約束の日になった。 夕日の差し込まないひんやりとした貯水槽の物陰で、若い恋人たちは再会した。 二人とも待ちに待った日であった。早く会いたくて居ても立っても居られず、しかし同時に、その日が近づくことを何となく恐れもした。自分たちが何を語り合い、いったいどうなるのか、全く予測がつかなかった。 夕刻の五時を二十分前に到着したヒロコはじっと待っていられず、指と指を弄んだり、誰かに見つかりはしないかと辺りを伺ったり、ひょっとしてもうユウスケも来ていて、どこか互いに見つからないところにいるんじゃないかと、やっぱりあちこちをきょろきょろ覗いてみたりした。かと思うとしきりに髪を撫でつけたり、よくない結果を想像して独り勝手に落ち込んだりした。 五時を半時ほど過ぎたころ、ユウスケは息せき切ってやってきた。彼もまた、落ち着かず、焦り、上気していた。 二人は面と向かい合った。まるで、何のために今日を約束したのかお互い忘れたかのように、それはぎこちない対面であった。 「ごめん。遅くなってごめん」 「ううん。全然大丈夫」 さっきまで、もうユウスケは来ないものと諦め、このまま自殺しようかとまで考えていたことなどおくびにも出さずに、ヒロコは笑顔で答えた。 ユウスケは興奮していた。ぼさぼさ頭を掻きむしることで、その興奮を恥じた。 「寒い?」 「ううん。大丈夫」 「今日は・・・今日の課程は全部終わった?」 「うん」 「そう。疲れるよね」 「うん。でもだいぶ慣れたわ。ユウスケ君は?」 「え? 僕? 僕は、僕も今日はいろいろやることがあったなあ。そう。ええと、午後は精進湖まで偵察に出かけて・・・」 言いかけた彼の左手を、女が両手で握ってきた。男は言葉の続きを失った。 二人は互いに見つめ合った。なんて美しい人だろう、と、ユウスケはしみじみと見入った。顎の線も、鼻筋も、二重の目も、ユウスケに言わせれば、すべてがあまりに柔らかかった。この人が人を燃やすなんてとんでもない。自分こそ何かとんでもなく不遜なことをしようとしているのではないか、そもそもこんな自分にこの人を愛する資格なんて全くないのではないか、とまで彼は思った。 女は実に、美しかった。恋をして、美しさを急速に増していた。肌は燃えるように輝き、瞳は語り尽くせない愛を懸命に物語っていた。あとは口を開き、一言、心の内を伝えればすべてが済むはずだったのだが、それがどうしてもできなかった。どうしても、彼女は口に出すのを恐れた。 愛を告白した瞬間、この人は首を横に振る。そういう気がして仕方がなかった。何しろこの人は、AUSPの幹部で、優秀で、まじめで・・・それに───それに、自分はある種の畸形児で、ケダモノで、人殺しを二度もしてきた。そう。すでに二度も──── ───ヒロコは愛する男の目をじっと見つめたまま、嗚咽をこらえた。彼女は生まれて今日まで、一度も愛の告白をしたことがなかった。愛の始まり方すら知らなかった。涙が一筋、白い頬を伝った。それでも、胸の内を伝えることはできなかった。そこまでこの十六歳の乙女は、臆病になっていた。 女の涙に、男は思わず彼女の肩を抱いた。男もまた、どうしていいかまるで分らなかった。気が狂いそうであった。これだけ愛しているのに、心のどこかで、誰かが、この子を愛してはいけない、と囁き続けていた。燃え盛る気持ちとは裏腹に、そっと、いとしい妹を慰めるように、彼は彼女の肩を抱いた。 木立が無数の葉を揺する。貯水槽のどこからか、モーターのような機械音も聞こえる。 誰も二人に気付く者はいない。 二人は静かに唇を合わせた。どちらからともなく、愛のささやきを交わすこともなく。香水も化粧も禁じられた世界の中で、飾り気のない唇をただじっと合わせた。今はどちらにとっても、それが精一杯であった。 木の葉の擦れ合う音が一段と高くなり、二人は体を離した。 「逃げて。一緒に」 拒絶の言葉はない。 「一緒に逃げて。ねえ」 固唾をのむ音。 「わかった」 そのあっけない承諾の言葉に、ヒロコはもちろんのこと、ユウスケ自身が何より、驚いた。 彼の鼓動が高鳴る。責任を取れ。最後まで───幻想の崖の上で聞いたリーダーの言葉を、ここ数日間、彼は心の中で何度も反芻していた。