火炎少女ヒロコ


第三話  『シリア』

その五

 



○    ○    ○


 二日後。
 空はこれから起こるであろう殺戮など全く無関心に、美しく青紫の朝日を迎えた。
 ラクダがいななく。兵士たちの号令が岩山にこだまする。
 テントの片隅で、祈りを捧げる老人の声がかすかに聞こえる。
 叫び声が上がった。
 見上げると、青空は点々と汚れ始めていた。それぞれの点は徐々に拡大した。翼が生え、機体の姿になった。多国籍軍である。その数、七、八十。
 怒号が飛び交う。人々は臨戦態勢についた。
 アル・イルハム側からはまだ一機の戦闘機も飛び立っていない。しかし巨大なスカッドミサイルと、十数台の戦車の主砲、それに数多のカノン砲、迫撃砲、機関銃などの銃口が、まるで、賓客の到来を待ちわびるクラッカーの列のように、一斉に彼方の空へと向けられた。
 その中心には、男八人が掲げる井げた状の神輿に乗って、ヒロコがいた。
 その姿はほとんど滑稽であった。滑稽なまでに、彼女は美しかった。
 宝石と刺繍の施された緋色と赤銅色の衣装を重ねてまとい、薄紫のシルクのベールを被っている。真っ白に化粧をし、豪奢な椅子に腰かけ、紅を引いた唇を一文字に結んで空を見つめていた。
 厚化粧を望んだのはヒロコ自身であった。胸中の動揺を、なるべく表に見せたくなかったのだ。今や、彼女はこの一帯の女王であった。女王である限り、死と直面する壮絶な場面においても、威厳を失いたくなかった。それがずたずたに心を病んだ彼女に残された、わずかな誇りであった。
 彼女の側には、堂々たる体躯の、アブドゥル=ラフマーン。そして百を超える護衛兵たち。皆一様に、緊張した面持ちである。
 誰かが生唾を呑む音。
 幾重にも重なり合った轟音が聞こえ、敵機の輪郭がはっきりと目視できるまでになった。
 多い。これまでにない数の敵機である。
 両手で顔を覆う者が現れた。どこからか悲鳴も聞こえた。
 兵士の一人が敬礼をして叫んだ。『これ以上近づくと危険です!』
 アブドゥル=ラフマーンが囁いた。『ヒロコ』
 空が轟く。
 ヒロコは立ち上がった。拳を握り、目を見開き、意識を集中した。
 青空。
 何も変わらない。迫りくる敵機と、蜂の大群のようなうなり。先ほどと同じである。何一つ変化がない。変化のないことが、異変を告げていた。ヒロコは焦り、再度意識を集中した。しかし同じであった。彼女がどれだけ念じても、敵機は一台も燃え上がらなかった。何度かこの光景を悪夢で見てきたような気がした。まさか、とヒロコが眉をひそめた瞬間、今まで感じたこともない、まるで津波に呑み込まれるような猛烈なエネルギーを浴びた。あまりの衝撃に彼女は悲鳴を上げて悶絶し、胃液を吐き出した。
 <何? 何これ? 私より────私より遥かに強い力だわ!>
 部隊全体に動揺が走った。人々は騒ぎ始めた。アブドゥル=ラフマーンは汗を浮かべ、椅子に倒れ込んだヒロコの肩を支えた。
 『どうした。ヒロコ。何が起こった』
 『でき、できない・・・・強力な・・・ずっと強力な・・・』
 『効かないのか』
 『できない・・・』
 <そうよ。やっぱり平和が一番いいに決まってる。平和であれば誰も殺す必要もないし、誰にも殺される心配もないのに、なのに、私はいったい何をしようとしたんだろう>
 いよいよ近づいてきた何十台もの敵機を見上げながら、ヒロコは呆然と、この緊急事態にそぐわない思いにとらわれていた。
 <普通に食べて、普通に過ごして・・・もう遅いかしら。なんで勝てる、なんて思ったんだろう。勝てると思っていたのかしら。ああ。決まりきっているわ。平和が一番じゃない。すごい数の飛行機。殺しに来たのね。私たちみんな、殺されるのよ。死ぬときって苦しむのかしら。来ないで。お願いだから来ないで。もうあんな近くまで・・・・駄目よ。逃げられない。私、たくさん燃やしてきたから、今度は燃やされるのよ、もちろん。全部、全部全部、私のせいよ。もうすべて遅いわ>
