火炎少女ヒロコ


第一話  『登場』

その四

 



○    ○    ○

 集中治療室前の廊下まで戻ったところで、ヒロコは迎えに来た織部警部補に委ねられ、彼と一緒に階下に降りた。エレベーターの中で、織部警部補は宮渕との会談の内容を聞きたそうにちらちらとヒロコを盗み見たが、ヒロコは思いつめたように口を固く結び、宙の一点を凝視したままだった。
 一階の受付のフロアは、だだっ広く、心なしか薄暗かった。ヒロコの両親と、祖父母が、その一隅でひと塊りになって彼女を待っていた。ヒロコは随分長い間彼らに会っていないような気がした。
 「ヒロコ。ヒロコだ」最初に彼女に気づいたのは祖母であった。祖父と一緒に椅子に座っていたが、孫の姿を遠くに認めると、大柄な体を起こして立ち上がった。すでに泣きそうな顔である。「おじいさん、ヒロコですよ」
 「おお」丸眼鏡をかけた祖父も慌てて立ち上がった。職人気質で無口な彼は、もぐもぐ顎を動かすだけでなかなか言葉が出てこない。「おお」
 一方、父と母は、二人とも立ったまま待っていた。母親は、栗色に染めた髪が胸元までカールしている。第一線で活躍するキャリアウーマンとしての誇りがその髪形に表れている。彼女は困惑したような、嬉しいような、複雑な表情で娘を見たが、前に進み出て腕を広げ、娘を抱きとめた。
 「無事でよかったわ!」
 むせるような香水とスーツのにおいを嗅ぎながら、ヒロコは、こくん、と頷いた。起業コンサルタントである母はいつも、スーツを着て、強い香水をつけている。
 父親は織部警部補に歩み寄り、何か口論を始めた。彼は四十代後半だが、ハンサムと言う言葉が何とも似合う男である。若くして証券会社の重役を務める。ブランドスーツの着こなし方一つとっても、きちんとした性格がよく伝わる。「それで、犯人は犯行の意図を白状したんですか」「いえ、まだ正式な事情聴取が出来ない段階でして。ただね、お父さん、『犯人』と言うのは現段階ではあまり適切でない表現ですなあ・・・」「何を言ってるんだ。殺意があったのは明白じゃないか」「いや、はあ」「警察はそこをきちんと追及してもらわないと困る」・・・・・・・。
 どうしてこの人は、まず私を抱きしめてくれないんだろう、と、ヒロコはぼんやりと思った。
 <お父さんはいつもそう。父親として自分のやるべきことをしっかりやってくれているんだろうけど・・・お父さんは、本当に私を愛しているの?>
 父親の目がヒロコに留まった。安心して任せなさい、という風に彼はにこりと笑った。しかし娘は笑い返すことができなかった。
 ヒロコは母の腕を逃れ、祖父母のもとに行った。老いた彼らは孫娘をかさかさした手で不器用に抱き、引き寄せながら涙を流した。「よかった、よかった」と祖父は繰り返した。「ひどい目に遭うて、ほんとになんでだろうねえお前ばかり」と祖母は自分の不行き届きを責めるように首を振った。幼少期の多くを彼らと過ごしたヒロコは、彼らに囲まれると目頭が熱くなるのを感じたが、それでも涙は出てこなかった。彼らは確かに自分を愛してくれている。がしかし、心の奥底では自分を化け物か何かのように思っているのではないか。だからこんな奇妙な事件ばかり身辺に起こると考えているのではないか。そういう疑念から逃れられなかった。もはや、どうやっても乗り越えられない隔たりが、彼らとの間にさえ横たわっているのを感じた。自分は祖父母たちとはしょせん、全然違う生き物なのだ。空っぽの心の中を木枯らしが吹き抜けていくような、底知れない虚無感があった。
 救急車のサイレンの音が、遠くから次第に明瞭に近づいてきた。誰かが搬送されるらしい。あるいは自分を搬送しに来たのではないか。どこかに存在する、自分のような奇形児を収容する極秘施設に入れるために。祖父母の涙で濡れた手で肩を揺さぶられながら、ヒロコはそんなことを心に思った。

