永い夕暮れ

 



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第二章



 相変わらず暑い日が続いた。新聞もテレビも連日修司の事件を取り上げた。日本中がこの醜悪な事件に沸き立った。

 私は居たたまれなかった。

 どうすればいいのだ? 犯人の血縁者である私は。

 事件から五日後。私はついに腰を上げた。被害者並びにその家族への謝罪回りを開始したのだ。

 自ら思い立ったことである。そうでもしなければ、もはや耐え切れなかった。一日ごとに重みを増す、目に見えない重圧に押し潰されそうだった。

 弟の犯した罪で頭を下げて回るのだ。胃に砂を溜め込んだような気分で、私はそれに取りかかった。

 いや────正直に言おう。一社会学者として、全く興味がなかったかと言えば、嘘になる。

 凶悪犯罪の被害者たちは、どんな精神状態でいるのか。どのように自分たちを納得させ、あるいは納得しきれないでいるのか。彼らの親族は。

 彼らは、加害者の親族が目の前に現れたとき、いかなる反応を示すのか。

 知りたい、と思った。何かがわかる気がした。同時に、何も知りたくなかった。ただただ、逃げたかった。なぜこんな嫌な仕事を自分が引き受けなければならないのか。だが、やらなければならない。知るべきなのだ。

 私は逡巡し、葛藤した。葛藤しながらも行動を決意した。そうやってよろめきながら歩く自分の姿を、背後からもう一人の自分が、冷淡に観察していた。


 最初に連絡が取れたのは、修司のタガーナイフが煌めくのを誰よりも早く見つけ、叫び声を上げた、真淵由里奈さんである。修司に背中を切りつけられたが、逃げて生き延びることができた。二十四歳。会社員。全治三週間の怪我。

 せめて生き延びた人から始めたい、という私の臆病もあった。

 当日の朝、スーツのベルトを締めようとしたら、胴回りがずいぶん痩せていることに気づき、苦笑した。最近定期検診でも引っかかり、お腹回りを気にしていたところだ。不幸のおかげで健康的な体つきになったことになる。

 苦笑を浮かべた私を、脇に立つ妻は冷たい表情で傍観した。


 慰問の相手は大学病院に入院していた。

 「失礼します」

 「どうぞ」

 思いの外明るく優しい声である。看護師一人に付き添われ、由里奈さんがベッドの上で上半身だけ起こした姿で私を迎え入れてくれた。短くまとめた栗色の髪。小さくて愛嬌のある瞳。笑みを浮かべながらも、誠実そうに引き締まった口もと。

 いかにも人の良さそうな風貌だった。

 だが、その口もとは、よく見ると小刻みに震えていた。

 「お待ちしてました、わざわざおいで下さいまして、あの、真淵、由里奈です・・・・」

 彼女は泣き出した。

 唐突であった。会って二分も経っていない。何が起こったのか理解できなかった。看護師が慌てて彼女の肩を抱いた。明るく私を迎え入れようと努力する陰で、感情はすでに限界に達していたのか。私の姿に、当日の弟を彷彿とさせる何かがあったのか。全然似ていない兄弟なのに。堤が崩壊してどっと水を流すように、あの時の恐怖が蘇ったのか。彼女は嗚咽し、涙で顔をくしゃくしゃにした。

 「すみません」と由里奈さんは泣きながら詫びた。「すみません、こんなはずじゃ」

 「いえ、私が軽率でした。申し訳ございません。本当に申し訳ございません。また出直します。失礼します」

 私は顔面蒼白になって平身低頭し、すぐに病室を退去した。

 嫌な汗が全身に拭き出した。

 完全に失敗だった! あまりに浅はかな試みだった。私は自分の謝罪計画をすぐに修正、あるいは放棄する必要に迫られた。

 が、病院を出、もうそれ以上歩けないほどの疲労を感じてベンチに腰掛けたところで、携帯電話が鳴った。

 真淵由里奈さんである。先ほど取り乱したことを詫び、ぜひ近いうちにもう一度お越しいただきたいと言う。私は困惑した。

 「はい、でも、またお心をかき乱すのでは・・・」

 「そんなことはありません。私、自分でもびっくりしたんです。急に泣き出しちゃったりして。ごめんなさい。多分、自分で思っているよりも、事件に対する心の整理が付いてなかったのかな。でも、どうしてもお会いしたいんです。お会いしてお聞きしたいことがあるんです。そうしないと、もやもやした気持ちのままになりそうなんです」