 一方、はるか上空から高度を下げつつある編隊の中心には、四機ほど横に連なって飛ぶF15戦闘機があった。カワセミのくちばしのように鋭く尖った機体。それぞれのコクピットの後部座席には、さまざまな肌の色を持つ特殊能力者たちが搭乗していた。彼らは互いに離れていても意識を連携させ、目に見えない巨大なオーラを形作っていた。
 金髪、長身の男。米軍で訓練を受けた特殊能力者である。
 黒髪に褐色の肌、淡緑色の瞳を持つ女。インド生まれイギリス育ちの特殊能力者である。
 縮れ毛に広い額、丸縁眼鏡をかけたユダヤ人男性。体全体を小刻みに震わせてオーラを出している。
 長い巻き毛に吹き出物の多い顔をした、混血の中年女性、アレクサンドラ。四人の中で最年長である。米軍で訓練を受け、今回の合同作戦ではリーダーを務める。
 彼女が心から心へと、他の三名に語りかける。
 <今のところヒロコの能力を防ぐことに成功。爆撃開始一分前。各機展開後もこのままシールドをかけ続けること。大丈夫。大したことないわ>
 彼女は鼻で吐息をついて、目を細めた。
 <可愛そうに。あの子、芸をきちんと仕込まれないうちに見世物に出されたのよ>
 コクピットの偏光ガラスに、美しい曲線を描いて地平線が映る。
 それから、不毛の大地。そこに寄せ集まった、ゴミのような集団。
 アレクサンドラは声を出した。声を出すこと自体好まないような、ひどく冷めた声だった。
 『攻撃開始』
 次の瞬間、シリア砂漠を覆う蒼穹に、矢のような火花が走った。
 空気をつんざく音。地響きがして、アル・イルハム側に唯一あったスカッドミサイルが激しい衝撃音とともに高々と黒煙を上げた。
 鋭い擦過音が次々と繰り出された。まるでロケット花火である。あちこちで爆発音とともに砂塵が高く舞い上がる。大地にねじ込まれるような悲鳴が溢れ、人々は逃げ惑った。
 地上では戦車やカノン砲で応戦したが、とても太刀打ちできる相手ではなかった。まるで、蟻の群れが潰されるように、ベドウィンの兵士たちは次々と倒れていった。
 一頭のラクダが燃上しながらいななき、崩れ落ちた。
 死者たちの流した血は砂漠に浸み込み、すぐに乾いた。
 ベドウィンたちは大混乱に陥った。轟音を上げて飛び交う機影の下で、人々は右往左往し、逃げ惑い、呪いの言葉や悲痛な叫び声が岩山まで響き渡った。
 呆然自失のヒロコの手を取る者がいた。病的なまでにぎらぎらとした目で彼女を見つめる。シャイフのアブドゥル=ラフマーンである。
 『逃げるぞ』
 それからのことを、ヒロコはあまり覚えていない。腕を引っ張られ、強引に砂地を走らされたはずだ。一頭のラクダに乗せられ、自分のすぐ背後にシャイフも跨った。砲弾の飛び交う中をラクダは猛り狂ったようにじぐざぐに走った。こういう混乱した時は、ジープなんかよりラクダの方がよほど目立たない、というシャイフの目算があったのかも知れない。とにかく、爆発で跳ね上がった砂をかぶり、脇腹すれすれのところを機関砲が突き抜け、何が何だかわからない状況で、幾度か本当に吹き飛ばされたような気さえしたが、しかし体のどこにも痛みを覚えていないので、してみると無事だったのだと言えよう。
 気がつけば、彼女とシャイフはラクダを捨てて岩山を登っていた。促されるままに、彼女は必死で岩をつかみ、ざらざらした山肌を這い上った。肘をすり剥き、血がにじんだ。生きたい、という本能的衝動だけで手足を動かしていた。疲れを意識する余裕さえなかった。やがて巨大な岩と岩の隙間に、大人が背を屈めて入れるだけの洞穴が現れた。二人はその中に転がり込んだ。
 冷たいごつごつした地面に伏し、肩で息を切らせながら、ヒロコは自分が、身に着けていた豪華な衣装や装身具のほとんどを振り捨ててきたことに気づいた。