○    ○    ○

 その夜、高瀬家の居間には、ヒロコと両親の三人が揃った。
 白を基調に、瀟洒な調度を数少なく配置した、小ざっぱりした居間。降り続く雨が、家の壁に沁み入るように、かすかに聞こえる。
 それぞれパジャマ姿でソファーに座り、両親は紅茶を飲み、ヒロコはオレンジジュースを飲んだ。三人がこうして腰を下ろして向き合うのは、非常に珍しいことである。ヒロコは若干の落ち着かなさと、家族としての静かな喜びを感じていた。
 父親は紅茶カップを片手にじっと考え事をしていたが、カップを受け皿に戻すと、おもむろに腕を組んだ。
 「なあ、ニ三日、旅行に行こうか」
 「旅行?」母親が聞き返した。「三人でってこと?」
 「うん。家族旅行だ。ヒロコもショッキングなことがあったから、ちょっと気分転換が必要だと思うんだ。綺麗な空気を吸って、静かな山や川を見るだけでも違うんじゃないかな」
 「私たちの仕事は?」問い返しながらも、その言葉にはうきうきしたものが含まれている。
 「仕事は休むさ。二三日くらい何とかなる。君だってそうだろう。僕たちもこの辺で、休養が必要じゃないかな」
 「そうね・・・」母親は笑みを浮かべて娘の方を見やった。
 ヒロコは、唖然として双親を見比べていた。二人が自分のために二三日も会社を休むなんてことは、今まで考えられなかったからだ。
 母親は頷くように、手で髪を梳いた。「いいかもね。私の仕事も一区切りついていることだし。ヒロコ、あなたはどう?」
 「え? だって・・・お父さんたちの仕事はいいの?」
 「有給休暇だ。損はしない」
 父親はとても愉快そうに笑ってみせた。久しぶりに見た感じのする、父親の笑顔であった。
 「あ・・・でも、ユリエの見舞いは?」
 唐突な旅行計画に動揺したユリエは、高揚する気持ちと裏腹な言葉を口にした。そこまで幸福の到来に臆病になっていたのである。
 「ユリエちゃんは、まだ一週間は絶対安静だってお医者さんが言ってたわよ」
 「だから、旅行から帰ってから、見舞いに行けばいい。ヒロコの学校の方への連絡は、お前がしなさい」
 「はい」
 「じゃあ問題は、どこへ行くか、だな」
 それからの三人の家族会議は、ヒロコにとって、生まれて初めてと言ってもいいほどに楽しいものであった。行き先は、父親が軽井沢辺りの高原を提案したが、母親が温泉を中心に据えることを主張した。温泉となると、伊豆など海辺でも悪くない。私はどちらかと言うと海辺がいいわ、と母親は言った。それも悪くない、と父親は賛同の意を示した。確かに海の風の方が、精神衛生にいいかも知れない。ヒロコ、あなたはどう思うの? と母親は聞いてきた。ヒロコはどぎまぎしながら、どこでもいい、と答えた。実際、彼女はどこでもよかった。この三人で泊まりがけの旅行をすること自体が、いまだに信じられなかった。幼い頃に何度かした記憶もあるが、ここ十年くらいは絶えてなかったことである。ほんとにどこでもいいのか、と父親に重ねて聞かれ、どこでもいいの、ただ、遠くに行きたい、と答えた。
 結局行き先は、日程も考慮して、熱海に決まった。出発は明日。すでに時刻は日付の変わり目に差し掛かっていたが、今度は持っていく荷物のことで大騒動になった。電車で行くので、なるべく荷物は少ないように、という訓示が父親からなされた。しかし女二人は、二泊の旅行のためにいかに多くの衣服が必要かを訴えた。あれも必要だわ。ヒロコ、あれはお母さんが持っていくから、あなたはいいわよ。じゃあそれは私が持っていくね。あ、でもやっぱりあれも持っていく!───トランクに手荷物を入れたり出したりするだけで、ヒロコは妙にはしゃいだ気持ちになった。明日から、自分は生まれ変わるんだ。普通の人として、生きていくんだ。そんなしみじみとした決意すら、湧き起ってきた。
 夜更けの一時を時計の針が差す頃になって、ようやく家族は床についた。ヒロコはまだ準備をしていたかったが、「このままじゃ明日寝坊してしまうぞ」という父親の言葉で諦めをつけた。
 布団の中で目を閉じて、今日一日のことが蘇ってきた。どれも遠い昔の出来事のような気がした。ユリエが現れた。ユウスケもガラス越しに見えた。じっとこちらを見つめる彼の目。白いミニバン。自分の悲鳴。あれはほんとに起こったことなのだろうか?───思い出を吟味するには、今夜の彼女はくたびれきっていた───病院。ユリエはまだあそこにいる。織部。そして宮渕。べっ甲眼鏡の宮渕が、「不良品」について語ったくだりが、鮮明に思い出された。
 <馬鹿じゃないの。私をほんと馬鹿にしていたわ、あの人>
 もはや追想を続けることが出来ないほど意識が朦朧としてきた。全ては茶番劇だったと思いこむことに決め、今夜はこれ以上何も考えないことを自分に言い聞かせ、彼女は深い眠りに落ちて行った。