 「はあ」

 「今度は大丈夫です。姉にも付き添ってもらいます。本当です。今度は、大丈夫ですから」


 結局三日後、私は再度病院を訪れることになった。

 今回は、電話で彼女が話していた通り、ベッドの脇に彼女の姉らしき人がたたずんでいた。由里奈さん本人は今度も優しい笑顔で出迎えてくれた。姉の方が、ずっと固い表情だった。

 私は深く頭を下げた。

 「この度は、私の弟が誠にご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」

 二十四歳の被害者は、首を横に振った。

 「お兄さんは何も悪くないんですから。どうか、頭を上げて下さい。どうか」

 彼女はベッドから懸命に手を差し伸べた。

 「この間はごめんなさい。もう大丈夫ですから。あの、お兄さんこそ、ほんとうに大変でしたでしょう。世間やマスコミから相当責められて。それに、実の弟さんを亡くしてもおられるのですし。それだけでもお辛いことなのに。マスコミがお兄さんやご両親のことまでいろいろ騒ぎ立てるのは、間違っています。いろいろ言われて、お兄さんも、精神的にも、相当お疲れでしょう」

 さては目の下のくまに気づかれたか。彼女の気遣いが、心に痛かった。

 「いえ、本当に、本当に申し訳ありませんでした。お詫びの言葉もございません。確か・・・・背中を切りつけられたとか・・・・そうですか・・・・それは、言い表せないほど怖かったでしょう。さぞお辛い思いをされたことでしょう。誠に申し訳ございません」

 それからいくつか、会話の遣り取りをした。診断と治療について。警察の捜査について。由里奈さんは時々感情がこみ上げてきそうになったが、極力笑顔を浮かべ、冷静を保った。

 ベッドのサイドテーブルには、写真立てが一つ載っている。この姉妹と、両親らしき四人が寄り添い、笑顔で写っている。

 由里奈さんは考え込むようにじっと一点を見つめた。

 「私、どうしても知りたいことがあるんです」

 姉が気遣うように妹を見た。妹は私に語りかけるのを止めない。その手は、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめている。

 「私が逃げているとき、私、弟さんと一瞬、目が合いました。それは、怒っている人の目でも、狂っている人の目でも、ありませんでした。ただ、とても苦しげでした。何か・・・・救いを求めるような。哀しげで・・・・残酷な行為を平気でやる人の目じゃありませんでした。どうして、どうして弟さんはこんなことをしたんでしょうか」

 また同じことを訊かれた。警察でも訊かれた。マスコミも、ぶつけてくる質問は大概そこだ。馬鹿な質問だ、と正直思う。

 私に答えられるわけないではないか。

 私は彼女と目を合わせるのが辛くなり、傍らの姉に視線を移した。が、強張った姉の視線にはさらに耐えられなく、すぐに窓の外を見た。無機質な街並みが広がる。私はサイドテーブルの写真立てを見下ろした。

 「目的は、ないと思います。おそらく、動機も」

 「動機もないってどういうことですか」

 驚いたことに、言い返してきたのは由里奈さんではなく、彼女の姉であった。彼女が私に口を利いたのはこれが初めてだった。

 「動機もないのにたくさんの人を殺したんですか」

 「わかりません。あいつが何を考えていたかはわかりません。でも、しっかりした動機はなかったんじゃないかな、と思うんです」

 「どういうことですか」姉は私に近づいた。「しっかりした動機がなくて、人を傷つけたり殺したりしたんですか」

 「おねえちゃん、やめて」入院服姿の妹が姉の手を掴んだ。彼女はまた苦しげに顔を歪め、今にも泣き出しそうである。感情の破裂を必死にこらえている。

 姉は息を荒くし、なおも私を睨みつけた。

 「妹がこうなったのも、何人もの人が死んだのも、理由はとくになかったということですか。大した理由がないのに、こんなひどい目に遭わされたんですか」

 「お姉ちゃん、頼むからそんなに責めるのはやめて。この人は関係ないじゃない。ごめんなさい。私がちょっと知りたかっただけなんです。でも、どうしても気になったんです。ごめんなさい」

