『虹の向こう』

 


 都会暮らしの人がときたま田舎を訪れると、商売とか経済とか、そういったものの定義を根本から疑いたくなるようなものに出会うことがある。その建物もそんな出会いの一つであった。

 それは食堂であったが、今も経営しているかどうかの前に、そもそも人が住んでいるかどうかを確かめたくなる面構えであった。古民家と言われれば古民家とも言えた。幽霊屋敷と言われればどう見ても幽霊屋敷であった。しかし一応、「丸山食堂」の看板は出ているのであるし、多年の風雨にさらされたとは言え、その文字は何とか判読できた。

 東京から電車とバスを乗り継いできた大学生のカップルが、その建物の前で、丸五分間どうしていいかわからずに佇んだ。

 男はこの暑いのにワイシャツ姿で、黒いリュックを背負っている。顎と鼻梁のラインが細い。目つきはクールだがなかなか鋭い。腕まくりした長袖の折り目は正しく、四角い黒ぶちメガネと相まって、神経質な印象を彼に与えている。

 女はTシャツに色褪せたデニム、腰に巻いたブラウスの巻き方はいい加減で、肩まである黒髪も自然に伸びるに任せた観があり、男よりはずっとざっくばらんな性格を思わせる。顔つきは身なりほど粗野ではなく、均整の取れた目鼻立ちで、ちょっとギリシャ彫刻のような気品がある。ただ当の本人は、ギリシャ彫刻のようにおしとやかに納まるつもりは毛頭ないらしい。

 いずれにせよ二人とも、大都会からちょっと散策のつもりで電車に飛び乗って、思わずこんな遠方まで来てしまいましたと言わんばかりの軽装である。

 「仕方ないな。他にないんだから」

 男は腕を組み、いささかうんざりした表情で看板を見上げながら呟いた。

 「いいじゃん、風情があって」

 女は男と比べてずっと能天気である。腰に手を当て、彼女としては無意識であろうが、しゃべるときにお尻を振った。「こういうところが、案外すごく美味しかったりして」

 男は嘆息しながら首を振る。「それはないね」

 「まあ、ね。これが旅よ。冒険するつもりでさ、レッツゴー」


 狭い村であった。四方を囲む山々は、緑があまりに濃すぎて何だか窮屈そうに見えた。青空は強烈な八月の太陽を持て余していた。油蝉がしきりに鳴いた。ときおり木立の中で何かが悲鳴を上げた。村人たちはみんな昼寝をしているのか、どの通りにも人けがなかった。


 若い男女は食堂に入り、ラーメンとカレーライスを注文した。

 「はい、はい。ラーメンと、カレーね」

 注文を受けた老婆は、絶えずふらつく体を支えるために、瓶ビール用のガラス張りの冷蔵庫とか、椅子の背もたれとか、張り紙だらけの柱とか、とにかくいろんな物に触りながら厨房へと戻っていった。老婆の後を追って、痩せた猫も厨房へ消えた。

 「大丈夫かな」と男。

 「いろんな意味でドキドキだわ」と女。

 「君はほんと、こういうの好きだよね」

 半ばあきれ顔で男はそう言うと、尻のポケットからスマートフォンを取り出した。話の途切れたときにそうするのが癖らしい。女はその所作に一瞬顔を曇らせたが、画面に視線を落とした男はそれに気づいていない。

 「一応、周辺の観光を調べておくね」

 男はちらりとだけ黒眼鏡越しに視線を上げて女に断った。

 「ありがと」

 男の一瞥を逃さず、女は髪の毛を払いながら笑顔でそれに答えた。

 客は彼らの他に誰もいない。

 土間にテーブルと椅子を置いただけの食堂内には、もちろんエアコンなど無い。全身真鍮でできた小さな扇風機が一台回っているだけであるが、案外涼しかった。煤けた梁に貼られた品書きには、ラーメンとカレーライスと日替わり定食とビールとラムネ。日替わり定食は、今日はねえさ、と断られたから、ラーメンとカレーにしたのだ。日替わりがないとはどういうことかと、立っているだけでも震えが来ている様子の老婆に問いただす勇気は、二人とも持ち合わせてなかった。

