『未亡人』

 


 田代玲子は安心した。窓際のいつもの席に案内されたからである。それはまるで、あなたは今まで通り生きてよいのですよ、と言われたような感覚があった。

 大きな窓に接した、四角いテーブル。そこは、夫雄一郎の生前、いつも二人で予約した席であった。窓ガラスには、八ヶ岳の自然林がすぐ傍まで迫る。じっと眺めていると、まるで枯葉を踏みしめながら森の中を歩いているような錯覚に襲われる。一年中、その森は涼しげな色を見せた。そして涼しげな木立を眺めながら口にする窯出しピザは格別であった。どこか違う国の、神聖な儀式に参列しているようであった。二人はよく、オリーブの効いたピザと、生ハム(プロシュート)のサラダと、赤ワインを注文した。



 玲子はファー付きの黒手袋を脱いだ。像の足のように皺の刻まれた自分の左手を、像の足のように皺の刻まれた自分の右手で擦る。歳月に傷つけられた結婚指輪に手が当たる。無意識にそれを回す。この店に来るのは一年振りだ。もっとかも知れない。予約も入れず、たった一人で訪れたのに、同じテーブルに通してくれた。自分も深い考えもなしに、あの頃と同じ席に腰かけた。でも今、向かいの席に座る人はいない。

 彼女の視線は窓の外の冬木立に注がれた。

 自分の息子ほども若いウェイターが、笑みを浮かべてメニューを差し出す。玲子は貫禄を漂わせて微笑み返す。

 夫は自殺した。

 玲子は今でもそう思っている。独立系IT企業の創業者として財を成した夫は、五十代半ばで突然、第一線を退くことを宣言した。妻である玲子に対しては、今後は老後の生活を充実させようと提案した。実質の会社経営は若い後継者に任せ、自分たちは八ヶ岳に家を建てて移住しよう、と。八ヶ岳は以前から避暑地として二人とも気に入っていた土地である。夫婦には子供がなかった。ためらう要素は何もなかった。

 子供がいない生活というのは、はじけるような喜びもなければ、ぐったりするほどの悲しみもない。ただ、美味しい、とか、あまり美味しくないね、とか、素敵だ、とか、あなたはいつもそうね、とか、そういった互いを傷つけない言葉の遣り取りで日々が成り立っていた。

 それはこの山あいに移り住んでからも同じであった。陶器作りの夢を実現したいと言い出したのは、玲子の方であった。雄一郎も一も二もなく賛同し、新築の家には小さな窯を備え付けた。しかし実際に移り住んでみると、二人とも家に閉じこもるよりは、周辺を散策する方を好んだ。ブナの木の枝にリスを見つけて大はしゃぎしたこともあった。わざと小径を離れ、危うく遭難しかけたこともあった。コートを借りてテニスもした。夫の趣味につき合って一緒に渓流釣りもした。もっともこれは半日かけて一匹も釣れず、一度限りで終わったが。どこかのレストランでコンサートが催されるときには、ほぼ欠かさず足を運んだ。自分たちが隠居するには、まだまだエネルギーを持て余しているのを、二人とも感じていた。



 「お飲み物はいかがなされますか」

 「そうね・・・赤ワインをお願い。グラスでいいわ。飲める人が、今日は、いないから」

 ウェイターはほんの一瞬、夫人の横顔を見つめた。が、何も言わず、お辞儀をして退きさがった。



 移住して二年目が終わるころ、夫の会社が大きく傾いている事実を、彼女は本人から打ち明けられた。心配しなくていい、と言い聞かされた。週二度ほどしか東京に顔を出していなかった雄一郎が、債務整理に追われてほぼ毎日上京するようになった。会社に泊まり込む日もあった。後任が「とんでもない奴」だったと、夫は拳を固めて悔しがった。と思うと気弱な声で、「つけが回ったんだ」とこぼした。横領があったらしいという情報を、家族ぐるみのつき合いのある同業者から玲子は聞き出した。会社の抱えた借金は億にのぼるかも知れない、という憶測は、税理士である彼女の父親から電話口で聞かされた。



 「ごめんなさい。あの、グラスをもう一ついただけるかしら・・・中身はなくていいから。ごめんなさいね。変なこと言って」

 なぜこんな大それたことを口走ったのか、我ながら驚き呆れた。ついに自分は気がふれたのではないか。そのように店の人に見られることを、彼女は恐れた。しかし若いウェイターは、ごく普通の注文を受けたかのように会釈し、退きさがった。森の静けさも、店内の落ち着いた雰囲気も、何一つ掻き乱されていない。彼女は嘆息した。

 受け取った空のグラスを向かいのテーブルに置き、自分は赤い液体の入ったグラスを持ち上げ、彼女は誰にも聞こえないほどの微かな声でつぶやいた。

 「乾杯。私だけ、ごめんね」



 全てがどうしようもなかった。ひどく化膿したうみが、あと一突きではじけて、血を迸り出す、そんな緊迫感に包まれた十二月の冷え込んだ朝、東京へ出社途上の夫が中央自動車道で衝突事故を起こしたという知らせを、警察から受け取った。

