永い夕暮れ

 



プロローグ


 長い夕方であった。街は永遠の記念碑か何かのように、くっきりと夕焼け色に染められた。

 黒づくめの男が新宿駅前のスクランブル交差点に現れた。黒いマスクから覗く目は、戸惑ったように眉間に寄っている。腕まくりしているので、日焼けしていない腕の白さが目立った。男は横断歩道の中ほどまで渡り、皮のボストンバッグを地面に置いた。ジッパーを開け、中からダガーナイフを取り出す。鋼鉄の刃先が煌めく。それを目撃した二十代女性の悲鳴が交差点に響き渡った。男は行動に出た。

 近くを通る五十代のサラリーマンにナイフが突き刺さった。もう一度、確かめるように深く。サラリーマンは断末魔の叫びを上げた。交差点は騒然となった。黒づくめの男は、最初に叫び声を上げた女性に追いつき、背中を切りつけた。もう一太刀浴びせようとしたが、女性は泣き叫びながら逃げきった。血塗られたナイフを振りかざし、男は別の群衆を追いかけた。瞬く間に三名の女性と一人の男性の鮮血をアスファルトにまき散らした。泣き声。怒号。駅の方から警官と若い男が駆け寄ってきた。黒づくめの男は駅とは反対方向に逃げようとしたが、そのとき、信号待ちをしていたグレーのセダンが青信号を待たずに急発進。段ボールに穴が開いたような音を立てて、黒づくめの男を轢いた。男は道路に頭を強く打ち、即死した。

 この間わずか二分強。

 クラクションが交差点に鳴り響いた。アスファルトに点々と広がる血は、落日よりも赤かった。




第一章


 二〇✥✥年九月二八日、午後四時過ぎの新宿無差別殺人事件。実行犯は二人を殺害し、四人に重軽傷を負わせ、自らは車にはねられて死亡した。実行犯の名は丸部修司。三十八歳。私の弟である。


 その事実を、私は、大学の研究室にかかってきた一本の電話から知った。

 じっとりと手に汗が染みる夕刻だった。キャンパスの森から響く蝉の大合唱が耳を突いた。

 「警察です」

 低く、引き伸ばしたような声。「あなたは、神奈川国際大学講師の、丸部究一さんですね」

 質問しているのではない。ただ知っているという事実を伝える口調である。

 私は背筋を伸ばした。「ええ」

 「丸部修司さんは、あなたの弟さんですね」

 それはずいぶん久しぶりに耳にする名前であった。

 私の脳裏に、まざまざと一つの顔が浮かび上がった。困ったように眉間に寄った目。巻き毛のかかる広い額。青白く窪んだ頬。何かの言葉を呑みこんで固く閉じられた薄い唇。蘇る記憶の中の弟は、いつも訴えかけるように、しかし何一つ返答を期待していないかのように、陰鬱にこちらを睨んでいた。

 白いプラスチック製の受話器を、私は壊さんばかりに握りしめた。回転椅子に背を沈める。蝉の声がうるさい。嫌な予感がした。

 「弟が、何か」

 警察は二時間前に起こった新宿駅前の一連の犯行と、その概要を伝えた。それは血の匂いに満ちたおぞましい内容のものであったが、彼の口調には感情がまったく籠ってなかった。まるで報告書の紙きれを一つ一つピンで刺し、私の体に留めていくように、警察官は淡々と語った。

 私は混乱した。受話器を片手に、もう片方の手で額の汗を拭った。

 天井近くに、脚の長い蜘蛛がいる。今まで気づかなかった。埃まみれで、じっと動かない。生きているのか死んでいるのかさえわからない。

 なぜ、私に電話が来たのだ? 

 当たり前のことである。私が彼の実兄だからだ。当たり前のことを私は疑問に思ったのだ。ポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して首筋を拭いながら、警察の話に耳を傾けた。用件を一通り聞き終えて電話を切ったあと、私は魂の抜けたように立ち上がり、また座りこんだ。なるほど、そうか。これで私は、殺人者の兄となったわけだ。これで今後死ぬまで、人殺しの親族というレッテルを背負って生きていくわけだ。警察は何て言ったっけ? そうだ、あと一時間後には、重要参考人として、警察署に出頭しなければいけない。

 不意にノックの音が響き、私は眼鏡がずり落ちるほど驚いた。警察が捕まえに来たのかと思ったのだ。重要参考人が逃げないよう、先回りして。

 しかし実際に「失礼します」と言って入ってきたのは、卒論を私が受け持つ女子学生だった。

 柏木玲。

 いつも淡い色の緩やかな服を着ている。ほとんど音を立てずに歩く。人懐っこい目つきが印象的な女の子だ。卒論を半分書いたところで行き詰っていますと、彼女は訴えた。行き詰るような論文を半分も書き上げてしまったのかと内心思ったが、それは口にしなかった。三冊ほどの参考文献を彼女に示し、ひょっとして今後は諸事情で君の面倒を見ることができなくなるかも知れないから、そうなったら常盤先生に相談に行くように。あの人は君の論文に近いことを研究されているから、と伝えた。