 店内のあちこちを興味深そうにじろじろ眺め回していた女は、向かい合わせに座る旅の伴侶に視線を戻した。彼はこまめに指を動かしながら、スマートフォンに集中している。

 「ねえ」

 彼女は自分の思い付きが楽しくてしょうがないかのように、含み笑いをして頬杖を突いた。

 男は右手から顔を上げた。「ん?」

 「ビール飲まない? せっかくだから」

 「昼間から? 本気?」

 「せっかくの旅行じゃない。一本だけ。せっかくだもん。ね。それにさ・・・どんなものが来ても、ビールがあったら食べられそうじゃない?」

 これには男も笑った。「消毒?」

 「消毒はひどいわね。そんなんじゃないけど・・・」

 「賛成。注文しよう。ただし、酔っぱらって午後一杯動けなくなっても知らないよ」

 「大丈夫よ、一本くらい」

 男は厨房に向かって「すみません」と声をかけた。が、返事はない。

 「すみません」

 鍋がコンロに当たる音や、菜箸の触れ合う音は聞こえるが、返事はやはりない。

 三度目に声を張り上げると、台所から猫がニャアと答えた。


 折り紙や広告紙で作った大小さまざまな紙風船が五個、油と埃の混ざったようなものをうっすら被って、窓の桟に並べてある。単なる紙細工であるが、長い年月を経て、桟に根を張っているのではないかと思われるほど、動かしがたい印象を受ける。埃がひどく、触るのに勇気がいる代物である。それらを眺めながら、女はグラスのビールを飲み干した。頬がほんのりと赤い。

 彼女は恋人に目を転じた。

 ところがかの恋人は依然として、スマートフォンに目を落としている。女は鼻息をついた。酔っているので、感情を包み隠そうという気が薄れている。気付いてもらえない空のグラスを、音を立ててテーブルに置いた。ビール瓶を持ち上げ、九割がた入っている男のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。

 「ユウ君」

 「ん?」

 「ラーメンが伸びるよ」

 「うん。残り食べてもいいよ」

 「あたしカレーでおなか一杯。結構おいしいラーメンじゃない。伸びないうちに食べれば」

 「うん」

 「ねえ」

 語気に驚いてユウ君は顔を上げた。

 女は怒りを顕わにしている。

 「ちょっと、せっかく二人で旅行しているのに、自分の世界に入り過ぎじゃない?」

 ユウ君は眉を顰めた。

 「僕は帰りのバスの時間を調べていただけだよ」

 「停留所で見たじゃない」

 「うん、でももう一つ早い便がないかと思ってね。というのもね、駅まで戻る別の路線バスもあるみたいなんだ」

 女は火照った頬を膨らませ、小皿のたくあんを箸で刺すように摘んだ。

 「もうここを出たいわけ?」

 「この村には見るものはないよ」

 「そんなのわかんないじゃない。探索してみなきゃ」

 「無駄だよ。ネットで調べてみたけど、何の観光名所もない。やっぱり、無計画にバスに乗ったりするべきじゃなかったんだ」

 「嫌なのね。こういう旅が」

 「嫌ってわけじゃないけど・・・でも、ほんとに何にもないよ、ここには。古い寺しかない。怪しげな温泉施設が一軒あるけど、温泉に入るにはまだ早いだろ」

 「そうなんだ。ユウ君は、観光名所じゃなきゃ、見てもつまんないと思ってるのね?」

 「まず間違いないね」

 「つまんない男」

 「サヤ」

 どんなに大人しい男だって、こんなことを言われたら黙っているわけにはいかない。ユウ君は急激に湧いてきた憤りに押し倒されたように、椅子の背もたれに背中を押しあて、歯の隙間から息を荒げた。スマートフォンの電源を切って、機器をテーブルに置く。

