『口紅』

 



 加賀晶子さんは生来無口な人である。どれだけ無口かと言えば、彼女が事務をしていた私立高校の職員による忘年会で、最初に口にした「お茶でいいです」という返答と、最後に答えた「いえ、帰ります」しか、その場にいた誰もが耳にしなかったというくらい無口である。二次会でそのことが話題になった。その日、一次会は二時間続き、酔っぱらった英語教師がチロリアンダンスを披露し、酒癖の悪い国語教師が教頭に絡んでみんなに押し戻され、女性の職員たちは最近の保護者の質の低下に対する不満と、市役所の近くに新しくできたケーキ屋の話で盛り上がった。しかしその間ずっと、加賀晶子さんはどの話の輪にも加わらず、自分の席でチンジャオロースをつついていたらしい。

 「暗い。結構好みの顔なんだけど、暗すぎる」というのが、英語教師が下した評価である。

 「そりゃあの人、仕事は確かにできるけどね」と、もう一人の事務員である孝子さんはボールペンを指先に挟んで振りながら、嘆息して言った。「でもさ、いちんち黙ーって誰とも話ししなかったら、そりゃ仕事もはかどるでしょ」

 どうして彼女がそんなにも非社交的な人間になったかについては、おそらく彼女の祖母の友人であり家族同様の付き合いをしている「松っちゃん」の分析が秀逸であろう。

 「あの家庭がみんな陰気だからね。ああいうのって家庭的影響が大きいから。体が弱かったのもあるかな。生まれたときからそう。あたしあの子が生まれるとき、ずっと立ち会ってたんだけどさ、お腹ン中から出てきたときも、なんで生まれてきたんだって顔できょとんとして、泣きもしないのよ。なんか、これから生きてやるぞっていう気迫みたいなのが全然伝わってこないの。生まれたばかりってのによ。あのー、もしできればお母さんのお腹ン中に帰っていいですか、て感じ。は!は! それと、あたしが思うに、やっぱ名前だね。名前。おんなじ字を書いてもさ、アキコって読ませることもあるでしょ。それだったらちょっとは明るい性格になったんだけど。ショウコじゃ、いくら何でも地味よねえ」

 加賀晶子さんは地元の別の公立高校を出てすぐ、この高校の事務員を十年以上勤め、三十代に足が掛かってもいまだ独身である。浮いた噂も見事なまでにない。そもそも、彼女は化粧っ気がないことで有名である。初出勤から三日目の朝、校長から命を受けた孝子さんがさりげなく彼女を別室に呼び、社会人のたしなみとしての最低限の化粧をやんわりと教え諭したくらいである。

 「ね、わかるよね。別にどうってことないことだけどさ、まあ、高校生と区別がつくぐらいにはしとかないとね」

 翌日から晶子さんは言いつけを守り、確かに顔を白く塗ってきた。が、それにより、ただただ「幽霊度が増した」というのが、女性職員たちの一致した見解であった。

 彼女は、幸せも、ときめきも欲していないように周囲には思われた。ところが三十二歳の春、突如として彼女は恋をした。

 相手は高校に出入りしていたテキスト販売を専門とする業者で、四十代半ばでバツイチの男である。いつも明るく冗談を振りまきながら現れる彼が、どうして無口で陰気な彼女に惹かれるのか不思議であった。より一層不思議だったのは、それまで男も女もポストイットの付箋紙くらいにしか感じていなかった晶子さんが、その男にだけは隠しきれない高揚感を見せたことである。テキストの見本を段ボール箱一杯に詰め込んで彼が職員室に現れるたび、晶子さんは慌てて立ち上がり、用もないのにコピー機のところに駆けつけたり、他人の机の書類を肘に当てて落としたり、ゴミ箱を蹴飛ばして平謝りしたりした。また男の方も、そういう晶子さんを、伝票作業の終わる間じっと見つめていた。そして、彼女がほとんど何も受け答えしないのを承知していながら、毎朝自分のアパートのベランダに来る猫は「おはよう」と鳴くのだ、といったくだらない話を聞かせたりした。

 二人が互いに惹かれあっているのは、誰も、どちら側にもはっきり確かめたことがないのに、職員室内の周知の事実となった。

 「加賀さんはいい人ですからね」富堅康則校長はその話題になると、嬉しそうに節太い手を揉みしだいて答えるのだった。「ああいういい人には、いつか必ず幸せが訪れると、そう思ってましたよ。ええ。いろいろ言う人はいましたよ。でもあの人だって、感情がないわけじゃない。悲しみも喜びも知っている。それが人間です。加賀さんも、つまるところ、一人の人間だったということですよ」

