『いいわけ譲治君』

 



 矢野譲治君はすぐに言い訳をする。

 子供の頃からそちらの面では大成していた。学校に持参すべきプリントを忘れたのはそのプリントが必要だと思わなかったからであり、持参するよう言われたにもかかわらず忘れたのは聞いてなかったからであり、その話を聞いてなかったのは、そんなに大事なプリントだと思わなかったからである。蛇が自分の尻尾をくわえているような論理である。言い訳にならない言い訳をして一向に平気である。「だってしかたない」のだ。テストの点が悪いのは本気を出してないからであり、ストライクを予告して糞ボールを投げるのは手が滑ったからであり、夢がかなわないのは、その夢に魅力を感じなくなったからなのだ。

 譲治君はすらりとした手足と甘いマスクを持ち、やたら言い訳が多い。

 現在、彼は都内の私立大学一年生である。 

 ちなみにその大学は彼にとって第五志望か第六志望くらいのところであった。そこに落ち着いた原因は、センター試験並びに二次試験の傾向が変わったことと、年明けに風邪を引いたことと、「うっかりミス」にあるらしい。好きだった野球を大学でも続ける気でいたが、部活動の先輩に「ろくなのがいない」ことを理由に、一カ月で合コン中心のテニスサークルに転部した。

 譲治君はときどき腰を丸めて座りこみ、じっと手のひらを見つめてひどく暗い表情をすることがある。手のひらではスマートフォンが芸能界ニュースを流していたりするが、彼の視点はそこにはない。

 彼も自分が嫌になることがあるのである。


 「逃げるのを止めろ」

 父親の雅之さんに諭されたことがある。そのとき譲治君は大学の野球部を一週間無断欠席した上で、結局退部していた。電話で息子が「ろくでもない」先輩たちの行状について滔々と報告するのを黙って聞いていた雅之さんは、受話器を固く握りしめたまま、「逃げるのを止めろ」と言った。息子からの返答はなかった。

 矢野雅之さんは、生きてきた五十年間でも滅多になかったほどの深いため息をついた。

 「ほんとうに、お前は根性がないな」

 受話器の向こうで息子の体が固まったのがわかった。息苦しい沈黙。それから、譲治君の沈んだ声が返ってきた。

 「僕はそんな強い人間じゃない。だって僕の年齢で、そんな完璧に強い人間なんていないし。大人だってそうでしょ。父さんだってたぶん、人のこと言えないと思う」

 親子の電話はそれで切れた。


 大学一年生の夏、彼は恋をした。

 相手は、同じテニスサークルに属する一年先輩の、中川玲子さんである。お稲荷さんの狐のように、つり上がり気味の目でじっと相手を見つめる癖のある、すっきりした顔立ちの美人であった。どこまでも青い空の続きそうな日の午後、譲治君は、テニスコート脇の用具室にある自動販売機の前に彼女を呼び出した。

