヒロコは嗚咽した。
 夜風で天幕がばた、ばた、とはためいた。

○    ○    ○


 多国籍軍介入を三日後に控えた九月半ばの灼熱の午後。
 蜃気楼の揺らぐ砂漠の地平線に現れた一台のジープが、アル・イルハムの本陣までやって来て止まった。
 布と黒いリングを頭に乗せた兵士二人に挟まれ、車から降り立ったのは、日本人である。砂塵に揉まれて薄汚れたよれよれのスーツに、無精ひげ。
 織部である。
 彼が二人の米国人とダマスカスに降り立ってから、一か月が経っていた。
 超能力の研究者集団という偽の肩書で、彼らはアル・イルハムに接触を試みた。イスラム圏の知識人や有力者たちの推薦書も周到に用意した。交渉はぎりぎりのところまでうまくいったかに見えた。しかし、アル・イルハムの幹部との初会合で、いきなり白人二人は捕えられ、織部と引き離された。もともとからアル・イルハムの狙いは日本人の織部一人にあったのだ。織部自身は机と椅子と床敷きのベッドと、鉄格子付きの窓しかない部屋に説明もなく二週間監禁された。拘束された二人の米国人がその後どういう運命を辿ったのか、織部は知らない。
 今、ジープから降り立った彼は、眩しそうに、砂漠と、岩山と、ベドウィンたちのテント村を見渡した。ラクダや羊はほとんどいない。その代わりに見えるのは、周辺にぐるりと置かれた、何台もの軍用車両や分捕り品の戦車。
 何とも異様な風景であった。破壊する物などない不毛地帯のど真ん中に、125ミリ砲を備えた戦車が鎮座している。伝統的な服装のベドウィンたちがカラシニコフを担ぎ、山羊の毛で織った黒いテントの脇に、ジープやトラックが横付けされている。目的も時代も異なる物がいっしょくたに集められた観があった。
 織部は強烈な日差しに顔を顰めた。
 一行を、シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが出迎えた。彼が歩けば、小石混じりの砂地までが威厳をもって鳴る。
 彼は品定めをするようにじろじろと無精ひげの東洋人を見つめた。
 『お前が日本人のオリベか』
 兵士が織部の耳元で英語に訳す。織部は頷いた。
 『お前はヒロコを昔から知っているのだな』
 織部はまた小さく頷いた。
 彼を穴のあくほど見つめていたシャイフの顔面に不意に怒気が広がったかと思うと、彼は腰にさした短剣の柄を握りしめた。
 かちゃり、と音がして、光る刃先が見えた。
 『お前はヒロコを取り戻しに来たのではないか』
 英訳を聞いて織部は動揺した。彼は汗を浮かべながら首を横に振った。
 『構わん。どうせその試みは成功しない。もし、お前が、ヒロコに逃げることをそそのかしたりしようものなら、お前の命はその時までだと思え』
 生唾を呑み込み、織部は頷き返した。
 『よし。それでは病人に会ってもらう。わかっているだろうが、彼女の心に巣食った悪魔を追い出すことが、今のお前の使命だ』
 有無を言わさぬ気迫である。織部は今さらながら、到底なしえない任務を引き受けてしまったのではないかと思った。しかし同時に、ヒロコに会いたい、一目見たいという衝動はかつてなく高まっていた。現在の自分が死と隣り合わせなら、ヒロコはそのまっただ中にいる、しかもたった十七歳で。
 織部は顔を上げ、族長の差し伸べた手の方向へ歩き出した。両脇には、カラシニコフを肩にかけた二人の兵士がしっかり密着してついて行く。
 他と比べてひときわ大きく立派な天幕の前へと織部は案内された。
 空を見上げれば、目を刺し抜かれそうなほどに青い。
 深呼吸し、中に入った。
 薄暗い。
 すぐに香の煙が鼻を突いた。そこには豪華な調度品に囲まれて、贅沢な装身具を身にまとい、肘枕に半身を沈めて窪んだ目を見開いた高瀬ヒロコがいた。
 織部は立ちすくんだ。彼の目に涙が浮かんだ。それくらい彼女の変わりようは激しかった。
 落ち窪んだ目のふちとげっそりと痩せた頬。単に痩せたのではなく、精神の異常が顕わである。病的に見開いた虚ろな目。小刻みに震える指先。彼女は生きながらにして廃人と化していた。
 その姿はまるで、砂漠に根付くことなく枯れ朽ちてしまった一輪の花のようであった。それも、満開を知らないまま、まだうら若い蕾のままで。
 それでもヒロコは、完全に心の病に侵されているわけではなかった。彼女は闖入者に気づいた。焦点の合わない視線は彼を捉え、しばらく経ってからはっきりと焦点を取り戻した。表情に驚きが広がった。
 「け・・・刑事さん?」
 織部は膝を突いた。
 「ああ、ああ、そうだよ。覚えているかい?」
 「私を取り調べた刑事さん」
 「そうだ。刑事だ。覚えているかい? 今は休職中だがね。でも確かにあのころは刑事だったよ。そうだ。君を取り調べた織部だよ」
 言いながら、織部はやるせない悲しみでいっぱいであった。彼女をこんな姿にさせた何かに対する激しい怒りがあった。その何かは、特定の個人なのか、それともほとんど社会全体と言っていいほどのものなのか定かでなかった。しかし明らかに、この子にはまったく別な道もありえたはずだ。そういう思いがあった。
 彼はふと自分の両脇に兵士がいることに気づいた。英語で吐き捨てるように言った。
 『出てってくれ。彼女と二人だけにさせてくれ』
 『それはできない。命令だ』