自分がヒロコに対し、最後まで責任を取る。それは何を意味するのか。リーダーは、自分がヒロコと一緒に逃げることを暗に容認したのではないか? それとも、それは自分がそう思いたいだけなのか───。 女の方は感極まり、嗚咽しながら頭を寄せてきた。ユウスケは彼女の柔らかい髪を、片腕でそっと抱いた。 ───それとも。それとも、ヒロコが危険すぎる存在だから、最後はお前が責任をもって始末しろ、という意味なのか。そんなひどい任務を、リーダーは自分に託したのか。そんな、そんなこと、自分にできるわけがないのは明白なのに──────。 「逃げてくれるのね」 「うん。逃げよう」 「いつ?」 ユウスケは眩暈を覚えた。 「明後日。明後日だ」 「明後日」 「うん。明後日。僕自身が夕方の警備に巡回するときを狙う。だから、今日と同じ午後五時に、ここで。絶対に誰にも見つからないようにここに来て、それで、ここに隠れて待っていて。あ・・・でも、身の回り品を持ち出すのは諦めて。ごめん、それは諦めて欲しい。少しでも不審な行動をとらない方がいいから。ね。そうだ、服の中にパンを一切れでも忍ばせた方がいい。僕は・・・僕は、雑嚢に詰めるだけの食料と水を詰め込むよ。テレポートに成功しても、しばらくはどこかに潜伏しなきゃいけないかも知れないから。ああ!」 彼は突然興奮したように頭を掻きむしった。 「でも、ヒロコさん。僕は君をとっても危険な状態に追い込もうとしているよ。やっぱり無理だよ。どう考えてもそんなことできっこないよ!」 ヒロコは潤んだ眼をじっと彼に注いだ。「覚悟はしているわ」 「覚悟? 何の覚悟だと思ってるんだい? 僕らは、成功しても、失敗しても、とんでもない危険にさらされる選択をしようとしているんだよ。」 「危険なのは、私でしょ?」 ヒロコは涙ぐみながらユウスケにすがった。 「私がここにいると、ここのみんなに迷惑なんでしょ? 私、どこへ逃げても迷惑なんでしょ? わかってるわ。私、わかってるわ。だから私、行くところがないの。私、どうしていいかわからないの。死ぬのは平気だわ。いつだって死にたいと思ってるわ。でも、ユウスケ君と一緒にいたいの。ユウスケ君には迷惑だろうけど、でも、でも一緒に逃げて欲しいの」 ユウスケは胸が詰まった。呼吸するのも困難であった。悲壮な決意の滲む目で、彼はまじまじとヒロコを見つめ、力強く彼女の両腕を握った。 「逃げよう」 「うん」 「明後日午後五時に、ここで」 「うん」 「もう行くよ。君も戻った方がいい」 「うん」 「きっと・・・上手くいくよ」 若い男女は弾かれるように離れた。今にも見つかるのではという恐怖心があった。同時に、これ以上一緒に留まっていたら、お互いの理性が働かなくなり、何かとんでもないことになるのではという漠然とした不安もあった。 愛の言葉はやはり交わされないままだった。恋人同士を振舞うには、事態はあまりに緊迫していた。だが行く先に希望の扉が見えた。その扉の向こうに待っているのが、幸福か、あるいは、破滅かはいざ知らず。 二人は決行の日を心に強く留め、未練を振り切るように、別々の方向に走り去った。 当日。 雨上がりの夕刻は、夏の到来を告げるかのように鮮やかであった。 今回はヒロコが遅れてきた。彼女は全力疾走でぜいぜいと息を切らし、絶えず背後を気にし、おびえていた。 「私見つかったかもしれない! だって食堂の前でユメジさんに捕まって、話しかけられてあの人話が長いから、でもトイレに行くって言ってなんとかかわしたんだけど、でも、でも遠くからフミカさんが私の方をじっと見ていた気がするの! あの人私のことばっかり監視しているから! もう駄目、ここに来るの見つかってたらどうしよう!」 「落ち着いて。大丈夫だから。お願いだ、まず呼吸を整えて」 「ごめんなさい。あなたにまで迷惑がかかっちゃう」 ヒロコはすでに泣きそうであった。 「大丈夫だよ。僕を信じて。それより静かに。声を上げたらそれこそ見つかるよ」 ユウスケの心中では、ひょっと見つかっても、今のエイジなら見逃すのではないか、という気さえしていた。もちろん、憶測に過ぎない。リーダーが本心で何を考えているかわかったものではない。