 「ねえ、用事って何」

 「いや、あの、用事ってほどでもないですけど。玲子さんって、彼氏いるんすか」

 玲子さんは腰に手を当てた。「何それ。彼氏なんかいないわよ」

 「ああ、そうすか」

 「ちょっと、なんでそんなこと聞くの」

 「いや、どうかなって思って」

 「何よ。どうかなってどういうこと。はっきり言いなさいよ」

 中川玲子という女性は、包丁で大根を刻むようにどんどん物事の白黒を片付けて行かないと気が済まない質である。

 譲治君はひどく動揺した。

 「いやその、もしよかったら、今度の日曜日空いてたらでいいんですけど、映画見に行きませんか」

 「何それ。デートの誘い?」

 「いや、その、妹がジブリを観たいってしつこいから、俺の妹小学六年生ですけど、妹のためにチケット二枚買ってやったら、結局、あいつ用事で行けなくなったんで・・・」

 「え、なに? 妹さんの代役ってこと?」

 「いや、そういうわけじゃ」

 玲子さんは顔を突き出してじっと彼を見つめた。

 「ねえ、なんで、彼氏がいるのか訊いたわけ?」

 譲治君は首筋を撫でて天を仰いだ。彼は早くも後悔し始めていた。 

「え、そりゃ、あれっす。だってもし彼氏がいたら、その、日曜日は彼氏さんといろいろあるに決まってるから・・・」

 腕組みをした玲子さんは、まじまじと譲治君を眺めた。

 「君っていつもそんな喋り方するの?」

 「そんな喋り方ってどんな喋り方ですか」

 「わかんない。ひと言ひと言に保険かけたみたいな喋り方」

 「そうすか」

 「怒ったの?」

 「いや、別に。あの、行きたくないならいいです」

 立ち去ろうとする男の手を、女の手が強く掴んだ。

 「待ちなさいよ。誰も行きたくないなんて言ってないじゃない」


 当日は雨であった。

 譲治君は寝坊した上に着ていく服に迷い、結果として、待ち合わせ場所に遅刻した。

 約束の時刻より二十三分ほど遅れて、彼が駅前の時計台の下に駆け付けたときには、雨の中を玲子さんが、淡いピンクのワンピースに、臙脂色の傘を差し、閻魔様のような表情でたたずんでいた。一方で譲治君は、さんざん悩んだ挙句、Tシャツにロゴマークだらけのブルゾン、膝に穴の開いたジーンズに五百円のビニル傘、という出で立ちであった。

 譲治君は息を切らせた。とりあえず息を切らせることが必要だと、彼は思った。

 「すみません、雨でバスが遅れちゃって」

 口を開きかけていた玲子さんは、その一言を聞いて口をつぐんでしまった。

 「バスがいつもの時間に来なくて、それに、その、一本前のに乗りそびれちゃって」

 臙脂色の傘が静かに閉じた。譲治君は何が起こったかわからなかった。玲子さんは黒髪を雨に濡らせ、石碑か何かのように微動だにせず佇んだ。

 譲治君はその気迫に、思わず掲げていた自分のビニル傘も下ろした。殴られるんではないかと、彼は一瞬錯覚した。

 「ねえ、お願い」顔に幾筋もの滴の跡をつけながら、玲子さんは怒るというよりは泣き出すような顔で言った。

 「こんなときに、二度と、言い訳なんかしないで」


 当然ながら二人の関係はうまくいかない、と誰よりも譲治君自身が信じて疑わなかったが、十代の彼が知っているよりもはるかに不思議なからくりで世の中は出来上がっているらしく、二人はそれから付き合い始めた。会うたびに玲子さんは何かしら譲治君の言動をなじり、そのたびに譲治君はふてくされていたが、どちらかが決定的に離れて去っていく、ということはなかった。世の中には時々誰かに叱られたくなる人もいるし、誰かを叱りたくなる人もいる、ということかも知れない。

 玲子さんは大学を卒業すると、外資系の食品会社で経理の仕事に就いた。翌年、譲治君は折からの不景気で就職活動に相当苦労したが、なんとかリース会社の営業部門に採ってもらった。「まあ、足掛けになるかも知れないけど」とは彼の言。二人は社会人になっても付き合い続けた。週末ごとに破局の危機が訪れる観があったが、週が明けると誰かにリセットボタンを押されたように、またよりを戻すのだった。 


 狭いジャズバーのカウンター席に並んで腰かけ、ワインボトルを一本空けたことがあった。店の奥ではレコードが回り、煙草をもみ消したような音が店内に流れていた。

 「ねえ」

 玲子さんは譲治君の肩に赤いニットの手を回した。

 「あなたのこと好きよ」

 焦げ茶色のタートルネック姿の譲治君は酔いを頭から追い出すようにカウンターの一点を見つめ、意識を集中した。「ありがとう。僕もだよ」

 「そうなの? だったら結婚しようよ」

 「結婚?」

 「結婚よ」 

 「それは────こんなに酔って話す話じゃないよ」

 「私は酔ってなんかないわ」

 「酔ってるって。僕もけっこう酔ったし」

 「酔っててもいいの。ちゃんと聞いてくれてたら。ね、私たち、付き合い始めてもう五年目よ。私なんだか、年を経るごとに、何て言うか、あなたに愛着が深くなっていくって感じなの。変な意味じゃなくて。昔は愛してなかったとかじゃないけど。でも、だんだんあなたの人間的な良さが、もっともっと深くわかって来たって感じ。わかる? 最初の頃は、まあ正直、恋人まででいいかなって思ってたけど、最近は、あなたと一生を共に過ごしてみたいって思い始めてるの。それはね、あなたが、顔とかスタイルとか、上っ面じゃなくて、深い深ーい部分で、素敵だって証拠よ。わかってる?」

 「褒めてもらってるのかな」譲治君は首をすくめた。

 「だからさ、結婚しようよ。そろそろ。あなた嫌なの?」

 「いや、いや、そんなことはもちろんないけど」

 彼は肩に回された玲子さんの腕を優しく取り除けてから、嘆息し、それから彼女に面と向かった。

 「だってさ、そんな大事な話を、あ・・・こんな急に、それもさ、こんな酒の席で話すべきじゃないよ。そうだろ? それに、結婚って簡単に言うけど、僕らはまだ社会人になって間もない。まだ新人だ。まだまだもっと社会勉強をして、その、貯蓄してから、結婚するなら、結婚すべきだと思う。いくらなんでもまだ早いよ。そう思わない?」

