火炎少女ヒロコ


第一話  『登場』

その二

 



○    ○    ○


 国体道路沿いにある一階建てのファミリーレストラン。大きなガラス窓は縁の方が白く曇っている。午後二時を回るころから外気が急速に冷え込んでいる。
 ヒロコは、テーブルの上に突っ伏すほどに身を屈めて、深いため息をついた。
 組んだ腕に顎を乗せ、鼻からもう一度溜め息をつく。顎のラインも、鼻筋も、小作りに整ってすっきりした稜線を描いている。しかしながら二重瞼の下の物憂げな瞳が、顔全体のイメージを暗く地味なものに変えてしまっている。出来ることなら今すぐに、昆虫のように脱皮して今の身体を捨て、全然別の人間として生活し直したい、と思っているような面持ちである。
 人の気配を感じてヒロコは身を起こした。丸顔にショートカットのユリエが、にこやかに手を振っている。
 「お待ちどうさま。いやいや、トイレが混んでてさあ。もう、まじでやばかった。ねえ、聞いてる? ちょっとヒロコ、何へこんでんの? ちょっと何へこんでんのよう! よう! あんたすぐへこむからさあ。ちょっと何? アイスティーも全然飲んでないじゃない。ヒロコ・・・・もしかしてヒロコ、あんた、あたしがトイレに行ってる間に失恋でもしたの?」
 ユリエは喋りながらヒロコの肩を揺さぶった。
 「失恋する相手もいないよ」ヒロコは力なく微笑む。
 「えー! 失恋に相手なんか関係ないじゃん」ユリエは自分の席に座ると、ストローから豪快に炭酸を呑み込んだ。「相手がどう思っていようと関係ないでしょ? 相手がさ、こっちを振り向いてくれなくても、こっちが片思いして、それで振られたら、立派な失恋じゃん」
 「みんな怖がって近寄らないんだから、片思いもできないよ」
 やけ気味な口調である。ヒロコは最近、自暴自棄的な思考に走ることが多かった。噂や陰口から逃れることはすでに諦め、高校は地元を選んでいる。髪形ももとのストレートに戻した。目の前の親友ユリエに対しては、特に、過去二度の怪事件のことを隠そうともしなかった。
 ユリエは人差し指を噛む友人をじっと見つめてから、声を落してつぶやいた。
 「怖がってって・・・あのこと? あの燃えた・・・ねえ、だからあれは、ヒロコが悪いんじゃないって」
 「じゃあ、誰が悪いの?」
 「うーん、そうだなあ。運が悪いのかなあ」
 ヒロコは思わずくすりと笑った。「運が悪いの?」
 「たまたまでしょ? たまたま、ヒロコを嫌な目に遭わせた相手が、二人、ヒロコの目の前で、何らかの自然現象で燃えちゃったから・・・」
 「ねえユリエ、あなた本気でそんなこと信じてるの?」
 「わかんない」ユリエはけらけらと笑った。「自然現象としても不思議だし、ヒロコが燃やしたとしてもマカ不思議だし。まあ、だから、どっちでもありえない。どっちでもありえないから、どっちでもありえるって感じ。知らないよ。もし、もし万が一よ、ヒロコがそんな特殊な能力を持っているとしたら・・・」
 「持っているとしたら?」
 「怒らないでね。やっぱり・・・ちょっとうらやましい」
 「うらやましい?」
 「ヒロコは大変な目に遭ってるんだから、そんなこと思わないだろうけど、でも、みんな心のどこかではさ、あんな嫌な奴、今すぐ消えちゃえ、とか、この世の中が全部爆発すればいいんだ、とか、なんだかそういう破滅的な考えになる事って、あるでしょ? あるでしょって言うか、あるのよ。あたしは」
 ヒロコはまじまじと友人を見つめた。「ユリエも、そうなの」
 「あたしもそうなのってことは、やっぱり、ヒロコもそうなのよね! まあ、そうだから、そうなったってことだけど───もちろん本当のことはわからないわよ。ヒロコは、自分ではそうだと思ってるんでしょうけど───でも、いずれにしてもさ、そういう感情のわーっとなった高まりとかさ、強い願いとか、そういうのが、実現できるってことは、それってある意味、すっごいうらやましいことだよ! たとえ能力があってもさ、たとえ何かしら特別な能力が自分にあったとするよ、でも、それが何か世の中を動かしたり変えたりする力じゃないことっていくらでもあるわけじゃない。あたし何しゃべってるんだろう」
 アイスティーのグラスを両手で握り締め、ヒロコは冷たさだけを感じた。頬の震えを悟られないように気をつけながら、顔を上げる。
 「全然わかんない」
 「ごめん。あたし支離滅裂なことしゃべってたね」
 「私、人を殺したんだよ」
 周囲の客には聞こえないように押し殺した声でしゃべったつもりだったが、店内が一瞬、しん、となったような錯覚を、ヒロコは覚えた。聞こえたなら別に、聞こえたでいい。
