火炎少女ヒロコ


第二話  『捕囚』

その四

 



○    ○    ○


 さらに一か月が過ぎた。初夏の日差しが施設に降り注ぎ、ツガやヒノキは色を深め、野鳥たちの声は何層にも重なり合った。しかしヒロコの心境は日に日に落ち込んでいった。
 ほとんど唯一、ヒロコが心を打ち明けて相談できたミサとは、入居から一か月で別な部屋に組み替えられた。ミサはもともと、新人と一か月のみ同室して健康管理をチェックする、という役割を担っていたのだ。毒舌のチアキとも離ればなれになった。替わりに同室となったのは、やたら手振りを交えながら話をする女と、不満があるときは目を細めて人の話を聞く女だった。二人とも二十代後半で、以前からの知り合いで、仲が良かった。二人の仲が良い分、新人のヒロコは疎外された。彼女たちは、チアキのように毒舌で絡んでくることすらなかった。新人のヒロコを見下し、相手にせず、内心では恐れていた。この二人がどんな能力の持ち主かをヒロコは知らなかった。二人とも教えてくれなかったからである。だからヒロコは彼女たちのことを何も知らない一方で、彼女たちはヒロコの噂を充分聞き知っていた。その人物評は決して芳しいものではなかった。いわく、訓練不足で、自分の能力を制御できない高校生。殺人の履歴もある。AUSPの仲間に順応しようという意志に欠けている。人付き合いが悪い。人を燃やした実績があることで、それほどの殺傷能力を持たない他のメンバーたちを、おそらく軽蔑している・・・。
 根も葉もない中傷が自分の周りで飛び交っていることは、ヒロコは誰に教えられなくても承知していた。皆の自分に対する態度を見れば明らかであった。
 ヒロコは、孤独の度合いを深めた。
 彼女はより寡黙になり、一人でいることが多くなり、無表情になった。彼女は黙々と汗をかいた。梅雨前というのに、連日真夏のような暑さが続いていた。
 ヒロコの憂鬱に拍車をかけたのが、いくら訓練を重ねても一向に自分の能力が進歩しないことであった。もともと能力を伸ばすことに関心があるわけではなかったが、日々の鍛練がそれを目的としている以上、何も変化がないのは周りに対しても気が引けた。あの日の朝、駅構内で背後にいる駅員の殺気を感じ取ることができたのに、今は、目の前に立つ人の目をどれだけ覗き込んでも、何一つ読み取ることができなかった。
 感情をコントロールすることに関しても失格の烙印を押された。フミカは仁王立ちになり、床に泣き崩れるヒロコに対し罵声を浴びせた。
 「あんたね、自分を制御できない能力者なんて、狂人と同じだよ。危険で仕方ないよ。こんな体たらくだったら即刻、精神病棟行きだね」
 その言葉を聞きながら、ヒロコは雨女サキコのことを思い出した。その純白の病人服も。そういうことか。人を弄ぶだけ弄んで精神病棟送りということか───むらむらと憤りの感情がこみ上げ、右手の拳を床に打ちつけた。瞬時に、背中に竹刀が飛んできた。
 同室の二人は依然として、ヒロコ抜きで日常を送った。
 それでも彼女たちの会話が耳に入ることがあった。その言葉の端々から、二人がリーダーのエイジに心酔していることが伺えた。やたら手振りを交えてしゃべる女(ナミコと言った)が、今日何回リーダーと目が合ったと言えば、もう一方が(アンナと名乗った)大げさに相槌を打ちながら、彼の多彩な能力について知っている限りの知識を、求められもしないのにひけらかした。
 アンナはふと言葉を切り、目を細め、ヒロコの方をちらりと見るふりをした。
 「でも、問題児っているじゃない。ね。リーダーって、結構、そういう子が好きだからね」
 ナミコは手を振り上げ、憤慨した目で宙を睨んだ。
 「好きじゃないのよ。リーダーは心配なのよ。そういう、和を乱したりする子が。組織の団結に関わるもん。あーあ、リーダーが可愛そう」
 「本人が全く反省なしだからね」
 「そう、本人がね」
 「何がいいのかしら」
 「ほんとに。ほんとにわかんない」
 二人から離れた隅で髪を拭いていたヒロコは、体を硬直させた。自分のことを言われているのは明白であった。
 <リーダーが? 私のことを───>
 にわかには信じ難かったが、思い当たるふしがないでもなかった。エイジとの個人レッスンは週に二、三度のペースで続けられていた。ジャマーで頭痛と吐き気を与えられ、それに耐える辛さは相当なものであった。彼がテレキネシスで自分を動かそうとしたり、自分の心の中を覗こうとするのを防ぐ訓練もあったが、彼のオーラが重くのしかかってくればくるほど、不意に、ヒロコは何だか凌辱されそうな不安に胸がざわつくことがあった。もちろん訓練中、エイジは真剣そのものであり、時に額に汗を浮かべ、時に数分に及ぶ瞑想を挟み、常に冷静を保とうとしていたが、彼の自分を見る視線に、指導者としてよりは、ややもすると、男としての圧力を感じ取ることがあった。だが、そもそも、この施設内は恋愛禁止ではなかったのか───?