 「諸事情って、先生・・・・どうされたんですか?」

 「家庭の事情だよ」

 「先生、どこかお悪いんですか?」

 じろじろと覗きこんでくる柏木玲から顔を背けた。

 「そうかも知れない。ちょっと休むから、すまんがもう帰りなさい」

 私はぞんざいに手を振り上げて彼女を追い出した。


 閉まったドアを見つめたまま、どれだけじっとしていたかわからない。はっと我に返り、携帯電話を取り上げた。が、手が滑って落とした。握力が無い。手指に変な感覚があった。再び携帯を取り上げ、妻の電話番号に掛けた。夫婦として当然の義務だからだ。妻に知らせなければならない。真っ先に。しかし繋がらない。十コール待っても繋がらない。繋がらなくてほっとした自分が、そこにいた。電話を切り、疲れ切ったように椅子に身を沈めた。メールを送るという手段もあったが、止した。

 天井の蜘蛛を見上げた。そいつはまだそこに、埃まみれの長い脚を折り曲げ、じっとしている。次に私が取る行動を見張っているかのようである。

 私は再度、携帯電話を取り上げ、九州の実家に掛けた。

 「あ。お父さん?」

 「究一か」

 ぼそぼそとした声は、いつにも増して元気がない。

 「警察から、連絡は来た?」

 「ああ。馬鹿が。修司の馬鹿が。ほんと、あいつは、情けなか。ほんとどうしようもないことをしてくれた」

 「お母さんは?」

 「泣いとる。ずっと泣いとる。あの馬鹿息子が」

 そういう声も泣いていた。

 「あいつからの連絡は、何もなかったよね。その・・・昨日までに、ということだけど」

 「あるか。そんなもん。あったら、そんときに何とかして止めた。わからんが、何とかして止めた」

 私は首を横に振った。もちろん、父の主張するようなチャンスは万が一にもありえなかった。修司が実家に連絡を寄越すはずがない。仮に寄越したとしても、彼の決意を翻させる力は、両親にはない。もちろん、兄である自分にも。 

 我々はずっと、そういう家族であった。

 「俺、警察に呼ばれたから。これから、あいつの遺体の検分があるらしい」

 「そうか」

 「うん」

 「そうか。すまんな」

 「うん」

 私は携帯電話を切った。



 大学の裏手に『ホビオス』という名の古めかしい喫茶店がある。蔦が伸び、看板の文字は消えかけている。最近の学生はあまり行かない。もっぱら卒業生と教官の溜まり場になっている。常連の中で、私は若い方である。

 研究室を出た足で、私はそこに向かった。警察に行かなければいけないのに、逆方向に来たわけである。キャンパス内の木立に鳴り響く蝉の声があまりにうるさく、その上夕暮れ時の斜光があまりに強く、神経が揺さぶられたのだ。それに、ひどくのどが渇いた。

 客は、他に誰もいなかった。

 白い鼻ひげを蓄えた親父に差し出されたアイスコーヒーに、私はかなり長い間手を付けなかった。

 「どうしたんだい。今日は何だか変だよ」

 小さく頷き返した。それから氷の解けたアイスコーヒーを、喉の音を立てながら全部飲み干した。

 グラスを置き、私はようやく話を切り出した。

 「弟が殺人を犯したんだ」

 声が、自分のものではなかった。

 「何だって」

 「ニュースで観なかったかな。新宿の、通り魔事件だよ」

 「おいおい、無差別殺人のやつかい。おいおい。知ってるよ。ラジオで速報してたよ。え? どういうことだい。あれ、せんせの弟さんがやったのかい?」

 「どうも、そうらしい」

 白髭の親父は明らかに狼狽した。顔が真っ赤であった。

 「そうらしいって、おいおい、そりゃちょっと、大変なことじゃないかい」

 私は水を飲んだ。

 「せんせの弟さんって・・・・そんなことする弟さんだったのかい」

 私は顔を上げた。質問の意味がわからなかったのだ。

 「だから、何て言うかさあ、その、人殺しをするような弟さんだったのかい」

 「わからない」私は首を振った。何度も振った。本当にわからなかった。「人殺しをするなんて思わないよ。確かに、気性に激しいところはあったかな。幼い頃から。怒らせると怖かった。怒るとね、黙っているけど、じっとこちらを睨みながら、鉛筆を一本一本へし折っていくような奴なんだ。そういう奴なんだ。うまく説明できないけど。お互い、反りは合わなかった。私はどちらかというと、性格が大人しい方だったからね。いや。でも、小さい頃は仲良かった。うん。もともとは兄弟仲も良かったかも知れない。よく田んぼや用水路で、一緒に遊んだっけ・・・・だんだん、あいつが中学に入学して、私が高校生の頃かな、その辺りからだと思うけど、何考えてるか全くわかんなくなったんだ」