 由里奈さんは、姉の腕を掴んだまま、まるで自分が罪を犯したかのように、私に謝った。

 私は居たたまれなかった。ただただ、頭を下げ続けた。

 「済みません。本当に、本当に済みませんでした」


 病室を出た。

 病院の廊下はごった返していた。医療器具の乗ったカートを押す看護師。立ったままパソコンに見入る医師。小走りに駆けていく事務職員。人の命を救う任務に追われた人々の活気に溢れていた。その中を、人の命を奪った側の親族である私が、通り抜ける。背中に幾つもの視線を感じたが、実際には、誰も私などに注意を払っていなかったであろう。

 病院の外に出ると、空は雲に覆われて蒸し暑かった。ときおり唸りを上げて風が吹いた。台風が近づいているという天気予報だった。風が吹き抜けても湿気は残った。信号を待ちながら、私は唐突に吐き気と眩暈を覚えた。膝に手を突いたが、すぐに治まった。


✥   ✥   ✥


 犯行の二日前、弟がネットの掲示板に犯行声明文を残していたことが判明した。

 「世の中は、ぼくみたいな人間を受け入れるつもりがないようです。モウ時間切れです。ヤラレタラ、ヤリ返シマス」


✥   ✥   ✥


 翌日は雨だった。

 修司が最初に殺害した男性の未亡人と連絡が取れた。

 被害者の名は、秦野明弘。すでにこの世にいない。弟に肩と腹部を二度刺されて殺されたのだ。被害者宅に向かうときの緊張感は、真淵由里奈さんのときの比ではなかった。

 偶然ながら、その住所は私の住むマンションからほど近かった。

 傘を差し、歩いてそこへ向かった。途中、猫がどこかで鳴いているのが聞こえた。猫の姿は見えない。雨音に消え入りそうなか細い声である。誰かを呼んでいるのだろうか。

 古い住宅街の一角、昭和の時代のセメント塀に囲まれた一軒家の,「秦野」と書かれた表札の下のインターホンを、私は傘を持たないほうの手で押した。

 出てきた未亡人は、小柄で痩せていた。俯きがちであり、ほつれた鬢が顔の前に垂れる。「あ、はいはい」と言いながら、保険会社の集金員でも迎え入れるように、どこか仕方なさそうに、彼女は私を奥の和室に案内した。

 白いシーツを被せただけの急ごしらえの仏壇の前に私は正座し、手を合わせた。遺影に映る男性は、若い。何年前の写真だろうか。笑顔を浮かべ、いかにも快活そうである。スーツとネクタイを着ているが、背景にはヤシの実が茂る。沖縄か、東南アジアのどこかを思わせる。出張で撮った写真か。部屋全体の中で、遺影の中が一番活き活きしていた。

 目を閉じて手を合わせた。

 窓から車の音が聞こえる。

 「あの、どうぞ」

 背後の声に振り向くと、座布団の脇に置かれた湯呑みと茶請けの饅頭が目に入った。まるで近所の弔問客に対するようで、内心滑稽に思えた。

 私は秦野夫人と対面した。

 「この度は弟が取り返しのつかないことを仕出かしてしまい、誠にお詫びの言葉もございません」

 未亡人は何も聞こえないかのように項垂れたている。私も項垂れるしかない。

 小型トラックが荷物を揺らす音。

 二人は茶の湯気を挟んで黙り込んだ。気まずい雰囲気は永遠に続くかと思われた。

 私が我慢できなくなった。

 「あの、ご主人はどんな方だったのですか」

 未亡人は虚ろな視線を遺影に向かって投げかけた。

 「ひどい人でした」

 私はすぐに相槌が打てなかった。彼女の表情を確認すると、真面目だった。

 「ほんとひどい人だったんです。他所で女を作り、十年もそれを私に隠していました。ずっと、十年間もです。ほんとは、薄々気づいていたんです、私も。何となくはわかっていたんですけど、でも、いつも上手くはぐらかされていました。私たち夫婦の、老後の資産にって、貯金が少しはあったんですけど、ええ。気がついたときには、ほとんど全部、その女のために引き出されていました」