 単なる誤解かも知れないが、一度思い込むと、エイジに対する不信感は顔を赤らめるほどであった。もともと好意的には見ていなかったが、精神修養を積んだ人物と思っていただけに、ひどく裏切られた気がした。そうなると彼のみならずこの施設全体が、非常に汚らわしいものに思えてきた。ぬめぬめとした、不定形の有機体が、自分を押し潰そうとしている。自分のこのか弱い体を、いたぶるだけいたぶって、最後は辱める目的のためだけに、この組織が存在している気さえした。
 <私はただ、狙われているの?>
 激しい嫌悪感と動揺に顔を曇らせたのを、二人に察知された。彼女たちは急に怯えたように押し黙った。彼女たちは、やはり心のどこかで、ヒロコに燃やされるのではないかという危険性にびくびくしていたのだ。
 ヒロコは悪魔のように暗い心持になった。
 <絶対。絶対逃げてやる。こんなとこ───でも、どこへ? どこへ? もう私には、お父さんもお母さんもいない。本当のお父さんとお母さんは、幼い私を捨てた・・・捨て子なの私・・・おじいちゃん、おばあちゃんは? 駄目。駄目よ、彼らもしょせん信じられない。私を騙してきたんだもの。もう、私は誰のことも信───何言ってるの? そんなこと言える立場? 私は人殺しよ! 誰も近寄ってくるわけないじゃない。この人たちを見てよ。当たり前の反応でしょ。だって・・・だって、私は人殺しだもの>
 無意識に体を震わせていたのか、まだ乾ききらない黒髪から、滴が一つ落ちた。
 このままだと自分は発狂する。いや、発狂ではない。自分の場合、人を燃やしてしまう。
 いたたまれなくなってヒロコは立ち上がった。ナミコとアンナが、思わず逃げるように身構えたのが見えた。
 ヒロコは二人の前を通り過ぎ、部屋を出て、暗い廊下をやみくもに歩いた。
 <ユウスケ君。どこにいるの? 会ってよ。一緒に逃げてよ。ねえ。もう限界。私もう限界なの。ユウスケ君。ユウスケ君。ユウスケ君。ユウスケ君・・・・・・・>
 しかし、ヒロコが彼との再会を果たすには、さらに二週間を待たなければならなかった。

○    ○    ○


 梅雨に入った。その日は昼過ぎから雨が降り始めた。夕方雨脚は弱くなったが、日が没しても霧のような雨が降り続いた。その夜更け。時刻は二時。突如、AUSP富士研究所全館に警報が鳴り響いた。
 警報は「外敵侵入」を告げていた。十秒鳴り、四秒止み、十秒鳴り、四秒止み、十秒鳴り・・・。警報の種類とそれに対処する訓練はすでに全メンバーが積んでいた。瞬時にして、館内は地震に見舞われたかのような喧騒になった。ヒロコも布団をはねのけて起き上がると、ほとんど反射的に上着と戦闘用ベストを羽織り、床に降り立った。
 警報はアナウンスに切り替わった。
 「侵入者は三名から五名。西北西十五キロ地点で確認。A班B班C班D班は玄関前に集結。E班F班は大講堂に集結。G班は各自持ち場に着き待機せよ。繰り返す。侵入者は・・・」
 ヒロコは駆け足で移動する人波に必死に追いつきながら、武器庫でM4カービン銃を受け取り、玄関先に飛び出た。
 侵入者を警戒して煌々と照らされた照明に、雨が絹糸のようにきらめいていた。それを、美しい、とヒロコは思った。監獄暮らしのような日々で感情が麻痺し、見えなくなっていたものが、非常事態で興奮する目に、鮮明に映ったのかも知れない。
 実際、ヒロコはひどく興奮していた。夜更けの冷気も、頭を濡らす雨も気にならなかった。警報を使用した集団訓練は何度か経験したが、実戦は初めてであった。怖くもあり、密かにわくわくした。何かが起きようとしている。撃ち合いになるのだろうか。それで組織が混乱すれば、逃げ出すチャンスができるかも知れない。いや、そもそも「外敵」とは、ひょっとして、自分を救い出しに来た人々ではないかとまで夢想した。