 事務員の孝子さんはボールペンを唇に当て、神妙につぶやいた。「こうなったら、せめて化粧の仕方を覚えなきゃね」

 英語教師は、酔ってもいないのにチロリアンダンスを踊った。

 大した進学校でもなく全国的に名が知られているわけでもないその私立高校の職員室を、連日熱狂させた恋の行方は、始まりと同様、唐突に終わった。

 小雨混じりの風に若葉が揺さぶられる朝、一カ月前に時を逆戻りさせたかのような暗い顔で出勤してきた晶子さんに、万事につけ他人事に敏感な孝子さんはすぐさま異変を感じとった。翌日の昼前に現れた例の卸会社の社員が、禿げ頭に眼鏡という、まったく違う人物に入れ替わっていたことで、それは決定的となった。教師の一人が禿げ頭に、前任者はどうなったのか問い質したところ、都合により担当地域が変わったとの由。万事につけ探偵もどきの野次馬根性を正義感のように胸に抱く孝子さんが、職員一同の無言の期待を背に受け、昼休みの時間に晶子さんをこんこんと問い詰めたところ、三十分もの粘り強い誘導尋問の挙句、彼に電話でデートに誘われたこと、晶子さんがそれを断ったこと、その理由が、相手が肉体関係を迫ったからということだけが、事実として判明した。最後の一つは、孝子さんの強引な問い質し方に多少問題があり、(「もしかしてあんた、彼に求められたんじゃない? 体をさ。ねえ、そんなことを臭わせるような発言、彼がしたんじゃない? 別に構わないと思うけどさ、それくらい。でもそうでしょ? え? はっきり言いなさいよ。そうじゃないの? 違うの?」)よって、まったくの事実とするには疑問が残るところではある。

 いずれにせよ、祭りは終わった。日常が戻り、職員室の面々は、晶子さんに対する興味を以前と同様失った。彼女には女性器がない、という悪質な噂が一時立ったが、さすがに悪質過ぎてすぐに立ち消えになった。加賀晶子さんは相変わらず青白い薄化粧をして、たとえその化粧を取り去ってもやっぱり青白いだろうと思われるような陰気な表情で、電卓を叩き続けている。

 だが、誰も知らない事実であるが、晶子さんは赤い口紅を密かに自宅の机の引き出しに仕舞っているのであった。それは目もくらむような鮮やかな薔薇色であり、高校二年の夏、親にも知られることなく密かに購入したものである。いつかそれをつける日が来ることを漠然と願いながら、彼女は十年余りを過ごしてきた。その色が自分によく似合い、それを一筋口元に引くだけで、周りをざわつかせるに十分なほど華やかな美人に自分が変貌することを、彼女は承知していた。何度か鏡の前で試してみたから確かである。ただ、晶子さんは自分の性格に丸で自信がなかった。自分がそばにいることで男の人を楽しませる存在になりえるとは、到底思えなかった。無目的に口紅をつけ、男を呼んでいるように思われたくもなかった。ただ、幸せは欲しかった。それで、自分に対しとても理解力のある、魅力的な男性が現れるのをずっと待った。

 テキスト販売の業者の男は、自分にない明るさを持ち、なおかつ自分の暗さを否定も毛嫌いもせず、親しげに話しかけてくれることで、かつてない好感を彼女に抱かせた。結構年上であるがそれなりに男前であり、バツイチと聞いても、むしろ相手にもペナルティがある方がペナルティだらけの自分としては付き合いやすいと思ったくらいである。薔薇色の口紅もついに出番が来た気がした。しかし晶子さんは慎重であった。先走って口紅を塗り、その上で捨てられ、傷つけられるのは耐えがたかった。晶子さんは内に秘めたプライドの高い人でもあった。男がどれほどの人間かを見極めるまでは、あえて口紅を引かずに待とうと決意した。口紅を引かなければ自分を一人前の女として認めてもらえないのも何だか癪(しゃく)であった。大事な恋のために口紅をとっておきながら、恋のために口紅を利用することをためらう自分がいた。相矛盾する気持ちにさいなまれながら、晶子さんは彼が告白してくるのをどきどきして待った。

 しかし、せがまれて教えた携帯電話の番号に彼が深夜になって電話してきて、「君は人間付き合いに障害があるようだけど、自分はいろいろ知っているからいろいろ楽しいことを教えてあげるよ」という口調でデートを申し込んできたとき、彼女の熱はあっさりと冷めてしまった。形勢が一変したことを悟った彼が、何とかなだめすかそうと言葉を尽くすのに対し、「嫌です」と人生初と思われるほどはっきりと断りの言葉を発すると、彼女は電話を切った。

 携帯を机の上においてから、彼女は小さな卓上鏡を五分間ほど見つめた。それから机の端の財布に手を伸ばし、中から三枚ほどのレシートを取り出すと、電卓を叩き、家計簿にその日の出費を記載した。いつもの日課である。家計簿を引き出しに仕舞う際、メタリックの光沢を放つ口紅が目に留まったが、最後まで使わなくてよかったと彼女は心から思った。





 彼女は今日も私立高校の職員室で、青白い顔をして仕事をこなしている。いつの日か、彼女の唇に薔薇色の口紅を引かせる男が現れるかも知れない。しかしその日がついに来ないかも知れないと、彼女もそろそろ感じ始めている。



(おわり)





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