 スピード超過とスリップによる側壁への激突で、即死であった。誰も他人を巻き込まなかった。そもそも、夫は運転が上手だった。(あの人らしいわ)と、知らせを受けたとき、彼女は真っ先に心に思った。

 自殺の可能性は警察も疑ってみたようだが、前日に舞った雪が凍りついた路面でスリップした自損事故、という見解は覆らなかった。多額の生命保険が下り、会社の破産手続きを滞りなく終え、未亡人となった玲子が老後を十分に食べていけるだけの資産が残った。



 自分は何て残酷な仕打ちを死者にしているのだろうと、ワインを半分飲み干した時点で、ようやく玲子は思い至った。ねえ、グラスだけって何? グラスだけあげて中身はなしなんて────これであの人を弔っているつもり?────彼女は慌てて、自分のグラスの残りを空のグラスに注ごうとした。────そうだ。冷たい人間だった、昔から、自分は。雄一郎にそう指摘されたこともある。「計算高い」と言われた。「君は上手だ」とも言われた。「何が上手なの?」何をしているの私は? こんなことして、もしこぼしたりしたら────。

 震える彼女の手が止まったのは、脇からウェイターがワインボトルを差し出したからである。

 「お客様、よろしければ、こちらから」

 玲子はひどく顔を火照らせた。酔いが回っていることを自覚した。

 「ああ、ありがとう。ごめんなさい。あの、ほんの少しでいいのよ。気持ちだけ」

 空のグラスを四分の一杯分だけ満たした後も、若いウェイターは何一つ事情を聞こうとせず、大丈夫、わかってますよ、と言わんばかりににっこりと微笑んでみせた。その洗練された優しさが、赤面した今の玲子にはむしろ憎らしかった。

 日が陰ってきた。

 ほとんど手を付けていないサラダが、乾燥して強ばっている。

 玲子はテーブルの上に腕組みをして、誰も口をつけないグラスを睨む。



 あなた、本当に私が好きなの、と、結婚したての頃、何度か雄一郎に尋ねた。その度に、君こそ本当に俺のことを好きで結婚したのかい、と訊き返された。当たり前じゃない、と言うと、彼はにやりと笑って何も言い返さないのだった。笑っていても、目だけは、玲子をしっかりと捉えていた。あの視線は、嫌だった。自分の何を見られていたのか────。



 夫婦喧嘩は、ほとんど無いに等しかった。たまに声高に言い合うことがあっても、すぐに終息した。限られた言葉しか使ってはいけないディベート・ゲームのようであった。子供がいないことは、どんな時でも、二人とも決して触れなかった。そのことだけは、決して開けてはいけない扉のように、そっとしたまま、互いに家庭生活という名の廊下を行き来しているのであった。



 二時は回ったろうか。

 葉の一枚もない木立ちは、よくよく見ると、間隔を置き過ぎていた。日が雲に隠れたせいで、森の奥は陰鬱な色に沈んだ。あそこを歩くのはひどく寒そうであった。死者があの世へ行く道は、ひょっとして、こんなのじゃないかしら。

 そう思うと、今にも誰かが森の奥から現れてきそうな気がした。玲子は吸い寄せられるようにじっと森を見つめた。彼女のワイングラスは、とうに空だった。



 事故の知らせを受けて大学病院の霊安室に駆けつけたとき、玲子が見せられたものは、もはや人間の塊ではなかった。運転席からぶつかっていったせいだと説明された。絵の具をチューブごと、幾つもまとめて圧し潰したような、そんな物体だった。生きている間に溜め込んだ情念や、怒りや、憎しみや、決して言葉にしてこなかった言葉を、血潮に塗り込んで一遍に吐き尽くしていた。玲子は悲鳴を上げ、すぐに係員によって部屋の外に連れ出された。

 彼女は怖かった。捉えようもなく苦しくて悲しく、どうしていいかわからなかった。しかしそれと同時に、心の片隅に、何重にも覆いを被せられた安心感が潜むのを、無視することができなかった。自分は雄一郎を愛していた。雄一郎を喪った悲しみに心が引き裂かれるほどだった。なのになぜ安心なのか、何に対する安心なのか、玲子自身さっぱりわからなかった。もちろん誰にも口外できない感情であった。玲子は自分を責めた。虚脱して力が抜けたのを、安心と感じただけだと説明をつけてみた。だが、葬儀を終え、親族に挨拶し、遺品を整理した後も、どうしても自分を許せない感情が残った。



      ○      ○      ○



 ウェイターが歩み寄り、グラスワインのお代わりを尋ねようとしたが、婦人の肩が小刻みに震えているのに彼は気づいた。窓の外に顔を向け、ハンカチを口に当てているので、表情まで確かめることはできない。彼女の向かいの席には、四分の一ほど注がれたワインがそのまま残っていた。ウェイターは音を立てないように、そっと窓際のテーブルを離れた。

 




  (おわり)



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