 「D班整列!」
 号令が聞こえ、ヒロコを含む十一名は背筋を伸ばした。最後尾から二番目の位置にいたヒロコは、聞き覚えのある、懐かしい声に思わず身を震わせた。
 十一名の前に立っていたのは、ずっと会いたかった人だった。実に二か月ぶりに見る姿であった。声を上げそうなほどに、ヒロコは感動した。ぼさぼさ頭で、痩せぎすの体。しかしぼんやりと見開いていたはずの目は、今は、強い意志と覚悟の光を湛えている。ヒロコたちと同じように戦闘用のベストを羽織り、左腕には黄色い腕章を巻いていた。
 確かに、それはユウスケであった。
 「我々は北東に散開し、敵の攻撃に備える。敵は公安の偵察部隊と思われる。エスパーの有無はわからない。敵を見つけ次第射殺せよとの命令だ。以上。私に続け」
 きびきびとした口調だったが、射殺命令に言及するときだけ、少し口ごもったようにヒロコには思われた。彼らしかった。他の狂信的なメンバーにはない人間味が、彼にはある。彼なら、自分の気持ちを分かってくれる。ヒロコは必死で彼を目で追った。彼が部隊に背を向ける間際、自分の方をちらりと見たような気がした。
 真っ暗な林の中に散開し、ライフルを手にじっと身を潜めている間も、ヒロコは侵入者よりもユウスケの足音が聞こえてこないかと、そればかり考えていた。ここに来て欲しい。自分がこの班に属していることはわかっているはず。自分の方をちらりと見て確認もしたではないか。ヒロコはじっと耳を澄ませて待った。
 梢にたまった雨水がしたたり落ちる音。
 熊笹と熊笹が掠れあう音。
 漆黒の闇。
 樹上にフクロウの声。
 背後で、熊笹を掻き分ける人の気配がした。ヒロコの心臓が高鳴った。
 「心の闇は」
 合い言葉である。ヒロコは泣きそうになるのをこらえて答えた。
 「洞窟にできた影絵」
 笹を踏みしめる音が大きくなり、すぐそばに男が現れ、身を屈めた。
 再会であった。あれだけ待ち焦がれた、二人きりの再会であった。だが今は警戒態勢である。二人ともすぐに銃を構え直し、前方の暗闇を目で探った。いつ、敵が現れるかわからない。しかし、心の中は狂おしいほどにお互いのことしかなかった。
 「ユウスケ君」
 ヒロコは涙声で呟いた。
 「ヒロコさん」
 優しい笑顔がこちらを向いたのが、暗がりでもわかった。
 「会いたかった」
 「僕もだよ」
 「私を避けてたの?」
 答えはすぐに帰ってこなかった。闇の中とは言え、ぐっしょり濡れた髪では、自分が醜く見えるのではないかと、急にヒロコはそんなことが不安になった。
 「任務がいろいろとあったんだ」
 「私、恨んではないから。ユウスケ君のこと」
 全然言いたくないことをなぜ口走ってしまうのか、ヒロコは自分でもわからなかった。
 「ここに連れてこられたことも。こうなったのも───ユウスケ君のせいじゃないから」
 <どうしてこんな非難めいたことばかり口にするの? 私って最低!>
 傍らに屈みこむ男は、苦悩していた。重い沈黙がそれを代弁した。
 彼が動いた。
 「ほかのメンバーの様子を見てくる」
 「待って!」
 ヒロコは立ち上がった。銃が彼女の手を離れて落ちた。もう、迷いはなかった。
 林間の霧雨を振り払う一陣の風のように、彼女はユウスケの胸に飛び込んだ。
 飛び込まれた方は相当面食らった。ヒロコの体重を受け止めかねて、半歩後ろによろめいた。しかし、彼も覚悟は決めていた。お互いの体の密着を隔てる固い銃を外し、ヒロコの肩を覚束なげに抱き寄せた。