 重苦しい空気が二人の間に横たわった。

 「サヤ、僕らは嗜好が違うのかも知れない」

 「違うわね。大いに違うわ。私は名もない山や川を見て十分楽しいけど、ユウ君は立て看板に説明書きと、広い駐車場と併設の土産物屋でもなきゃ、見る価値がないと思ってるのね」

 「それは言い過ぎだよ」

 「言い過ぎたのかしら」

 「僕だって田舎の風景とか自然とか大好きだ。だから今度の旅に賛成したんじゃないか。でも、せっかく二人で来たんだ。いろいろ日程を調節してさ。僕らにとって大事な旅行だろ?これは。だからこそ失敗したくないんだ」

 「失敗って何」

 「失敗だよ。わかるだろそんなこと? せっかく旅行してるのに、あんまり面白くなかったりとか、大したことなかったりとかしたら、嫌じゃないか。思い出として」

 サヤは空気が抜けた風船のように、頭を抱えこみ、首を横に振った。憐憫を込めた軽蔑というものを仕草に表せるとしたら、彼女は見事にそれに成功していた。

 「ユウ君、ユウ君のそういうところが、一番思い出をつまんなくさせるのよ」

 「そうだね。何しろつまんない男らしいからね」

 ユウ君はビールをがぶ飲みして、口元を手の甲で拭うと、憎悪に燃えた視線のやり場に困ったのか、スマートフォンの電源を再び入れた。

 サヤも腕組みをし、横を向いて押し黙った。


 子どもの歓声がはるか遠くで聞こえる。ほとんど罵り声に近い。

 食器棚の上に乗った痩せ猫が、じっと二人の客を見つめる。

 男の反撃は終わってなかった。酔った席であろうがなかろうが、自分の惚れた人であろうがなかろうが、彼のプライドをここまで踏みにじられて黙って引き下がるわけにはいかなかった。そうするには、彼はあまりに几帳面であった。彼はスマートフォンを見つめたまま、向かいに座る女に向かって呟いた。一語一語、苦しみながら絞り出すような声で。

 「君は、いい加減だ」

 「あ、そう」

 「いい加減で、身勝手だ」

 「え? ちょっとちょっと、どういうこと。え、何? いい加減はわかったわ。私はどうせいい加減よ。そりゃ自分でもわかってるもん。でも何? 身勝手って」

 「身勝手だよ。君が無計画好きなのはいい。何でもない田舎の食堂や何でもない普通のカレーやラーメンが好きなのもいい。それは君の好みだから文句は言わない」

 顔を真っ赤にしたサヤは、彼に言い返す前に、空のビール瓶を右手に振りながら厨房に向かって叫んだ。

 「ビールお代わりお願いします!」

 もちろん反応はない。ここの老女将は、火事です、と大声で叫んでも、四、五回繰り返すまでは聞こえないだろう。

 サヤは体の上半分を椅子からはみ出させて、腹の底から声を上げて怒鳴った。「すみません! ビールお願いします!」

 「僕はもう飲まないよ」

 肩透かしをくらった彼女は、体勢を慌てて元に戻した。

 「ちなみに──ちなみに私、別に普通のカレーやラーメンとやらが格別好きなわけじゃないですけど。でも続けて」

 「え?」

 「いいから続けて。何か言いかけてたじゃない。続けてよ」

 「僕はもう飲まないって言ったんだ」

 「それは聞いたわ。さっき言いかけてたことよ。私が身勝手だってこと。お願いだから続けて」

 ユウ君は眼鏡を外し、目を手の甲で擦ってからかけ直した。

 「君が行き当たりばったりの旅をするのは構わない。それに僕を巻き込むのも、まあ構わない」

 「構わないんだ」

 「構わない。僕が構わないと言ったら構わないよ。でもね(ここで彼は感極まったように拳でテーブルをコツコツと叩いた)、君が君の流儀でやるなら、僕が僕の流儀でやることにも文句を言わないで欲しいね」