 友は真赤になって俯いた。
 「ごめん。ヒロコ。ほんとごめんね」
 「いいのよ。ユリエ」ヒロコは穏やかな表情になって、親友に手を差し伸べた。「気にしないで」
 それから三十分間、二人は押し黙ったまま向きあい、互いのグラスを空にした。ヒロコは広げたノートにウサギの顔を描いた。ヒロコの描くウサギは、みんな無表情である。ユリエはそれを見つめながら唇をかみしめた。
 ふとした拍子に、また二人の間には会話が回復した。一旦互いの気が晴れると、いかにも女子高生らしく、何事もなかったかのように取り留めもないことをしゃべり合った。
 まだ昼下がりだが、窓の外は日が没したかのように薄暗い。
 話題はいつしか、再びヒロコの特別な能力のことに移っていった。ヒロコは片肘をテーブルに突き、哲学者のように難しい顔をして、人差し指を噛んだ。
 「コントロールできないことが問題なのよ」
 「そうなんだ。コントロールできないんだ」
 「わかんない。あんまり試したことないから。でも、感情ってコントロールできないときがあるでしょ。だから、やっぱりあれもコントロールできないんじゃないかって、それが怖いの」
 「ふうん。だったら、なおさら、ヒロコには何の責任もないじゃん。たとえそういう力があってさ、その力が出ちゃったとしても」
 「責任がないことになるのかなあ」
 「ないない! だって、学校でも家でも、誰にも教わってないでしょ、そういう能力の使い方。別に、使うな、なんていう法律もないし。そんなの、未知の力なんだから、誰も自分でコントロールできるわけないじゃん。だからさ、ヒロコ、たとえあの事が、たとえヒロコのその力のせいだったとしても、あんまり自分を責めることないって。うん、絶対責めることない。絶対。それよかさ、考え方を変えてみたら? 発想の転換ってやつ。ヒロコちょっと悪く捉え過ぎだよ。そんな落ち込むことないって。もし万が一そういう力があるとしたらだよ、そんときゃそうね・・・例えばさ、キャンプファイヤーで湿気た薪にどうしても火がつかないときに役立つとか、吹雪で遭難したときに暖をとれるとか、まあそんな風に、もっと能力の有効活用を考えた方が楽しいんじゃない?」
 これにはヒロコも微笑まざるをえなかった。もちろん、ユリエは誤解している。物を念力で燃やすことは、出来ない。かつて密かに試みたが、一度も成功していない。彼女が燃やすことができるのは、なぜか、人だけなのだ。それでもヒロコは改めて、この親友の存在を有難く感じた。ユリエは他の人間と違って、淡々と、何でもない事のように自分の特殊性を受け入れてくれている。だからヒロコも、彼女にだけは包み隠さず何でも打ち明けていた。この陽気な同年輩は、極めて異質な自分の悩みを、それこそ、全部承知しているかのように上手に汲み取り、流すべきところは流し、茶化すところは茶化し、話が重くなり過ぎないよう配慮してくれる。とにかく根が明るくて、元気づけられる。ヒロコはこういう人物に、生まれて初めて出会ったのであった。
 「それよかヒロコ、クラスの男の子たちが、結構あんたのこと気にしてんの知らないの?」
 「え? まさか。嘘でしょ。だって、誰も言い寄って来ないよ」
 「ふふーん。言い寄って来なくても気にしてんのよ、男どもは。ほら、バスケ部のショウタ君とか、利根君もそうだし・・・」
 「やだ、ほんと?」
 「結構イケメンに狙われてんのよ、ヒロコ。告られたらどうするの?」
 「そんな・・・」ヒロコは眉をひそめて首を捻った。「やだな・・・」
 驚いたユリエは、両手でテーブルを叩く真似をした。
 「は? やだなって何よあんた! ショウタ君なんて超イケメンで超クールじゃない。バスケも超超上手いし。ショウタ君なんかに甘い言葉をかけられたら、そうね、クラスの女子の三分の二は間違いなく、いっちゃうよ、それだけで。冗談じゃなく。ねえヒロコ、あんた結構ぜいたくよね。ショウタ君でも好みじゃないって言うの」
 「いや、そんなわけじゃ・・・」
 「じゃ、何よ。どんなのが好みなの。言ってみなさいよ」
 ヒロコは困った。彼女が「やだな」と言ったのは、相手どうこうではなく、自分に深く関わろうとする人間が現れたとき、自分が何かの際に感情をコントロールできなくなり、誤ってその人を燃やすような事態が起きないか、という心配が主だったのだが(何しろ、これまでの二件も、彼女は本当に燃えて欲しいと思ったわけではないのだ)、しかし一方で、好みじゃない、というユリエの指摘もあながち間違っていない気もした。それで余計に困ったのであった。
 彼女は無意識に、グラスに口をつけた。