 二人は夜の森で、霧雨に全身を濡らしながら、まるで一本の立ち枯れの木のようにそっと抱き合った。
 ヒロコは確信した。自分は、この人を愛している。全身全霊で愛している。孤独だからではない。孤独だから、愛してない人を愛するようになったのではない。実はそのことが、これまでユウスケのことを思い浮かべるとき、ヒロコの懸念材料の一つであった。自分が彼のことを気にするのは、単に寂しいだけではないだろうか? 違う、ということを、ユウスケの体温を感じながらはっきり悟った。
 自分は、本当にこの人が好きなんだ。
 一方のユウスケは、ひどく動揺していた。彼には任務があった。自分に委ねられた十一名を無事に誘導し、帰還させたかった。敵の動きも気になった。立ったまま抱き合っている今の自分たちは、もし敵の目に留まれば、格好の標的に違いない。たとえ見つからなくても、敵の潜入を見過ごしてしまう恐れもある。何より、これは禁じられたことであった。幹部の地位にある自分が、それも非常事態のさなかに、こんなことをしていては───しかし、彼女の痩せた肩から手を離すことができなかった。どうしてもできなかった。彼もまた、ヒロコを痛切に愛していたのだ。
 ヒロコが濡れた唇を近づけたが、ユウスケは首を振り、それを拒んだ。
 「一緒に逃げたい」ヒロコが囁いた。
 「駄目だ。できないよ」
 ユウスケはようやくの思いで体を離した。
 「行かないで」
 「行かなきゃいけない」
 「行かないで。お願い」
 「また、会える」
 「いつ?」
 「───一週間後。ちょうど一週間後だよ。夕方五時・・・裏庭の貯水槽のところがいい。あそこなら誰にも見つからない。貯水槽のところで会おう」
 「わかったわ。一週間後の夕方五時。貯水槽のところね」
 二人は手を伸ばし、見つめ合った。
 「絶対来てね」
 「うん」
 濃密な瞬間は過ぎ去った。ユウスケは熊笹を掻き分け、闇に消えていった。一人残されたヒロコは、下唇を噛んで、彼の消えた方角を見つめ続けた。「好き」となぜ口に出して言わなかったか、それを悔やんだ。落ちてくる雨が一段と冷たくなったように感じた。
 半時ほど経過した頃、銃弾の音が一発聞こえた。間を置いて、さらに一発。それから一時間ほどして、撤収の合図が出された。ヒロコは完全に濡れそぼちていた。全員が玄関の前に整列すると、状況報告がなされた。侵入者は三名。警官服に防弾チョッキを着ていて、公安第七課の者と思われる。こちらから二発射撃したが、ともに当たらず、侵入者は退散した模様。どこかに未だ潜伏している可能性もある。引き続き警戒態勢を取り、各自気を緩めることがないように。以上。解散。
 ヒロコの耳には、ほとんど何も聞こえてなかった。
 ユウスケ君。
 睡魔と疲労を背負い、冷え切った体をようやくのことで支えながら、彼女は幾度もその名を胸の奥で復唱した。銃を武器庫に戻し、薬莢を詰め込んだベストを脱ぐときも、濡れた体をタオルで拭くときも、再びベッドに潜り込んだ後も。彼の優しい声。その眼差しを思い返した。息苦しくなると、彼女は熱い吐息をついた。彼の存在は、あまりに大きくなった。それはこの深く暗い落とし穴から抜け出すための、唯一の光明だった。
 消灯後の暗がりの中、ベッドの木枠の目立たないところに、彼女は爪でウサギの絵を描いた。実に久しぶりに描く落書きである。その絵の横に、「好き」と書いた。本当はウサギの代わりに彼の名前を刻みたかったのだが、万が一見つかることを恐れた。爪が痛くなるほど慎重に書いて、ようやくいくらか気が静まった。
 彼女は毛布を被り、体を小さく丸めた。