組織自体は、脱走を固く禁じている。見つからないに越したことはない。 彼らの背後にそびえ立つ白い建物は、不気味なまでに無言である。その三階部分に、夕日がほとんど真横から当たる。 ユウスケは雑嚢を背負い直した。 「さあ、行こう」 「ほんとにいいの?」 「さあ、こっちへ。静かに」 日の差し込まない、薄暗い森の中へ、二人は手を繋いで入り込んだ。とんでもないことをしようとしていることを、二人ともひしひしと実感していた。お互い一緒である幸せも感じたが、それ以上に、組織を抜ける後ろめたさと恐れがあった。 心の迷いを振り払うように、ユウスケは速足で歩きながらしゃべり続けた。 「大丈夫? 結構歩くからね・・・施設の近くでテレポートを使ったら、あちこちに設置されたPSI検知器に見つかってしまうんだ。だから・・・あ、棘に気をつけて・・・だから、五キロは離れたいんだ。きつくなったら言ってね」 「平気よ。警備の人たちはいないの?」 「彼らの巡回のコースは把握している。彼らに見つからない道を選んでるよ。まあ、要は、僕が今日巡回するはずだったコースだよ」 「あ!」 ヒロコは突然立ち止まった。 「どうした?」 「サキコさん」 谷一つ隔てた遠くの木立に、純白の服を着たサキコの姿が点のように見えた。表情はわからない。向こうもこちらを見ているようである。 今まさに逃げんとする若い二人と、ここに留まり、自ら老いることを選んだ女は、距離を隔ててしばし向き合った。 「サキコさんに、見つかっちゃった」 「・・・あの人なら、大丈夫だと思う」 「・・・そうね」 「行こう」 ヒロコは躊躇したが、サキコにぺこりと頭を下げ、立ち去った。ユウスケはじっと、リーダーの元恋人を見つめ、ヒロコの後に続いた。 サキコは佇んでいた。彼らから数百メートル隔たった森の中で、まるで最初からそこに見送りに来たかのように、静かに彼らを見送った。その口には微笑が浮かんでいたが、その眼はどこまでも哀しげであった。 どれほど歩いたろうか。 二人は熊笹の茂る林間を通り抜け、倒木を跨ぎ、地盤の緩い斜面を崩しながら降りて、小川のほとりに出た。ペットボトルの水を分け合い、さらに小川に沿って下った。途中、水芭蕉の白い花が慎ましく、可憐に咲き乱れていた。 自分たちは果たしてここを生きて出られるのだろうか。そんなことをぼんやりと考え始めていたヒロコは、汗だくの顔を拭って、思わず白い花に見とれた。 「もう少しだよ。もう少しで、テレポートしても安全な場所に出るよ」 先を促すユウスケも、相当汗を掻いていた。彼のリュックは小銃なども入っているのか、随分重たそうであった。 「もう少しね」 「もう少しだ」 日は沈みつつあった。すでに冷気が林間に浸透し始めていた。森は不思議なくらい静まり返っていた。鳥たちも、梢の上から、二人を冷たく見送っているかのようであった。 不意に木立がなくなり、開けた場所に出た。黄昏の流れ雲がたくさん空に見える。まるで昔ここがキャンプ場か、あるいはヘリポートだったかのように平らに草が生い茂っている。 「ここまで来たんだ」 ユウスケは歩を止め、深い吐息をついた。 ヒロコは崩れ落ちるように腰を下ろした。くたくたであった。 「ここはどこ?」 「施設から五キロほど離れた地点だよ。集落もあと十キロほど行ったところにある。ここなら、テレポートできる」 「どこへ行くの?」 二人は目を合わせた。どこへ、自分たちは向かおうとしているのか。自分たちは何をしようとしているのか。女は男を見上げ、男は女を見下ろした。施設から離れた、という安堵感が、お互いの心に感情を生んだ。本当に自分たち二人だけになったのだ。 冷ややかな風が二人の間を通り抜けた。 「そうだなあ・・・」 ヒロコの自分を見つめる視線に耐えきれなくなり、ユウスケは考えるふりをしながら目を前方に転じた。そのまま、彼の表情は凍り付いた。 「何?」 ヒロコも立ち上がり、前方を見た。二百メートルは離れているだろうか。そこには、草原と林を仕切る番人のように、四人の男の立ち姿があった。 驚きと恐怖の感情のすぐ後に、何とも形容しがたい気持ち悪さをヒロコは感じた。