 未亡人は懇願するように痩せた体を揺すった。

 「会社でも、知人たちや親族の間でも、夫の評判は上々でした。快活で、頭が良くて、人好きがして、家族思い。でも、その正体はとんでもないケダモノだったんです」

 「奥さん」

 「探偵まで頼んだんです。あたし。探偵に頼んで、素行調査をやってもらったんです。たくさんお金を払って。そしたら、いろいろわかってきて。あの人がいかにひどい人かってことがどんどんわかってきて。じゃあどうやってあの人を問い詰めようか、というところまで来てたんです、ほんとは」

 彼女の目は悪夢を思い出すかのように宙を彷徨った。

 「そんなときにいきなり死なれたんです。今死なれたら、あの人はいい人のままです。みんな、いい人だったって言ってくれます。ほんとは違うのに。あの人がやったひどいことがすべて、これじゃあなかったことになります。もうあの人を責めることもできません。ねえ。どうすればいいんですか。思い切り頬をぶってやりたかったのに。あの人の胸を叩いてやりたかったのに。このままでは、あの人はいい人のまま終わるじゃないですか。何もかも、あの人の思うがままじゃないですか」

 彼女は綿々と嘆き続けた。泣き出すでもなく、叫ぶでもなく。まるで酔っぱらいの繰り言のようであった。ただ涙は出ない。一滴もない。どれほど理不尽で救いのない人生をこの人は送ってきたのだろうかと、私はうそ寒く感じた。

 「このままでは何もかも、全部、あの人の、思うがままじゃないですか」

 最後まで私に目を合わせることなく、彼女は訴えた。それはどこまでも暗く、力ない声だった。

 「すみません」

 私は頭を下げた。畳に両手を突き、土下座した。

 胃がねじれるような不快感を、また覚えた。



 大学には一か月の休職届を出した。一か月で事が納まるとは到底思えなかったが。

 私物の整理や引き継ぎのために大学に出勤した。あれだけ通いなれた職場のはずなのに、すでに全く疎遠な場所である気がした。建物の空気までもが、何となく吸い辛かった。

 研究室の引き出しを整理していたら、ノックの音がした。

 入ってきたのは、事件当日も研究室を訪れた、柏木玲である。

 今日も緩く淡い色の服を着ている。

 彼女を見た途端、私はひどく疲れを感じた。それがどういう感情なのか表現するのは難しい。そのとき立っていたが、立っているのすら億劫になり、椅子の背を軋ませながら座りこんだ。

 「君か」

 人懐っこい目つきが、悲しげに潤んでいる。大袈裟なほどに感情を露わにする娘である。

 「先生、大変なことになりましたね」

 「ああ。申し訳ない。君の卒論も見てあげることができなくなりそうだ。一か月休職するが、一か月で済まないかも知れない。申し訳ない。メールでも書いた通り、常盤教授に相談して、指導を仰いでくれ」