 <私は恋をしている!───私は恋をしている!・・・なんて苦しいの・・・胸が押さえつけられて、息ができない! 死んでしまいそう。ほら、手先が震えているもの。どうしちゃったの、私?・・・会えないだけで・・・この苦しみが、一週間も続くの?>
 それは十六歳のヒロコに生じた、生まれて初めての真剣な恋心であった。

 窓から差し込む淡い日差しを浴びながら、宮渕はリンゴの皮をナイフで剥いた。
 べっ甲眼鏡に切れ長の目。左頬に黒い痣。
 刃先に溜まる果汁や、白くみずみずしい果肉を、彼はまるでもの珍しいものでも見るように見つめながら、ひたすら赤い皮を剥き、その長い帯を皿の上に落としていった。
 全部剥き終えると、皿の上で小分けに切って、爪楊枝を刺し、ようやく笑みを作ってベッドの上の患者に差し出した。
 ベッドにはユリエがいた。背中に枕を宛てがい、上体を少しだけ起こしている。一か月前と比べて顔がふっくらして色艶も戻り、髪も短く小ぎれいに切り揃えている。
 「有難うございます」
 彼女は一切れ取ったが、すぐ口に運ばずに、両手で爪楊枝を支え持った。
 「どうした。食べないのか」
 「いいえ。いただきます」
 ユリエはリンゴを頬張った。「美味しい」
 宮渕はその様子を、眼鏡越しにじっと観察した。
 「左足の具合はどうだ」
 「ええ。もう骨もしっかり付いたそうです。リハビリも順調です」
 「そうか。頭痛が取れないと聞いたが」
 「ときどきひどいですけど、耐えられないほどじゃありません」
 宮渕は小さく頷いた。
 窓の外は、色落ちしたような薄曇りの空。
 「能力が増したな」
 「はい」
 「何ができる」
 ユリエは手元の爪楊枝を見つめた。「いろいろですが、体が回復してみないと───」
 「プラスチックの容器を砕いたと聞いたが」
 「はい」
 宮渕はテーブルの上の皿を顎で示した。
 「このリンゴを潰せるか」
 患者の目が光を帯びた。「ここで潰せば汁が飛びます」
 「構わん」
 「お待ちください」
 ユリエは口を閉じて意識を集中した。リンゴを載せた皿はテーブルから浮かび上がり、空中を窓辺まで移動した。窓のロックが勝手に外れ、窓が開き、リンゴを乗せた皿はそのまま外へ出た。窓が閉まる。リンゴと、それを乗せた皿は、窓の外でマグリットの絵画のように浮いていたが、果実は何かをぶつけられたように激しく潰れると、四方に果汁をまき散らした。
 窓ガラスに幾つもの残骸が汚らしく付着した。
 宮渕はその一部始終を、データの数字でも見るように無表情な目で見届けた。
 白磁の皿だけが、何も載せないまま浮いている。
 「あの皿も砕けるか」
 ユリエは上司を見返した。
 「やれ」
 その声に間を置かず、皿は室内まで聞こえる音を立てて粉々に割れ、落下していった。
 地面に落ちた音は届かない。
 窓の外の薄曇りの空は、何も見なかったかのように沈黙を守っている。
 宮渕は部下の方を振り返った。
 「高瀬ヒロコの居場所が判明した。AUSP富士研究所だ。偵察隊が潜入を試みたが、警備が去年よりも格段に強化されている。こちらの捜索を想定したものだ。重要な指名手配人物を匿っている証拠だ。通信傍受などの解析結果も、ヒロコがそこにいることを示している」
 彼はベッドに近づいた。後ろ手に組み、高い位置からユリエを見下ろす。
 「一か月後に自衛隊の協力を得て襲撃を行う。大規模なものだ。奴らは離散する。高瀬ヒロコはどこかに逃れて潜伏するだろう。故郷の街に戻ろうとするかも知れない。君は退院次第、ヒロコと接触を試みて欲しい。彼女にとって君はいまだ親友だ。説得してこちらに引き込め。もし、相手が拒絶するようなら」
