素敵な出会いをするには ★ その八

 



 クリスマスが近づくころ素敵な出会いをするには。


 おいおい、定番じゃないかと言われそうである。どうせ雪のちらつくイルミネーションだらけの街中で、手袋にマフラー姿の若い男女が熱いキスを交わすんだろ、と言われそうである。だから、そんなんじゃなくても、こんな出会いもありますよ、というお話。


 これはずっと以前、書物で知った話である。

 時代は第一次大戦前、場所はドイツの辺り。クリスマスを数日後に控えて、雪降る町は華やかな雰囲気に包まれている。みすぼらしい身なりをした少年が、両手に収まるほどの小さな木箱を大事そうに抱えて通りを行く。少年の肩は寒さに震えているが、しっかりと木箱を抱きかかえ、真剣な眼差しで先を急ぐ。木箱の中には硬貨が半分ほど入っている。彼が鉄道の売り子をしたり掃除夫をしたりしながら三年がかりで懸命に貯めたお金である。飲んだくれて家を飛び出した父親の代わりに、彼は幼い手で、病気の母親と小さな妹を養わなければならなかった。当然ながら、毎月箱に入る金額はほんの僅かずつであった。その上今日、母親には暖かいストールを、妹にはお菓子のいっぱい詰まった袋をクリスマス用に買って家に隠しておいたので、木箱に残った硬貨の立てる音は、実に心もとなかった。

 それでも少年は、三年間ずっと欲しかったものを、今日こそ手に入れようとしていた。それは中古のバイオリンだった。古物商のショーウィンドーに飾ってあるのを見て以来、彼はずっとそのバイオリンのために金を貯めてきたのだ。

 家を飛び出す前の父親は、音楽家だったので、息子の彼にバイオリンをよく弾いて聴かせた。機嫌の良いときは楽器を触らせてもらい、音を出してみたこともあった。いい筋をしているぞ、と父親は少年の肩を叩いて言った。いつかお前のためにバイオリンを買ってやろう、と。しかしその約束は果たせぬまま彼は蒸発した。少年は、自分がバイオリンを弾ける気がしてならなかった。そして、どうしても弾きたかった。弾かなければいけない気がした。今年のクリスマスこそは、自分のために、安い中古のバイオリンを買おう。神様もそれは許してくれる、と、彼は何度も自分に言い聞かせた。

 古物商の店にたどり着いたとき、埃を被って古ぼけたそのバイオリンでさえ、彼の木箱に収まる金額では到底手が届かないものだという事実を、彼は思い知らされた。幼い彼は、バイオリンがどのくらいの値段がするものかさえ知らなかったのだ。店主の冷たい視線を背に浴びながら、彼は完全に打ちひしがれて店を出た。彼は希望を失った。働きづめに働いてきたのも、いたいけな体で家族をここまで養ってきたのも、いつしか憧れのバイオリンを弾ける、という望みがあったからである。しかしそれは、あと十年二十年彼が死ぬほど働いても手に入る金額ではなかった。彼は、人生にはどう頑張っても乗り越えられない壁があることを知った。生きる意欲すら失って、彼はとぼとぼと橋を渡った。

 橋の中ほどに、一人の乞食がいた。その姿は、貧しい少年の目から見ても信じられないほど哀れな姿であった。この真冬に穴だらけのシャツ一枚で、捨てられた新聞を被り、しゃがみ込んでガタガタと震えている。よく見ると、それほど年寄りでもない。少年の父親くらいの年齢に見えた。本当はもっと若いのかも知れない。少年はふと自分の父親のことを思い出した。そして彼が辿ったであろう悲惨な運命を想像して涙が溢れた。父親を恨む気持ちは、とっくに消え失せていた。ただただ、酒浸りで自堕落な彼が、今もどこかで健康に生きていることを願った。どうしようもない父親であったが、少年にとっては、バイオリンの魅力を教えてくれた人であった。今や、その思い出をつなぐバイオリンを手に入れる希望すら断たれたのだ。

 少年は哀れな男を見つめながら心を決めた。

 膝を突き、男に木箱を差し出した。

 男はびっくりして少年を見返した。おそるおそる木箱を受け取り、その重みに再度驚いた。

 「メリークリスマス」

 少年ははにかみながらそうつぶやくと、立ち上がり、男が声をかけるのを恐れるように足早に去っていった。


 少年の話はここまでである。その木箱は、哀れな男の飢えを満たしたのみならず、彼に人生をやり直すチャンスを与えた。数年後のクリスマス前夜、木箱はぎっしりと硬貨を詰まらせて、盲目の少女の手に渡る。それからさらに一年後、別の人の手へ。木箱は少年のあずかり知らぬところで、長い長い旅をすることになる。しかしその話は、ここで語られるべきものではない。





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