 ふと、窓の外が気になった。行き交う通行人のぼんやりした輪郭が、曇った窓ガラス越しに見える中、一つだけ佇んでこちらを見ている人影に気づいたのだ。
 ガラスの曇りと外の薄暗さではっきりしないが、目を凝らして見ると、わかった。同じクラスの男子である。痩せぎすの身体に、耳に掛かる程度のぼさぼさ頭。きょとんと開いた眼。
 「あら、ユウスケじゃない。三組の」ユリエがヒロコの目線の先を見て声を上げた。
 ユウスケと呼ばれた男子は茫然とした面持ちでヒロコを見つめていたが、ユリエの方をちらりと見ると、慌ててその場を去っていった。その様子は、いかにもヒロコに片思いしているが、それを他人に気付かれるのは恥ずかしい、といった感じである。
 クラスは違ったが、それまでも、学校の廊下などでヒロコはときどき、この男子と行き交い、目が会うことがあった。そのたびに彼はどきまぎして足早に立ち去るのだった。ユリエが傍らにいてその様子を見たときは、腹を抱えて笑いを押し殺した。「だってあの子、変だよね! いつもびっくりしたような顔してさ、あれ、相当変人だよ!」そう言いながら、彼女は涙を拭くのだった。ヒロコも、変な男子という評価には賛成であったが、しかし、胸の内のどこかがほんのりと熱を帯びるのを感じていた。それはなんとも説明のしようのない不思議な感覚であった。「でも、なんだかよさそうじゃない、性格も」とユリエに言うと、「げーっだよ。すごい小食で、おじいちゃんみたいにトイレが近くて、休み時間もボーっと外を眺めてるんだってさ。完全な年寄りだよね。でもあんたたち二人は案外合うかもね」とからかわれたりもした。
 今のユリエは、しかし、まったく笑っていなかった。<え、なんで?>という彼女の唇の動きが、ヒロコには読み取れた。しかし聞こえてきたのは、別の言葉であった。
 「いつから?」
 「え? 知らない。窓の外見たら、じっとこっちを見ていたの」ヒロコは少し可笑しそうに笑って答えた。
 ユリエは座席から腰を浮かしている。「ねえ、いつから彼、そこにいた?」
 「だから知らないよ。今さっき気づいたんだから」
 ユリエは深刻な表情をして窓を睨んでいたが、不審そうに自分を見つめる友の視線に気づくと、すぐ笑顔に戻って席に座りなおした。
 「はは、あいつ変だよね。学校でも友達少ないし。あんなストーカーまがいの行為するなんて、やっぱりあいつおかしいよ。時々ヒロコのことじっと見てるしね。ねえ、あいつやばいよ。あいつ今まで、ヒロコに接触してきたことある?」
 接触、という固い言葉に違和感を覚えながらも、ヒロコは首を傾げて答えた。
 「いや、そんなことないよ。ときどきすれ違ったら、挨拶するくらい。おお、て驚いた感じで。だって彼、いつも何かに驚いてるみたいな顔してるじゃない」
 「そうね」ユリエは笑って見せたが、まだ表情には何かしこりが残っている。
 「ねえ、ヒロコ」
 無二の親友は決然とした面持ちで身を乗り出し、ヒロコの手を両手で握った。
 「ああいう男は用心した方がいいよ。ああいう、窓の外から、盗み見するような男はさ。あの様子じゃ、今後何かヒロコに言い寄って来るかも知れないけど、無視しときな。ね」
 「え? どういうこと?」
 今日のユリエは何だかおかしいよ、と口に出そうか迷っていると、椅子の音を立ててユリエが立ち上がった。
 「ごめん。またトイレ。今日はやたら近くてさ、何だかユウスケみたいだね」
 「そう」
 きょとんとするヒロコを残して、ユリエはトイレの方向に去った。ヒロコが気になったのは、友が立ち去る間際、テーブルの上の携帯電話を手にして持っていったことである。思い返してみれば、その前トイレに立った時もそうであった。常に肌身離さず携帯を手にする習慣がついているから、と言えばそれまでだが、なんだか今日は、釈然としないものを感じた。
 ガラスを爪で叩く音が聞こえた。
 彼女は首をめぐらし、思わず叫びそうになった。人が立っている。店の窓のすぐ外に。先ほど立ち去ったはずのユウスケである。しかも今度は、窓にずっと近づき、メモ用紙を窓ガラスに押しつけている。メモ用紙には電話番号が書いてある。片手で盛んにそれを指さす。わけがわからなかったが、ヒロコはとっさに、その番号をノートに走り書きした。そうせよ、と窓の外のユウスケが言っている様子であるし、そこには何か冗談ではない緊迫したものを感じたからだ。ヒロコが書き写したのを確認すると、ユウスケはポケットからくしゃくしゃになったもう一枚のメモ用紙を取り出し、今度はそれを窓ガラスにぴしゃりと押し当てた。
 そこには拙い字でこう書かれていた。