 薄紫のベールだけは辛うじて頭にかぶったまま、全身砂まみれの惨めな格好で、彼女は今、洞穴にいた。男と二人きりで。
 嫌な予感を、ヒロコは覚えた。
 洞穴の内部は外から見るよりも広い。以前に誰かがそこで焚火をした跡もある。光が差し込まないので夜のように暗く、すぐ隣にいるシャイフの表情さえはっきりと見えない。
 彼に腕をつかまれ、ヒロコは痙攣した。有無を言わせぬ力強い手だった。汗ばんで上気し、鋼鉄のように固かった。
 外では、いまだ爆撃が続いている。その音は地鳴りのように洞窟の中にまで響き渡る。
 シャイフは息を荒げながら、囁くように言った。
 「You OK?」
 彼の知るほとんど唯一の英語である。大丈夫かと訊いてきたのだ。ヒロコはまだ頭がぼんやりしている。頭痛と吐き気も収まっていない。
 「You, fire,OK?」
 燃やす能力は復活したかと訊いているのだろう。ヒロコは力なく首を横に振った。
 暗がりがひんやりと重みを増した。
 生唾を呑み込む音。
 腕を握る男の手にさらに力がこもった。ヒロコの驚いたことに、彼は意気消沈するどころか、むしろ生気をみなぎらせていた。腕が痛い。
 病的に見開いた目で、彼は東洋の女を見つめた。
 『わが軍はお終いだ。我々もお終いだ。だが、私の望みは一つだけ実現させる』
 アラビア語だったが、内容は明確にヒロコの頭に届いた。
 ヒロコは激しく怯えた。彼の手を振り解こうともがいたが、叶わなかった。
 自分はなんでこんな目に遭うんだろう。男に強く抱き寄せられながら、ヒロコは心に思った。ベールが黒髪から落ちた。武骨な手が彼女の小さな背中をまさぐる。なんでこんな目に。自分が悪いのだろうか。いったい何が悪かったのだろう。人を燃やしたりするようなバケモノに生まれたこと?
 <私が悪いの? じゃあ私、どうすればよかったの?>
 男の熱い唇が彼女の唇に吸い付いた。情熱的で、官能的である。
 <この人に抱かれながら爆撃されて死ねば、それはそれでいいのかも>
 そんな考えがふと脳裏をよぎった。自分の人生に早く区切りをつけたい、という前から心に巣食う願望も、それを後押しした。
 息苦しくなった。男の手が彼女の尻を激しく撫でた。
 腐ったキャベツに顔を押し付けられたような、どうしようもない嫌悪感が、彼女の腕に尋常でない力を与えた。
 男の分厚い胸板を、どこにそんな力が残っていたのか、というほどの勢いで、突き放した。
 <死ね!>
 彼女はありったけの念を込め、男が燃え上がることを願った。しかし、燃えない。何一つ変化はない。多国籍軍のシールドは完璧に彼女の能力を封鎖しているのだ。
 奈落の底に落ちるような絶望感が彼女を襲った。
 アブドゥル=ラフマーンは汗だくの顔でにやりと笑い、腕を大きく振り上げると、手のひらで日本人女性の頬を思い切り叩いた。ぱん、と音がした。意識が遠のくほどの痛みを覚え、ヒロコはのけ反った。
 大きな影が彼女にのしかかる。さらに何発か、彼女の抵抗の意志を根こそぎ奪うかのように、両頬に張り手を浴びた。そのたびに彼女は短い叫び声を上げた。
 腫れ上がった頬に涙が溢れ出た。
 <嫌! 嫌!>
 その時ふと、背後から肩に手を掛けられた感覚を覚えた。それは今、まさに自分に覆い被さろうとする男の手ではない。がりがりに痩せたほとんど骨だけの手。どこか懐かしい感覚である。死神に手をかけられたような冷たさがあった。ああ、自分は死ぬのだ、と彼女は思った。途端に、体の芯を捻じ曲げられるような衝撃を覚えたが、その衝撃すら、なぜだか懐かしいものを感じた。
 次の瞬間、彼女は忽然としてその場から姿を消した。
 完全に消えたのだ。
 踏みつけられた薄紫のシルクのベールだけが、後に残った。
 驚愕のあまり声も出ないシャイフを、F15のロケット弾が洞穴ごと跡形もなく吹き飛ばしたのは、それから十秒と経たない後のことであった。