 玲子さんは死神のように暗い顔になって俯いた。

 「どうしたんだい」

 「やっぱり私と結婚したくないのね」

 「ちょっと、酔ってるね。そんなこと言ってないじゃないか」

 「言った。去年のクリスマスの時、その話したら、はぐらかしたじゃない」

 「え? してないって」

 「はぐらかした。一緒に家庭を築いていかないって提案をしたら、あなた、それはこれからじっくり考えて行こうって言ったじゃない」

 「だってそれは冗談みたいな感じでの・・・」

 「冗談だと思ったの」

 「いや、そんなことないけど、まあ確かに言ったよ。言った」

 「でもあなた全然じっくり考えてないじゃない」

 「そんなことないって」

 「そうよ。それが証拠に、そんな話を急に言われてもって、今さっき言ったじゃない」

 「いや、だからそれは、お金のこととか、住む場所とか、とにかくいろんなことをきっちり考えないと・・・だってさ、じゃあ結婚するならするとしてだよ、ええと、お互いの親にいつ話すとかさ、まあそれは先の話だけど、とにかくいろんなことをきっちりと考えながら・・・」

 風船の割れたような軽快な音が響いたと思ったら、玲子さんの右の掌が譲治君の頬を思い切り叩いていた。譲治君は、痛いというよりびっくりした。しかしびっくりした後にじんじんと痛みが走った。見ると、玲子さんは泣いていた。運悪くレコードが一枚終わったところで、テーブル席にいた音楽関係者らしき三人連れが、物珍しそうにこちらをじろじろ見てきた。

 「なんでだよ」譲治は動揺と憤懣で声を震わせながら言った。「なんでぶたれないといけないんだ」

 玲子さんは顔をくしゃくしゃにして泣きながら言い放った。

 「言い訳男!」


 それから一年経ち、二人は結婚した。

 翌年には一人娘も授かった。

 娘の誕生と入れ替わるように、彼の父親の雅之さんが肺癌で亡くなった。おじいちゃんが生まれ変わったのかな、と、彼の母親の雪枝さんは孫を抱いて笑った。そんなに頑固な人間に育ったら困るよ、と譲治君も苦笑いした。

 家庭を持っても、矢野譲治君は相変わらず言い訳の多い人生を歩んでいた。奥さんの前ではさすがに用心したが、何かの拍子に「また言い訳している」と指摘されては、「言い訳じゃないって。なんでなんだよ。これが言い訳なら、君に反対の意見はすべて言い訳ってことだね」と、相変わらず言い訳じみた反論を繰り返していた。

 彼にとっては幸いなことに、世の中は言い訳の材料に満ちていた。不景気、デフレによるリース業界の苦境、精神疾患の疑いのある上司、仕事の出来ない後輩、不条理な注文ばかりする顧客、ついでに猛暑、震災、豪雨、連日テレビを賑わす凶悪な犯罪。

 最初の会社を辞めたのは、秋口、一人娘の理奈さんが二歳の誕生日を迎えた直後のことである。

 「何とか、すぐに次の仕事を探すから」

 譲治君はマンションのベランダから夜景を見つめながら、隣の玲子さんにつぶやいた。

 玲子さんは夜景から夫に目を転じて、微笑んで見せた。

 「嫌な思いを続けてたんでしょ? 少し休んだら。旅行でもしようか?」

 「いや、嫌だったわけじゃないけど、でもやっぱり、もうこれ以上あんなひどい会社にいたら、未来がなくなると思うんだ」

 「うん。だったら気分転換に三人で旅行でもしようよ」

 「だってほんとひどいんだよ。ほんとにひどかったんだ。訴えたら絶対勝てると思う」

 「もういいのよ。もう」


 譲治君が本当に自分の生き方を変えたのは、次に就職した印刷会社も半年で辞めたい、と思い始めた梅雨の最中であった。幼稚園に理奈ちゃんを迎えに行った玲子さんの軽自動車が、交差点に赤信号を無視して突入してきたトラックにスクラップのように踏みつぶされ、母子ともに命を失ったことを、彼は仕事帰りに酔い覚ましに立ち寄ったパチンコ店で、携帯に呼び出されてから知った。