 宮渕は言葉を切り、病室を歩いた。コツコツと靴音が立つ。
 「あの女は大変危険な能力を持つ。それがAUSPの連中により洗脳され、強化されていればなおさらのことだ。すでに二件の殺人事件と一件の傷害事件を起こしている。いずれも、現在のこの国の法で裁ける事件ではない」
 靴音が止まり、上官は部下に命じた。
 「抵抗するようだったら、殺せ」
 ユリエの目が見開いた。
 「君にできるか」
 「できます」彼女は、抑揚のない声で答えた。「今なら、できます」

○    ○    ○


 早朝の青木が原の樹海は霧が立ちこめやすい。濃霧に身を隠すようにして、小さな沼地のほとりに、黒いバンが一台停車していた。乗っているのは四人。みなコンビニエンスストアで仕入れた菓子パンやお握りを貪り食っている。助手席にいるのは、太った体にひしゃげた顔、禿げ上がった頭に長い横髪という落ち武者のような髪型。磐誠会の老会長に「板井」と呼ばれた男である。
 「いいかお前ら」
 彼は焼きそばパンを口いっぱいに咀嚼しながら、残り三人に檄を飛ばした。
 「腹くくれや。これは相当難儀なおつとめやで。一週間は山ん中で野宿を覚悟や。それも敵の真ん前やからな・・・何しろ、連中は相当神経質になっとる。サツにも発砲して追い返すくらいや。奴らに出会ったら殺られる前に殺れ。おいトヨ、こぼさんように食え! 誰の車や思てけつかんねん」
 「へえ」と後部座席の若い男が恐縮し、車の床に落ちた米粒を慌てて拾って口に入れた。
 「聞いとるんかお前ら。ええか。軍事練習か何かでヒロコが建物の外に出た時を狙う。ヒロコには厳重な警備がついとるやろけど、わしがあの子を操作する。自分の味方が敵に見えるようにしたる。まだ十五、六のひよっこや。大したことない。うまくいって、AUSPの連中を燃やしてくれたらもうけもんや。とにかく、ヒロコは傷つけんと拉致する。それが会長の命令や。自分の身ぃ燃やされても、ヒロコだけは撃つな。ええな」
 三人は野太い声で返事した。
 板井は前を向き、にやりと笑いながら、口に付いた焼きそばのソースをねとねとした舌で舐めた。禿げ上がった額には汗が滲む。
 「会長も物好きやでほんまに・・・」

○    ○    ○


 蒼穹に突き刺さるほどに切り立った断崖。足のすくみそうなほど高い頂上の平地にはテーブルとイスが並んでいる。そこに九人が腰かける。真ん中にエイジ、左右に四人ずつ、AUSPの幹部たち。眼下には赤茶けた荒野が広がる。見上げれば、空高く大鷲が横切る。三百六十度の地平線。何とも壮大な景色である。すべてはエイジの作り出した集団幻覚である。列席者は一様に深刻な顔をして、景色に見とれる者などいない。
 まるで葬式のような沈黙。
 エイジが重々しくつぶやいた。
 「おそらく、政府は総攻撃を仕掛けてくる」
 「何しろ今回は、向こうに大義名分があるわ」と縁なし眼鏡のレイコ。「発砲して、しかも逃したのは大失敗だった」
 「どうせいつかはぶつかり合うんじゃねえか」と黒髭の谷。
 「それを望んでいる人もいるようね」
 ちっ、と舌打ちして谷は横を向いた。
 「磐誠会の動きも気になります」頭を角刈りにした別の男が口を挟んだ。「組の車が数台、こちらへ向かったという情報もあります」
 「マスコミに知れるのも時間の問題でしょう」と別の女。
 白髭の博士がいぶかしげに口を開いた。
 「奴らの狙いは何だ」
 白けたように、何人かが目を逸らした。
 レイコが組んだ腕をテーブルに置き、教え諭すように答えた。
 「当然、ヒロコよ」
 博士は呆れたように首を振った。「総攻撃して奪うべきものじゃない。彼女は一人の情緒不安定な女の子で、もっと言えば、病人だ」