 「誰が文句言ったの」

 「君だよ。覚えてないの?」

 「文句なんか言ってないわ」

 「言ったよ。自分の言ったこと覚えてないの? 君はね、サヤ、自分の価値観に照らし合わせて人をつまんないとか面白くないとか一方的に決めつけることで、自分を正当化しているんだよ。いい加減なやり方が好きなのは君の自由さ。それは勝手にやってくれ。こっちも付き合える範囲で付き合うよ。でも価値観の違う人間を馬鹿にしてだよ、それで自分を正当化して自己満足するなんて、傲慢だよ。ただただ、傲慢なだけだよ」

 不幸なことに、二人とも酔っていた。店の中は直射日光が当たらない分ひんやりしており、扇風機も一台回っていたとは言え、アルコールの入った人間には暑さを感じさせた。おまけにラーメンと、さほど辛くはないがカレーとを食して、二人とも汗を掻いていた。これらの諸要因で、二人とも体の中が火照っており、どこかで退くべきところを共に逃してしまっていた。

 サヤの充血した目には涙が溜まっている。

 「私は、二人で楽しく旅行したいって言っただけよ」

 「絶対そんなこと言ってない。絶対そうは言わなかったよ。だから君はいい加減なんだ」

 「ひどい。私はどうせいい加減よ(ここで彼女は一筋流れた涙を拭った)。それは認めるってさっきから言ってるじゃない。でも、でも私はね、普段はそれなりに時間に追われて、レポートとかバイトとか頑張ってんだから、せめてバカンスくらい思いっきり開放的に過ごしたいのよ。それもあなたとの旅行じゃない。思いっきり楽しみたいのよ。あなたも一緒の考えかと思ったんだけど。ごめんなさい。じゃああなたは・・・」

 喋っていたサヤが急に息を呑んだ。彼女がほとんど恐怖に近い驚きを感じたことに、いつの間にか老婆が傍らに立っていたのだ。どのタイミングで追加注文の声が届いていたのかわからないが、震える手にビール瓶を抱えている。

 「へえ。お代わり」

 かなり動揺しながら、サヤは差し出されたビール瓶と老婆の顔を交互に見つめた。

 「あ、いや・・・すみません、やっぱり・・・」

 「いらんかの」

 「いえ、その・・・」

 相方の方を見たら、彼も気づまりな表情をしているものの、助け舟を出す気はないらしい。それにも腹が立ったが、確かにもう一本大瓶を空ける自信も彼女にはない。窮地に立たされた彼女を救ったのは、バタバタした複数の靴音と、直後に店の戸を開いて発せられた総勢六人の子どもたちの天井まで届く喚声であった。

 「ばっちゃ、ラムネくれ!」

 「ラムネおいらも!」

 「ありゃ、五本しかねえずら、おーい、金ねえやつは入るな!」

 「真治は金ねえど。真治は入るな!」

 「わしも今日は持ってるだ」

 「うわー、違った、四本しかねえずら。わちゃー、ばっちゃ、なんで四本しか入れとらん」

 「わちゃー、四本か。四本だったらよー、まだ滝壺に飛び込めんカジとひー坊は無しずら」

 「おいら飛び込むだ! 今日飛び込むだ」

 「今日飛び込むんだって。ほんまか!」

 「ばっちゃ、そんでなんで四本しか仕入れとらん?」

 これらの言葉が(実際にはこの二倍を上回る台詞が)ものの十数秒の間に、声変わり前の子供たちから一斉に放たれたのだから、それはまるで、空き缶を六本、階段の上から一斉に転がり落したのと同じようなものであった。耳を塞ぎたくなるような喧騒が、食堂内に飽和した。