 『考えるな。読みとられている』

 ヒロコは愕然とした。<どういうこと? 思考を読みとられてるってこと? 誰に?・・・まさか、まさか、ユリエに?>
 ユウスケは動揺するヒロコを見つめながら二つのメモ用紙をポケットにねじ込み、店内のトイレのある辺りを見やると、最後にもう一度ヒロコを見つめ、足早に去っていった。最後の目線は、いまだかつて男子からそんな目で見られたことがないほど、真剣で意味深長なものであった。
 ユリエが戻ってきた。いつもと変わらず陽気な表情だが、ヒロコはいつものように彼女を見ることが出来なかった。瞬時の判断で、なぜユリエではなく、ユウスケの指示に従ったのか、彼女自身わからなかった。彼女はメモに言われた通り、全然別のことを考えるようにした。少なくとも、ついさっきユウスケが再び窓越しに現れたことは、ユリエには内緒にした方がいい、という直感が働いた。全然別のことを考えるのだ・・・今日の晩御飯のおかず・・・数学の予習がまだ全然済んでないこと・・・そうだ、このファミレスで、ユリエと二人で明日の予習を片付けようということになっていたが、まったく手つかずのままではないか。
 「お待たせ。ヒロコ。ああ、あたしたち、全然勉強しなかったね」
 「え? うん」
 ユリエは大げさに髪を掻き毟った。「あーあ。明日の数Bは地獄だ。でもどうせやったって能率上がんないし。なんか雲行きも怪しいしさ、もう出ようか」
 「そう?」
 二人は立ち上がった。一行も書かなかったノートやテキストをそそくさと仕舞い、帰り支度を始めた。二人とも、普段と同じような会話を交わしながら、互いの目を直視できないでいた。一度だけ、会計をヒロコがまとめて支払うとき、ユリエはその傍らで、穴の開くほどじっとヒロコを見つめていた。ヒロコはそれを知っていながら、頭の中では努めて、お釣りの計算ばかりして、ユリエの方を振り返らなかった。彼女は自分が、この世の中の、何を信じ、何を疑っていいのか、急速にわからなくなっているのを自覚した。
 街にかかる雲は重く、今にも雨が降り出しそうであった。季節がひと月ほど逆戻りしたかのような冷気が漂っていた。ひょっとしたら雪が舞ってもおかしくなかった。高校生の二人は、言葉少なに先を急いだ。いつもより、互いの歩く間隔が気づくか気づかない程度に開いていることが、二人の気持ちに一層のぎこちなさを与えていた。
 あと少しで交差点である。そこで二人は南北の逆方向に別れる。それが何となく今日は待ち遠しい、とヒロコが思ったとき、エンジンをふかす音を背後に聞いた。こんな街中で珍しいほどの音量にヒロコが振り向くと、向こう側の車線から、白いミニバンが急加速してこちら側の車線に移ったのが見えた。タイヤの磨れる音。大きく揺れる車体。何だかあまりにも唐突で、現実味のない光景であった。
 ミニバンの運転席に目を凝らしていたユリエが、顔を蒼白にした。
 「危ないヒロコ! こっちへ来る!」
 彼女に肩を思い切り突かれて、ヒロコは脇によろめいた。まさか。まさか私たちの所へ? ミニバンはさらに進路を変え、パンジーの植わったプランターを倒し、歩道に乗り上げた。まるでヒロコ達が糸で引っ張ったかのようであった。誰かの悲鳴。ブレーキの音も聞こえた気がしたが、はっきりしない。白く巨大な塊はほとんど速度を落とさず、彼女たちに突っ込んできた。どん、という鈍い音が聞こえ、ユリエの身体が一回転して、ヒロコの足元に倒れ込んだ。その先のブディックのガラスを粉々に割り、ようやくミニバンは止まった。
 ヒロコは親友の名を叫んだつもりが、つんざくような絶叫にしかならなかった。

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