 「もっと言えばお荷物だ」と谷。「だが敵さんは、秘密兵器か何かだと思ってんだろ」
 フミカが失笑の鼻息をついた。「今のところ使い物にならないけど。せいぜい危険物ね」
 細面のイモリが甲高い呟き声を上げた。
 「へ、まるでプルトニウムみたいな扱いだな」
 ユウスケに睨まれ、イモリは眉を吊り上げて睨み返した。
 再び、息苦しいほどの無言。
 リーダーのエイジは目を閉じてじっと考え込んでいる。眉間は険しい。
 隣のレイコが苛々した口調で言った。「正直なところ、あの子は、この組織にとってますます不都合な存在になってきているわ」
 「じゃあどうしろと」と憤慨気味に博士。
 「あの子を匿うことはこの組織の益にならないと言ってるんです」
 「だからどうしろと言うんだ」
 「あの子は犯罪を犯している。警察に差し出すべきです」
 「馬鹿な!」博士は天を仰いで激高した。「なんて勝手な論理だ。お前さんたちはいつもこうだ。だったら初めから拉致しなけりゃよかったんだ」
 普段は冷静な博士の逆上に、場はざわついた。
 「拉致は言葉が過ぎます」角刈りの男が諌めた。目の端で、ユウスケの青ざめた顔を気遣っている。
 博士の憤りは収まらない。
 「過ぎることはないぞ。そうだろうが。いや、もちろん、ユウスケが悪いんじゃない。これは組織的犯行だ。ユウスケは指示に従ったままだ。違うか? 我々があの子を拉致した。あの子のためを思ってだ。そのはずだった。だがここであの子をポイ捨てしたら、それこそ犯罪だ。そうだろうが。これは我々全員の問題だ。我々はヒロコを、この組織の一員として受け入れた以上、最後まで守る義務がある」
 誰も言い返さない。首を振る者がいる。頭を抱える者もいる。
 リーダーが瞑想を解いた。
 「今日は閉会にする」
 加熱しかけた議論に急に水をかけられ、拍子抜けした面持ちに、皆がなった。演説をぶった白髭の博士は不機嫌そうに眉をしかめた。谷は椅子の背にもたれかかり、舌打ちをした。レイコは目を細めて横を見つめた。
 リーダーは立ち上がった。
 「次の会合は追って連絡する。各自、頭を冷やして対策を検討しておくように。警戒は怠るな。以上」
 出席者たちはすぐには腰を上げなかったが、それ以上の言葉が発せられないとわかると、一人、二人、立ち上がった。崖の先端には中空を切り取る形で一枚のドアが現れた。彼らはそのドアを開けて順に出ていった。
 「ユウスケ」
 エイジは彼を呼び止めた。「君はちょっと残ってくれ」
 ユウスケはリーダーの顔をまじまじと見つめた。「はい」
 最後尾のイモリが居残る二人を気にしながらドアを閉め、崖の上にはエイジとユウスケの二人だけになった。
 エイジはすぐに話を切り出さなかった。思案するように腕組みをし、ユウスケの立ち尽くす前をうろうろと歩いた。凛々しい眉が深い苦しみを刻んでいる。
 幻影の風が天空から大地めがけて吹き抜ける。二人の貫頭衣は翻りもしない。
 大鷲はまだ空高くを飛んでいる。
 ユウスケは毎度のことで見慣れたとは言え、改めて心に思った。<どうしてこの人はこんな心象風景を自在に思い描けるのだろう?>
 エイジが苦笑いしてユウスケを見た。ユウスケははっとした。さては心理を読み取られたか。
 「私がなぜこんな景色ばかり君らに見せるかわかるかね?」
 「・・・わかりません。リーダーは、よっぽどの詩人なんだろうと思っています」
 「詩人か。は!」
 エイジは崖の下を眺めた。
 「別に一から創り上げているわけじゃないんだ。自然と心に見えてくるんだよ。こういう風景が。それもしょっちゅうだ」