○    ○    ○

 翌朝は雨も上がり、澄みきった青空になった。
 ヒロコたち親子三人は、プラットフォームに立って電車の滑りこむのを待っていた。通勤ラッシュを避けるために、朝七時半という早めの電車に乗ることにしたのだが、すでにフォームには少なからぬ数の通勤や通学の人たちが佇んでいた。かすかに朝靄の漂う中、皆一様に眠そうであった。ヒロコは自分が一番眠いんじゃないかと思った。
 <やっぱり、お父さんの言う通り、もっと早く寝ておけばよかった!>
 それでも、これから始まる家族旅行のことを考えると、わくわくした。短い丈のチェスターコートにベレー帽。いろいろ小物の詰まったショルダーバッグ。彼女はじっと電車を待っているのに苦労した。キオスクに走って、全然必要のないものでも買い漁りたくなるような衝動に駆られた。
 「旅行日和ね」と母親が言った。
 それは夫に向けて発せられた言葉であったが、ヒロコは「うん」と答えてみせた。
 構内アナウンスが電車の到来を告げた。線路の遠い向こうの信号の色が変わった。微かな振動音が伝わってくる。
 列車が来る。いよいよ家族旅行が始まる。華やいだ気持ちは頂点に達した。
 突然、それは暗澹たるものに一変した。
 ヒロコは愕然とした。
 <狙われている!>ヒロコは心に叫んだ。<誰かが背後で、私をフォームから突き落そうとしている>
 強烈な確信であった。単なる妄想かも、と考え直す余地はなかった。これほどの圧倒的な気配を感じたことは、彼女はかつて一度もなかった。それはほとんど、目で見て確かめたと同じであった。
 恐怖と警戒心で硬直し、後ろを振り返ることができない。後ろを振り返れば、当の人物が気づかれたと思い、すぐ実行に移すかも知れない。
 <どうして? 誰が?>
 ヒロコは線路を見つめながら、意識を集中した。脳裏に、自分の背後に広がる駅構内全体が映ってみえる。全てはぼんやりとしたものだが、その中に、ひとつだけぽっ、と明るい部分がある。自分の斜め後ろ二メートルばかりの所。気配からして大人の男か。殺意がある。明らかに自分に対する、生皮を剥がしたようにひりひりとした殺意。こいつだ。
 「どうしたんだ、ヒロコ」
 父親の声が聞こえた。
 「顔色が悪いわよ」
 母親の声も重なった。
 ヒロコは、どちらを見上げることも出来なかった。ただ全神経を尖らせて心の映像を追った。
 <なぜ>
 彼女は不意に泣きたくなった。なぜ目で見ない人の心までがわかるのか、という疑問は、この際大して意味を持たなかった。全てが咄嗟のことであった。困惑と恐怖の渦中で、ああ、自分はこういうこともできるのだ、と冷静に受け入れている自分がいた。宮渕に言えば、わかりきったことだと返されるかも知れない。電車が迫る。時間がない。それよりも、こらえようもなく涙がこみ上げてくるのは、なぜ、自分は狙われなければならないのか、それも、こんなに普通の幸せが待ち構えている矢先に───なぜ自分は、否が応でも、この異常な、化け物の世界に引き込まれなければならないのか、という痛切なやるせなさであった。
 人の気配が、動いた。
 「やめて!」
 彼女は叫んだ。叫んだように、彼女は思った。彼女の両親を含めた周りの人々も、その叫び声を聞いたような、聞かなかったような気がした。何しろ、彼女の叫びと同時に、彼女の背後まで近づき、今まさに腕を突き出そうとしていた人物が、凄まじい音を立てて炎上したからだ。火柱は一瞬、天井まで達した。それは若い駅員だった。
 駅構内にどよめきが走った。怒号と悲鳴が交錯した。振り返って自分が為したことをしっかり見届けると、ヒロコは手にしていたバッグを振り落とし、一目散に駆けだした。ベレー帽が飛ぶ。
 「ヒロコ!」
 「どこへ行くの!」
 父親と母親が呼びとめる声。しかしヒロコは心臓が破裂しそうなほど走りながら、もう二度と彼らのもとには戻れないことをぼんやりと覚悟した。もちろん、大好きな祖父母のもとにも。左の靴が脱げた。それでも走る。もう、誰のもとにも帰れない。死にたい。どこかで死にたい。誰も見ていないところで、今すぐに。
 右足だけ靴を履いた姿で、転びそうになりながら階段を駆け上がる彼女の腕を、力強く掴む者がいた。ハッと振り返ると、ユウスケであった。
 大量に息を切らせながら、ヒロコは、今ここにユウスケがいることが、そんなに不思議ではない気がした。もう何が起こっても驚かないが、自分はこの痩せぎすでぼさぼさ頭の男の子を今、強烈に求めている気がした。
 ユウスケは、憐れむような、諭すような目で、ヒロコを見つめた。
 「こっちに来るんだ」
 彼の手に曳かれて連れて行かれたのは、駅構内の薄汚れたトイレである。中に誰もいないのを確認してから、ユウスケは男子トイレにヒロコを導き入れた。
 ヒロコはそこで立ち止まってようやく、自分の頬を大量の涙が流れていることに気づいた。
 ユウスケは彼女の手をしっかりと握ったまま、優しく慰める口調で言った。
 「大丈夫だから、安心して」
 「あなたは・・・」ヒロコは涙目で彼を見つめた。「あなたは何なの?」
 ユウスケの顔に笑顔が広がった。
 「僕はね、テレポーターなんだ」
 その言葉と共に、ヒロコは自分の身体が宙に浮くような錯覚を覚えた。
 次の瞬間、二人はトイレから姿を消した。

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