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 富士山麓、樹海の闇は濃い。
 木立が揺れ、コウモリが飛び立つ。遠くの梢でフクロウがけたたましく笑う。
 枯れ枝を敷き詰めただけの掘っ立て小屋の前に、女が倒れている。砂にまみれ引き裂かれた異国の衣装。乱れた黒髪。赤く腫れ上がった頬。頬に流れた涙の跡。
 女に意識が戻った。
 重そうに頭をもたげ、彼女は周囲をいぶかしげに眺めた。その表情は次第に、信じられない、という驚きに変わった。
 女は掘っ立て小屋に視線を向けた。入り口の筵はめくられている。中に、胡坐を組む骨と皮ばかりの男。月明かりは小屋の中まで届かなかったが、男の体が仄かに青白く発光している。水面に映る月光のように冷たい光である。
 ヒロコの目が大きく見開かれた。
 『わたし・・・戻ってきたの?』
 相手の心に問いかけた答えは、心へと返された。
 『そうだ。ヒロコよ』
 確かに、予言者であった。二か月ほど前、半狂乱になって森を駆け抜けたときに出会った、あの予言者であった。あのときと全く同じ姿勢で座禅を組んでいる。何もかもが、夜の闇の深さまで、あのときと同じに思えた。
 彼女はひどく混乱した。彼女は半分だけ身を起こした。
 『あなたが戻したの? ここに?』
 『そうだ』
 『どういうこと? わたし・・・わたし、夢を見ていたの?』
 夢にしては長過ぎた。砂漠にかかる灼熱の太陽も、畳みかける爆撃の振動も、数多流れた血も、自分を無理やり抱き寄せ唇を奪ったアラブ人の感触も。何もかも、夢というにはあまりに克明過ぎた。だが、夢なら夢であって欲しい。できればあの西の最果てで起きたことすべてが夢であって欲しい。それは藁にもすがる思いであった。
 予言者が微笑んだ(と、ヒロコは感じた)。
 『現実はみな、夢のようなものだ。夢はみな、現実のようなものだ。どちらを終着点とするかの問題だ』
 『質問に答えて』
 『シリアでお前が燃やした数の人骨は、すべてあの地に残っている』
 ヒロコの目から涙が溢れた。
 『どうして、どうしてあなたは私をシリアに送ったの』
 返答はない。
 『どうしてそんなことしたの』
 月明かりを浴びた枯葉が一枚、滑るように二人の間に落ちた。
 ヒロコは震える拳を握りしめた。彼女は身がよじれるほど切なかった。猛烈な自己嫌悪に襲われていた。あの砂漠地帯にいるときは────あのときも良心の呵責があったとは言え、それでも、敵を燃やすことで何か自分の存在価値が上がる気さえした。自分を特別な人間のように錯覚した。敵からベドウィンたちを守ることが、自分に課せられた使命のように本気で思い込んだ。しかし敵機を燃やすことが叶わないと分かったとき、夢から覚めた。そして今、日本に戻ってみると、あっさりと意識が逆転している自分に気づいた。なんて愚かなことをしてしまったのか。人殺しをすれば人に認められるとでも思っていたのか。特別な力? それが何ほどのものなのか。多国籍軍に簡単に防がれたことで明らかではないか。自分なんて、強くも、偉くも、なんともない。自分なんて────出刃包丁を振り回して、やたら人を殺傷したがる狂人と同じではないか。
 もう二度と母国には帰れない。帰るべきではないと思っていた。織部警部補の誘いすら断ったではないか。あのとき、自分は覚悟を決めたのだ。最期の覚悟くらい、自分で決めたいと思ったのだ。それなのに。
 地面を引っかくように動かした手に、すべすべした小石が触れた。夜気が沁みて冷たい。しかし懐かしい手触りである。そう言えば、シリア砂漠には、このような丸々とした小石はなかった。皆、ごつごつ、ざらざらとしていた。
 ヒロコは小石を拾い上げ、胸の前で両手に握りしめて温めた。冷え切ったこの小石も、体温で包み込めば、温かくなるに違いない。 
 そうだ。まだ、最後の望みがある。
 『お願い・・・お願いがあるわ』
 『なんだ』
 『今度こそ、ユウスケ君のもとに、送って』
 予言者は干からびた唇を引き攣らせて笑った。青白い光が増した。
 『こんな身になっても、それでも、会いたいのか』
 ヒロコは頷いた。
 『どうしても会いたいか』
 『どうしても』
 ヒロコはわずかに残る体力を振り絞って予言者を見つめた。『どうしても』
 『よかろう』
 冷え冷えとした夜風が吹き抜ける。落ち葉がざわめく。
 骨と皮だらけの男の輪郭がぼやけた。体全体から放たれる光はいや増しに増してまばゆく、刺すように強いオーラが彼の全身から発散された。
 彼は再び、幽体離脱を始めたのだ。
 『準備はできたようだ』
 『準備・・・何の?』
 半透明の身体がヒロコの前に屈みこみ、片膝を突いた。ヒロコはがくがくと震えた。不意に沸き起こった底知れぬ不安に胸が押し潰されそうであった。ユウスケを、自分は燃やしている。シリアでさらにたくさんの人を燃やしてきた。自分は今、彼のもとに現れて、いったい何をしようとしているのか。自分は彼に許されたとでも思っているのか。
 <寒い>
 彼と再会したとき、本当の意味での「審判」が、自分に下されるのか。
 これ以上、存在してもよいのか、という審判が。
 <ユウスケ君>
 男の手が肩に触れた。
 <お願い>
 雷鳴に打たれたような衝撃を全身に浴びて、彼女は樹海の森から消えた。
 小さなつむじ風が起こり、彼女の先ほどまでいた場所を掃き清めた。
 森に静寂が戻った。何万年も前から変わらない、夜露と無数の短い命を包み込んだ、じっとりと重い静寂である。
 雲が月を隠した。
 フクロウが一声、低く鳴いた。


第四話 その一へ続く予定。

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