 遺体の身元確認のため、大学病院に至急来るようにとの、警察からの連絡であった。

 譲治君は携帯を耳に当てたまま、椅子をひっくり返し、パチンコ台にぶつかりながら立ち上がった。銀玉がひっくり返って床にこぼれ、周囲から野次が飛んだ。

 絶対に赤の他人だ、と彼は思った。絶対に、身元を勘違いした電話だ。玲子と理奈のはずがない。そんなはずがないじゃないか。

 そう心の中で何度も唱えながら、彼は大音量で電子音の飛び交う通路をふらふらと歩き、店を出た。なんだか慌てれば、電話の内容が事実になりそうで怖かった。しかし夜の街に出た途端、人が変わったかのように、大慌てでタクシーを探した。今度は、急いで病院に行けば、たとえそれが自分の妻と子供でも、警察の言うように遺体ではなく、実はまだ息があって、自分が声をかければ蘇生してくれそうな気がしたのだ。タクシーを呼び止めていた恰幅の良いサラリーマンに飛びかかるようにして縋りつき、「すみません、妻子が交通事故にあったんです」と言うと、返事も待たず、彼を押しのけてタクシーに乗りこんだ。

 「お客さん、割り込みは困りますよ」

 運転手はあからさまに嫌な顔をして振り向いた。

 「大学病院へ。大学病院へすぐさま行ってくれ。妻子が死んだんだ」

 譲治君は運転席の背もたれを拳で叩いて叫んだ。

 「え? 死んだ?」

 「早く行かないと死ぬんだ。早く、大至急で車を飛ばしてくれ」

 「え? まだ死んでないんですか? どっちなんですか?」

 「早くしてくれ。間に合わないと、お前が殺したことになるぞ」

 極度に焦る気持ちを抑えた低い声に、運転手は尋常ならぬものを感じ、車を発進させた。

 「いったい何があったんですか」

 運転手の問いを無視し、しばらく車窓の外を睨んでいた譲治君は、信号が赤で車が停車すると、再び運転席の背もたれを、今度は両手で叩いた。

 「早くしてくれ。頼むから早くしてくれ。そうだ。俺が二人を殺したんだ」

 「はあ?」

 運転手はますます混乱したが、とにかくこんな情緒不安定な客は早く病院に降ろしてしまおうと、車を急がせた。

 そこは彼も以前何度か利用したことのある大学病院であったが、彼が今まで存在にすら気づかなかった部屋に通された。入るとき、白い布巾のようなものを、必要だったら口に宛がって使ってください、と手渡された。

 部屋は青白い照明に隅々まで照らされ、どこにも影を作ることを許さないかのようであった。ひんやりと寒気を感じた。中央に白いベッドが二台並べてあり、それぞれの上に白いシーツが盛り上がっていた。

 譲治君はその部屋から逃げ出したい衝動に駆られた。顔なんて見なくていいからすぐにでもこの二体を焼却して、肉も血もない白骨にして欲しいとさえ思った。しかし同時に、どうしても自分は見なければいけないのだ、これが夫婦であり父親であり家族であった者の務めなのだ、と自分に強く言い聞かせた。

 彼は壁に手をつき、自分の体を支えた。そんな部屋の端に自分が立っていることに、ようやく気付いた。

 「検分をお願いします」

 付き添ってきた警察官が呟き、白衣を着た男が顔の部分の布をめくった。

 おお、おお、と彼は呻いた。こんな風に自分は呻くということを彼は初めて知った。

 白衣の男はもう一台のベッドの上の布もめくってみせた。

 おおお、と彼はまた部屋に反響するほどの大声で呻いた。

 二人とも彼の知る玲子さんと理奈ちゃんではなかった。二人とも血だらけだった。玲子さんは顔の半分が潰れて形を成してなかった。理奈ちゃんは何に当たったのか、ざっくりと縦に切り口が開いていた。二人とも何かを激しく恨むように、眼球が飛び出ていた。

 警察官に抱きかかえられても、彼は容易に立ち上がろうとしなかった。

 「ご家族にまちがいありませんか」

 警察官の問いに、彼は気がふれたように首を振った。

 「私が殺しました。私が二人を殺しました」

 「何を言ってるんですか」

 「私です。私が悪かったんです。私のせいなんです」

 警察官に対してと言うより、再び布の掛けられた遺体に対して、彼は何度も叫んだ。

 「私が二人を殺したんです」


 矢野譲治君が仕事に復帰し、日常生活を何とか取り戻すのには、半年を必要とした。その後の彼はまったく人間が変わったようであった。言い訳じみたことも二度と口にしなくなった。それについて知人から指摘されたことがある。言い訳をする相手がいなくなったと、彼は答えた。



(おわり)





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