 「はあ」
 「結局、幻覚だ。幻覚なんだよ。昔から使われている本来の意味において。病気の一種だ。自分の意志でどんな景色でも自在に取り出せるわけじゃない。何となくその時々で心に浮かんでいる風景を、呼び起こすんだ。その心に浮かぶ風景は、点いたままのテレビのように、私の意志に反して勝手に映像を流している。なぜかはわからない・・・・そういうことだ。偶然の産物なんだ。ある程度自分の意志は反映するが、完全じゃない」
 ユウスケは戸惑うように目をしばたたいた。「そうなんですか」
 「能力というのはどれもこれも、案外その程度のものかも知れんな」
 不意にどっと疲れが出たかのように、エイジは再び椅子に座った。長い嘆息をつく。ユウスケは立ち尽くしたままである。
 「四日前、公安が侵入した夜。君はヒロコと会ったな」
 ユウスケは顔を真っ赤にした。
 「責めているわけではない。そうじゃない・・・そうじゃないんだ」
 エイジは落ち着きなく再び立ち上がると、遥か彼方の地平線を見渡すようにして、ユウスケに背を向けた。
 「あの子は、君を愛している」
 ユウスケはひどくうろたえた。「リーダー」
 「君も、彼女を愛しているのだろう」
 「それは・・・」
 「あの子はいい子だ」
 そう言うエイジの表情は、背中を見せているためわからない。
 「人を愛せば、能力が衰える場合もある。変わらない場合もある。また別な場合もある。そのどれがあの子にとって幸せなのかは、わからん」
 声が急に厳しくなった。
 「わが組織内において、恋愛はご法度だ。わかってるな」
 ユウスケは思わずしゃちほこばった。「はい」
 「だが───人間の感情の自然な発露は、どんなに厳しい規則をもってしても抑制することはできない」
 ほとんど震えばかりに青ざめたユウスケの肩に、彼は手を置いた。彼の目は潤んでいた。
 「私のかつて犯した過ちを、君は聞き及んでいるだろう?」
 「・・・いえ」
 「そんなはずはない。密かに、しかし隅々まで噂になっているのは知っている」
 エイジは遠くの地平線を見つめた。険しかった彼の表情はふと、純真な子供のようにあどけない顔つきになった。まるで蘇る思い出に圧倒されたように。だがすぐさま、その顔は現在の地位に相応しいものに戻った。
 「雨女───サキコは、私の恋人だった」
 ユウスケは苦しい咳を呑み込むようにして答えた。「はい」
 「我々はお互いを不幸にした。もちろん、私の方が、彼女を、ずっと」
 圧倒する思い出に耐え忍ぶ間があった。
 「ずっとだ」
 ユウスケは何も言い返せなかった。噂は聞き知っていた。だがこのように本人から打ち明けられるのはもちろん初めてであった。彼にとってエイジは、常に強い意志と決断力と実力を兼ね備えた雲の上のような存在であったが、今目の前に立つ男は、脆く、あまりに人間的であった。ユウスケは、彼が本当に泣き出すのではないかと思った。
 しかし、エイジの顔に厳しさと冷静さが戻った。彼は両手でユウスケの肩を抑え、全身全霊でもって愛弟子を睨みつけた。
 「いいか。ユウスケ。責任を取れ最後までだ
 ユウスケは完全に混乱した。
 「リーダー、私は・・・」
 「もういい。行け」
 背を向けたエイジは、二度と振り向かなかった。ユウスケはその後姿を気にしながら逡巡していたが、唇を噛みしめ、決然とした顔つきになると、ドアを開けて出ていった。
 日は西の地平線に傾きつつあった。自分の創り出した広大な荒野の只中で、エイジは一人、いつまでもたたずんだ。

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