 彼らはどれもこれも真っ黒に日焼けしていて、遠目には個人の区別がつきかねた。しかし近くで観察すれば、もちろん個々の違いはすぐに見分けがついた。中で一番背が高い(と言っても大人の腰くらいしかなかったが)少年は、おそらく五、六年生で、やたらと腕を組んで、金がない奴は店に入るなとか、ラムネを四本しか仕入れていないことで老婆を詰問したりとか、先ほどから一番うるさく発言していた。筋肉質で、この集団のリーダー的存在であろうが、今一つ彼の言葉をみなが拝聴している様子がない。

 金のないと言われた真治は誰よりもひょろっとしているが、四年生くらいだろうか。うりざね顔で、四年生にしてすでに世の中を斜めに見ている嫌いがある。

 まだ滝壺に飛び込めないことを指摘されたカジとひー坊は、おそらくまだ三年生にもなってなかろう。甲高い声で同じことを繰り返し叫んでいるから、喧しいのは彼らが一番喧しい。

 あと二人はともに高学年か。一人は眼鏡をかけ、六人の中で一番言葉少なであり、どちらかと言うと発言するよりも傍でニタニタ笑いながら観察している方が性に合うといった感じの男の子である。もう一人は太っていて、年下に対して辛辣な言葉を吐くのを信条としており、滝壺に未だ飛び込めない年下二人をラムネの分配から除外しようとした当人である。

 六人は一通り喚きたいだけ喚いてから、都会から来た男女に気づいたらしい。まるで外国人に出くわしたかのように、警戒心を顕わにして押し黙った。

 老婆が腰を叩きながら「コウノベさんが火曜日にならんと来んから、これしかねえだ。四本を六人で分けりゃええに」と言った。

 それに耳を傾ける者はいない。リーダー的存在の少年(ほかの少年たちに「マサやん」と呼ばれていた)が、自分の出番と思ってか、ぎこちなく肩をいからせて一歩前へ出た。

 緊張のあまり短く鼻息まで吸って、

 「旅行者ずら?」

 突然の問いかけに、サヤは

 「旅行者よ。あんたたち夏休み?」

 フレンドリーな返答に安心したのか、小学生軍団は急に活気づいた。

 「夏休み!」「でも今年は短いもん」「短くねえずら」「短いって。真ちゃんそんなことも知らねえだか」「知ってるわ!」「知らねえずら」

 ラムネ四本の栓が空いた。少年たちは誰かを小突いたりゲラゲラ笑ったり何かに悪態をついたりしないとジュースを口に含むことも出来ないような連中であった。

 ガラス瓶を回し飲みしながら会話は続く。

 「恋人かや」と太った少年。「夫婦ずら」とマサやんが知ったかぶる。「夫婦ってことねえべ。若えずら」と眼鏡。「恋人なら、キス、キスしたかや」と一番背の低いひー坊。「当たり前だろ! ひー坊お前馬鹿じゃねえか?」「ひー坊馬鹿じゃ!」「うるせえ!」