 私が喋っている間も彼女は近づいてきた。気づけば私の椅子のすぐ傍に立っている。若者特有の、体臭と香水の入り混じった匂い。

 彼女は私の腕に両手を添えた。

 「先生、どうかしっかり元気でいて下さい。いろいろ、弟さんのことで責められているでしょうけど。先生は悪くないんです」

 彼女の手の温かみを感じて、急に私は泣き崩れたいような気持ちに襲われた。張り詰めていた緊張の糸が切れそうだった。私は彼女の腕を握った。

 「ありがとう。うん。本当にありがとう」

 危険だ、と、本能が察知した。私は顔を背け、椅子の肘掛を握り締めた。

 「ありがとう。帰りなさい。私のことは心配しなくていい」

 柏木玲はそこを動かない。彼女の体温を近くに感じる。

 私は床に向かってしゃべった。

 「今────今、私に近づくと、いろいろ嫌な噂を立てられるだろう。もう、行きなさい。それが君のためだ」

 それでも彼女は動かなかった。永遠にも思えるひとときが過ぎた。ようやく足音が遠のき、研究室のドアの閉まる音がするまで、私はじっと床を見つめたまま動かなかった。

 椅子の背を軋ませ、私は長い吐息をついた。汗の滲む額を手のひらで掴んだ。自分が疲れすぎていると感じた。



 十月八日、曇天。弟の葬儀。

 殺人犯の葬儀だから、当然密葬である。身内と、ごく少数の、生前の弟を知る人のみ。一切葬式をしないでおこうとも考えた。そもそも、故人はきちんと葬られるべき資格のない人間である。が、老いた両親の意向と、何より、どうしても弟の棺の前で手を合わせたい、という申し出があったので、大学病院の慰霊室でごくごく簡単な式を執り行うことにした。遺体は葬儀の後さらに警察が預かり、解剖や調査に使われる予定である。灰になるにはまだ時間がかかるわけだ。葬儀の参列者は、九州から飛行機でやって来た両親と、私の家族、弟が幼い頃可愛がってもらった叔父が一人。それに、棺の前でぜひとも手を合わせたいと言ってきた、五十代の男。

 彼は、平塚治幸さんと言う。修司を轢き殺した当人である。

 正当防衛が成立していると見なされ、彼自身は罪に問われていない。当然である。

 僧侶が読経を上げる中、参列者一同はパイプ椅子に腰かけて項垂れた。読経は、密閉された部屋の中にしては声が大き過ぎた。聞いていると耳が痛くなった。父と母は前会ったときよりずっと老けて見えた。二人揃って俯き、時々目頭を拭っていた。

 だがもっと気になるのは、平塚さんの方である。

 三日前、もごもごとはっきりしない声で、彼は電話してきた。弟さんの葬儀に、ぜひ参列して手を合わせたい、と。どうかおねがいします、おねがいします、と執拗に繰り返した。その声には落ち着きがなかった。何か別の力で無理やり言わされているかのようであった。

 彼は、私の弟を殺した人である。いや、表現が的確ではない。弟の凶悪犯罪を中途でくい止めてくれた人である。そして、弟の死刑を、法に代わり、速やかに執行してくれた人である。

 こう言ってもいい。殺人罪に問われた被告人としての弟に、兄として向き合うという、至極厄介な重荷を、あらかじめ取り除いてくれた人である。

 できれば会いたくなかった。

 その人は、実際会ってみると、ごく普通の中年サラリーマンという風采だった。目つきに落ち着きがなく、歪んだ唇は常に何かを呟いているようにうごめいていた。話し出せばしつこそうな気配があった。大学病院に現れた時から、薄くなった前頭部に汗を掻き、苦しそうな表情を浮かべていた。

 慰霊室の天井の照明は明る過ぎた。

 白い壁と、白い棺。まるでSF映画の一場面のようで、どうにも落ち着かなかった。そして読経は脳に響いた。

 ひとしきり読経が終わり、あとは参列者の焼香を残すのみとなった段階で、平塚さんが私に近づいてきた。

 会社の取引先にでも陳謝するかのように、彼は深々と頭を下げた。

 「どうもほんとに、すみませんでした」

 「どうして謝られるのですか」

 「いやほんとに、相すみませんでした」

 「どうか、頭を上げて下さい」

 「勝手な私の判断でほんとに、私が勝手なことして、弟さんを轢き殺しちゃいました。いやまっこと、相すみませんでした」

 「そんなことはありません」私は戸惑った。饒舌な人だと内心思った。「弟は人殺しです。あなたはその行為を止めるという、当然のことをされたんです。むしろ、英雄的行為です」