 『それでは彼女の心を開かせることができない。無理だ。出てってくれ』
 監禁されて以来初めて発した強い口調であった。二人の兵士は互いに見交わしていたが、織部を残して立ち去った。
 燭台の炎が揺らぐ。
 二人きりになり、織部は改めてヒロコを見つめた。激しい当惑と喜びと不安のないまぜになった彼女の目に、自分の目の高さを保ったまま、彼はにじり寄った。
 「織部だ。日本の織部だ。君が小学生の時から事件を担当してきた。わかるか?」
 泣きそうな笑顔が頷いた。
 「なんてことだ。がりがりに痩せ細って・・・どうして、こんなになるまで・・・今も・・・苦しいのか?」
 頬を震わせながら、彼女は頷いた。
 「私を捕まえに来たの?」
 「違う。そうじゃない。今は、日本の刑事じゃないんだ。俺は────俺は、昔からの知り合いとして、君に会いに来た。君の知人として。君のことが心配で来たんだ」
 彼は唾を呑み込み、意を決した顔で、ぐっと声を低めて言った。
 「ヒロコ。逃げよう。ここから逃げよう」
 ヒロコは目を見開いた。当惑する黒い瞳に、一瞬間、期待が掠め、消えていった。
 力なくヒロコは首を横に振った。
 「逃げよう。俺と一緒に。ここは地獄だ。死の世界だよ。さっき、首長みたいな男が、君の心に悪魔が宿っていると言った。だが違う。本当はここ全体が悪魔で、君は悪魔に囚われているんだ。君はまだ正気だ。大丈夫だ。逃げよう。多国籍軍の攻撃が始まる。これ以上・・・もう、何もしなくていいんだ。もう君は何もしなくていいんだよ、ヒロコ。だから、逃げよう」
 ヒロコは首を横に振った。涙が散った。
 「どうしてなんだ? 奴らをうまくだましてジープに乗り込もう。何とかなる。ここにいると君は狂ってしまう。全てが手遅れになる前に・・・どうしてだ? なあ、どうしてなんだ? ここから逃げたくないのか?」
 「駄目」
 「どうしてなんだヒロコ」
 「私、殺人してるのよ。何人も。何人も殺したの。私、殺人鬼よ。逃げたって、行くところがないわ」
 「ある。日本があるじゃないか。日本に帰ろう。日本が、日本が駄目なら、一時的にどこか別の国へ身を隠せばいい。とにかくどこでもいい。ここにいて人を殺し続けるよりはましだ」
 「しっ、来るわ」
 「ヒロコ」
 入口の布がさっと開いた。アブドゥル=ラフマーンが護衛兵を従えて姿を現した。
 ヒロコの変わり身は素早かった。彼女は瞬時に手のひらで頬の涙を拭い、しっかり身を起こし、別人のように生き生きとした笑顔を浮かべて彼らを迎え入れた。
 族長は鋭い視線を二人に向けた。黒い鼻髭が引き攣ったように動く。
 『逃げることを勧めたな』
 彼の言葉を兵士が英訳する。それに答えたのは、うろたえた織部ではなく、ヒロコ自身であった。彼女は片言の英語ながらしっかりと張りのある声で答えた。
 『違うわ。元気を出せって、言ってくれたの』
 『逃げることを勧められたろう』
 『違うわ。違うわ。もちろん確かに、ここにいて大丈夫か、と彼は聞いたわ。彼はそう聞いたけど、私は逃げない。そんなことには決してならないわ。もう大丈夫。もうほんとに大丈夫。私、とても長い間、日本人に会ってなかったから。とても長い間、私は孤独だった。日本人に会えて、話して、よかった。私はもう元気。とっても元気。ミスター・オリベのおかげよ』
 まるで別人のような快活ぶりである。笑顔を振りまき、はしゃぐように喋った。アブドゥル=ラフマーンは眉を顰めた。織部も、彼女の豹変ぶりに唖然とした。
 ヒロコは懸命に復活を演じた。
 『もう大丈夫。今度の戦いにも出られるわ。ね、見て。ミスター・オリベと話して、私こんなに元気よ』
 『では多国籍軍との戦いに備えることができるのだな』
 ヒロコは激しく頷いた。
 『そう。大丈夫。大丈夫だから。だから、ミスター・オリベを安全に帰してね。お願い』
 シャイフは険しい目でじっとヒロコを伺っていたが、納得したように頷いた。
 『よし。わかったヒロコ。この東洋人は確かに、お前を元気にさせた。お前の心に巣食う悪魔を追い出したようだ。安心しろ。彼は安全に送り返す』
 『きっとよ。きっと。お願い』
 『オリベ。お前の仕事は済んだ。出ろ』
 問答無用であった。抗弁の余地はなかった。シャイフに顎で促され、織部は後ろ髪をひかれる思いで天幕の外に出た。すぐに兵士二人が両脇につく。虚脱感でしゃがみこみそうになるのをこらえ、織部は歩いた。彼の救出作戦は失敗したのだ。しかし彼自身の命はひとまず、ヒロコによって救われた。ヒロコは自分よりも、同胞人を救う道を選んだのだ。
 炎天の下、織部は下唇を強く噛んだ。
 <無力だ・・・・なんて無力なんだ俺は。何のためにここに来たんだ? 何てこった・・・あの子の目! あんな重荷を背負って・・・人殺しという重荷だ。一生下ろせない重荷だ。ヒロコ! ヒロコ! どれだけの苦しみに君は耐えているんだ? 君はもう覚悟を決めているんだね。なんという覚悟だ。君は最後まで、自分が死ぬまで、人を殺し続けるつもりなんだな>
 慙愧の念にさいなまれたその表情は、日に焼けた皺を刻んで、醜悪であった。  


第三話 その五へ

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