 興奮して収拾のつかなくなった子どもたちに、老婆が再びガラガラ声で口を挟んだ。

 「おめえたち、今日滝さ行くだか?」

 「行く! 今から行く!」

 「カジとひー坊はまだ飛び込ましちゃなんねえど」

 「飛び込むもん!」ひー坊がムキになって言い返す。

 「飛び込むもん! おらも飛び込むもん!」慌ててカジも唱和する。

 「まださせねえから大丈夫だ」とマサやんが老婆にぼそりと伝える。

 涙のとっくに乾いていたサヤは、別の意味で目を光らせて彼らの会話を聞いていたが、ここにきて我慢しきれないように身を乗り出した。

 「この辺に滝があるの?」

 「すぐそこだ!」「すぐだ、歩いて五分だ」「十分だ、馬鹿」  「お姉ちゃんもついて行ってみていい?」

 子どもたちはなぜだか、勝ち誇ったように歓声を上げた。 

 サヤはテーブルに両手を突いて立ち上がった。それから、自分ですら感情のわからない複雑な表情で、先ほど口喧嘩したばかりの好きだった男を見やった。

 「あなたは?」

 ユウタは(それが彼の正式な名前である)しばらく前、口喧嘩の最中に恋人の目から涙が伝ったときから、内心ずっと動揺していた。子どもたちに登場されてからは頭痛がした。何が何だかわからなかった。ただ、混乱した頭の片隅で、もし彼女に「あなたは?」と訊かれなかったら、ひどく寂しかったであろうことを、遅ればせながら自覚した。

 彼は腰を浮かした。「行くよ。もちろん、行くさ」



    滝は豪快に清水を滝壺に注ぎこんでいた。轟が群生するシダを絶えず揺らした。鳥たちが上空を行き交い、川原にはとんぼが舞い、立ちこめる水煙は夏の日差しを幻想的に和らげていた。

 都会から来た二人組は呆然と立ちすくんだ。

 「きれい」サヤがつぶやいた。

 「この高さで・・・飛び込むのか」ユウタは口を開けて仰ぎ見た。

 滝の高さは、五、六メートルはあろうか。

 リーダーのマサやんが二人を呼んだ。

 「こっち来てみな」

 靴を脱ぎ、足を濡らしながら石伝いに滝の正面に移動すると、二人はおお、と感嘆の声を上げた。

 「虹!」

 「虹だ!」

 水煙に光が反射して、滝の中腹に虹がかかっている。スマートな半円形で、七色と言うには無理があるが、四色くらいには見える。オレンジとスカイブルーがひときわ鮮やかである。滝の轟にも、森を抜ける風にも、それは微動だにせず、静謐な時間の中でひっそりと輝いていた。おとぎの国の入り口みたい、と女はつぶやいた。くぐってみたくなるね、と男がつぶやき返した。浅瀬を渡ってくるとき、転ばないよう繋いだ手を、二人とも握りしめたままであった。

 「おーい」

 いつの間に移動したのか、滝の注ぎ口の高い岩場に、日に焼けた上半身に水泳パンツ一枚の姿で、マサやんが手を振っている。他の連中もまるで飛び込みの発表会にでも参加しているように、彼の後ろにぞろぞろとくっついている。

 サヤが拡声器代わりに口に手を当て、叫んだ。

 「そこから虹が見えるの?」

 マサやんが何か答えたが、滝の音が喧しくて聞こえない。

 「そこから虹が見えるの?」

 彼女はもう一度繰り返した。

 「行くぞ!」

 マサやんはどうやら跳べという合図に受け取ったらしく、ひときわ大きく叫んだかと思うと、ぱっと岩を蹴って宙に浮き、滝の水と同じ速度で滝壺に消えていった。

 子どもたちのはやし立てる声が滝の音に掻き消される。滝の上と下では会話が通じないらしい。

 「カジとひー坊は跳んじゃダメよ!」

 老婆に何となく恩義を感じていたサヤは、老婆の忠告を繰り返した。どうせ聞こえてはいないだろう。

 「駄目だな、写らないや」

 スマートフォンをカメラにしてかざしていたユウタは、虹を撮るのを諦めた。

 女は男のシャツを掴んだ。「ユウ君、上に登ってみようよ」

 「え? 飛び込むつもり?」男はたじろいだ。

 「違うの。虹を上から見てみるの。どんな風に見えるか、見てみたくない?」

 「虹を上から?・・・どうかなあ。角度が違えば見えないんじゃない」

 「そうかも知れない。でも、そうじゃないかも知れない」

 シャツを掴む手が緩んだ。「・・・止めとく?」

 「いや、行こう」

 「ユウ君」

 ユウタはサヤの手を取り、少し照れくさそうに微笑んでみせた。「登ってみよう。そうだね。ひょっとして何かが、見えるかも知れない」




  (おわり)



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