 「いやいやいや! 違うんですわ。それが、違うんです。ええ。人殺し行為を止めることと、その犯人を殺すこととはまったく違います。違いますでしょ? そうでしょ? そうなんですわ。殺さなくてもよかった。犯行を止めるだけでよかった。私はですね、あの事件以来ずっと煩悶しておるんです。煩悶です(と言って、ぐっと陰気な顔を近づけてきた)。いろんな方にいろんなことを言われましてな・・・そもそも、生きたまま彼を捕まえて裁きに掛けるべきだったと。そして事件を明るみにすべきだったと。その重要人物を、私が勝手に裁いてしまった、と。こう来るんです。ごもっともですよ。ごもっともです。あのとき、警察官が駆け寄ってきてたでしょう? 私が要らん真似をしなけりゃ、警察官がちゃんと捕まえていた。そんな風に言われたりもしておるんです。そりゃもう、ほんとに、いろんな方に」

 「誰からですか」

 「電話が鳴るんですわ。あの日以来、ひっきりなしに掛かってきます。なぜあんな英雄気取りの真似をしたんだとか。お前の独善的な行動のせいで、真相が闇に葬られたとか。ネットでも、ええ、かなりもう、叩かれております」

 私は自分の耳が信じられなかった。

 「だって、放っておいたら、弟はもっとたくさんの犠牲者を出したかも知れないじゃないですか」

 「でもでもでも、だからと言って、轢き殺していいことにはならんでしょう。轢き殺すまでしなくても、当てるだけで充分だったわけです。実際、そう言ってくる人がおるんです。いや、誰に言われなくても、私自身そう思っておるんですから。だから煩悶しておるわけなんです。犯行を邪魔する程度にしておきゃよかった。ええ。あんときはひどく興奮してて、とにかくものすごい勢いで発車したんでね。もちろん、私を擁護してくれる人も大勢おります。よくやってくれたとか、あなたは何も悪くないとか。でもですな、結局、自分で自分を苛んでおるんです。言っときますが、人殺しなんて生まれて初めてですよ。当たり前ですが。そんなこと、できればしたくなかった。ええ。たとえ、たとえですよ、失礼ながら、相手が凶悪犯人だったとしてもですな。凶悪犯人でも、殺したくはなかった。私はですね、ご存じかわかりませんが、事件直後、テレビやら新聞やらいろんなマスコミの取材攻勢を受けたんです。海外からのもありました。とにかく私は目立った。最初は、犯行を止めた勇気ある市民としてね。確かに、英雄のように扱われたりしたんです。私はそんな気は毛頭なかったのにですな。でも、それが結局、一部の人の、強い強い反感を買ったんですわ」

 私は言葉が出なかった。彼も我に返ったように、黙り込んだ。

 「何にせよ、何にせよですな、私は弟さんを殺してしまいました。ほんとに、まっこと、相済みませんでした」

 彼が焼香をすれば、この形だけの葬儀は終わるのだ。だが彼は頭ばかり下げて、容易に焼香しようとしなかった。まるで私からの許しの言葉を待って、それが得られない限りは焼香をしないと決め込んでいるかのようだった。しかし、先ほどから何度も、あなたは悪くないと言い続けているのだ。当たり前の事実ではないか。悪いのはすべて、こちらの不遜の実弟なのだ。この人は何を後悔しているのか。何を後悔していると思われたがっているのか。こんなに汗をかいて。

 私はやり場のない苛立ちを覚えた。

 大学病院の霊安室は、換気が十分でなかった。さっきから立ち昇ったまま行き先を失った線香が鼻を突いたし、ドライアイス漬けの死体から蓋をすり抜けて何かが漂っている気がしてしょうがなかった。立ち合っている警官たちは退屈そうだった。妻は娘を手元に引き寄せ、他人事のようにじっと私を観察していた。すべてはお前の仕事だと言わんばかりに。こんなことをいつまでしていても埒はあかない。私は平塚さんの背中を押すように促し、焼香してもらった。

 彼は焼香をする間、嗚咽をこらえていた。この葬儀で嗚咽したのは、彼が唯一かもしれない。

 これで式は終了と思った矢先、部屋のドアが開いた。

 ドアを開けたのは警官である。その向こうに、少女が立っていた。

 

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