自分の理性と感情を何者かに乗っ取られるような、黒々とした粘着性の液体がどっぷりと自分の頭脳に注ぎ込まれるような、強烈な不快感があった。かつてエイジとの個人レッスンで受けた感じに似ていた。それよりもずっと強力だった。自分の意識を乗っ取られる、と頭の隅で理解したが、まだ訓練途上の彼女にはどうにも防ぎようがなかった。次の瞬間、まるで以前からずっとそうだったかのように、彼女は悪意に満ち満ちた人間として立っていた。隣で、ユウスケが叫んでいるのが聞こえた。 「ヒロコさん、駄目だよ、心を閉ざして! 奴ら磐誠会の連中だよ! 逃げるよ、ヒロコさん!」 <てれぽーとヲスルツモリカ。ソウハサセルカ> ヒロコは憎悪の目で隣の男を睨んだ。彼女は自分が強大な能力の持ち主であることを自覚した。ユウスケのオーラを防ぐことなど何でもなかった。 「ヒロコさん、止めてくれ! お願いだ、ヒロコさん!」 遠くに立つ、禿げ頭にざんばら髪の板井は、額に汗を掻き、舌なめずりしながら全意識をヒロコに集中していた。 「へへ、もうすぐやで。もうすぐや。ヒロコ、やったれ」 割れそうなほど頭が痛み、ヒロコは両手で頭を抱えた。目が血走り、吐き気がした。全て、隣のこの男が原因に違いなかった。 <コノ男ノセイダ。スベテコノ男ガ悪イノダ。死ンデ欲シイ。死ネ。死ンデシマエ> <駄目。燃やしちゃ駄目。私、何をしようとしてるの? やめて!> 悪意と対極にあるもう一つの感情が、心の奥隅で涙を流していた。しかし、それはあまりにおぼろげであり、巨大などす黒い感情を止めようもなかった。 死ネ! 「ヒロコさん!」 男の最後の叫びは、ほとんど声にならなかった。彼は巨大な火柱に包まれた。その炎を見て、ヒロコは我に返った。 「ユウスケ君!」 彼女が泣き叫んだ直後、ユウスケは炎ごと消えた。一瞬にして、まるで手品を見ているように、綺麗さっぱりといなくなってしまった。彼は最後の力で、自らをテレポートしたのだ。 焦げた髪の毛が一筋、ゆらりと落ちた。 先ほどまでの炎と熱気が嘘のように静まり返った草原で、ヒロコは自分がしでかしたことを狂おしく認識した。自分は、愛する男を燃やしたのだ。殺そうとして、燃やした。ヒロコは激しい後悔に胸が張り裂けそうであった。何てことをしたの。自分はなんてひどいことをしたの。ここまで連れて来てくれた彼を。優しい目をした大好きな彼を。自分が未熟なばかりに。心を乗っ取られて。心を───。 止めどなく涙を流す目で、彼女は草原の向こうに立つ人影を睨んだ。 <あいつらが、あいつらが私の心を乗っ取った> 板井たちはたじろいだ。遠く離れていても、ヒロコが自分たちを狙っていることは明白であった。板井は再びヒロコの心を制御しようと意識を集中した。しかし今度は、彼女は微動だにしなかった。 <お前らのせいで───私がユウスケ君を───ユウスケ君を───> 発狂して死んでしまうのではないかと、ヒロコは思った。いっそ死んでしまいたかった。しかし、彼らに対する激しい憎悪がすべての感情を圧倒した。 <死ね!> 激しい音と共に、四つの業火が日暮れの草原に立ち昇った。叫び声も折り重なった。彼女は、四人を同時に燃やしたのだ。そんなことができるとは彼女自身、考えたこともなかった。これだけ離れていてそれが可能だとも思っていなかった。明らかに、以前より強力な力を彼女は得ていた。だが今の彼女にとって、それが何であろう? 彼女は走り出した。髪を振り乱し、嗚咽し、涙を背後に散らしながら、草原を駆け抜けた。来た道を引き返すわけにはいかなかった。先へ進んでも何があるか全くわからなかった。崩れ落ちる四つの火柱の脇を過ぎるとき、肉体の焼け焦げる臭いが鼻を突いた。自分が燃やした人間の臭いであった。彼女は膝を落とし、地面に吐いた。吐きながら咳き込んだ。すぐに立ち上がり、転びそうになりながら、また駆け出した。身も心もボロボロであった。それでも彼女は、それが自分に対する唯一の救いの道であるかのように、暮れゆく森の中をどこまでもがむしゃらに走り続けた。 高瀬ヒロコは、こうして、人々の前から姿を消した。 第三話 その一へ homeへ Copyright (c). 2015 overthejigen.com |