 親父は水を注いでくれた。

 「学校で暴れたりとか、問題を起こす子だったのかね」

 「いや、そんなことはない。そんな、暴れたりとかはなかった。いや・・・あったかな。一度。中学校の夏休み前だっけ。体育館のガラスを割った。偶然だったか、わざとだったか。そう言や、高校でも二、三度、喧嘩があったっけ・・・・。とにかくさ、本人は家でなんにもしゃべらないから。そういうやつなんだよ。兄なのに、あいつのことは何一つわからなかったんだ。仕方がない。性格なんだ。全く違ってたんだよ、私と弟は。あいつはどんどん、自分の殻に閉じこもっていったんだ」

 「またどうして」

 どうして? そういう性格だったと言ってるじゃないか。他に原因があると言いたいのか?────私は立ち上がった。

 「警察に行かなくちゃ」

 「ちょっとせんせ、あんた大丈夫かい?」

 小銭をカウンターに置いた。

 「え? 大丈夫。大丈夫だよ。そう・・・そうだね。バスじゃもう間に合わないから、タクシーにするよ。ごちそうさま」


 キャンパスを正門に向かって横切っていると、何人かの学生に遠くから声を掛けられた。西日を浴びた笑顔が輝き、みな元気がいい。大学講師陣の中で、私は比較的彼らの年齢に近いせいか、親しみを感じるらしい。私は小さく手を挙げて彼らに応えた。手を降ろし、彼らに背を向けながら、あと数時間もすれば、誰も私に向かって挨拶してこなくなるのだろうと想像した。


 宵闇がじわりと訪れる。

 動機。それが問題だ。タクシーの後部座席から街並みを眺める。何とか心を落ち着かせ、冷静に判断しなければならない。動機と、背景だ。なぜ、修司はこんなことをしてしまったのか。なぜ、無差別なのか。無差別? どういうことだ? ここ数年、あいつに何があったんだ────畜生!───私は自分の膝を鷲掴みにし、車窓を睨んだ────なぜ、よりによって、それが、俺の弟なんだ?

 不思議なことに、自分の知る修司の過去を辿ろうとすればするほど、何一つ思い出せないことに当惑させられた。最後に会ったのは何年前で、どこでなのか。思い出そうとすればするほど確信が持てなくなった。そんなはずはない。あれだけ長く幼少期を共に過ごしたのに、これでは全く赤の他人ではないか。

 街はラッシュを迎えていた。

 タクシーは思うように進まなかった。すべての車が邪魔に感じたが、逆にすべての車に守られている気もした。このまま永遠に警察署に着かなければいい。だが代わりに、どこへ行けばいいのかは、いくら考えてもわからなかった。


 警察署には七時過ぎに着いた。尿意を催したが、我慢した。

 署内は慌ただしかった。やたら職員にじろじろ見られた。私が無差別殺人犯の実兄だということが知れ渡っているのかも知れない。どこかにナイフを隠し持っているんじゃないか、と疑う目つきで睨んでくる警官もいた。みんなが私のことを怪しんでいる気がして仕方なかった。

 警察の車に乗せられ、大学病院に連れて行かれた。ゴシック建築を真似た、厳めしい造りの古い建物である。夏なのに建物の中はひんやりしている。靴音がよく響いた。薄暗い階段を下り、地下の遺体安置室に案内された。

 身元確認が必要なのだ。

 入室する前に指示を受け、私はハンカチで鼻を覆った。私は覚悟した。これは────これは、親族としての義務である。血を分けた兄弟としての、最低限の義務なんだと自分に言い聞かせた。

 私は弟と対面した。

 もちろん、弟は死んでいた。激しく死んでいた。車に轢かれ、アスファルトで頭をかち割り、血だらけとなった状態で。血糊の跡は汚らしかった。

 しかし予期に反して、それは穏やかな顔つきであった。そのことに動揺した。なぜ何人も殺しておいて穏やかな顔つきでいられるんだ? 後頭部から出た血が髪をごわごわに固め、顔にもこびり付いていたが、目を閉じて口をわずかに開いた表情は、幼い頃の寝顔そっくりであった。ユーモラスですらあった。そう言えば、幼い頃は可愛いかったことを思い起こした。

 「弟さんに間違いないですか」

 付き添ってきた刑事が背後から私に確認した。いつの間にこんな背後に迫っていたのか。どっしりとした体格をしている。茶のトレンチコートを羽織り、左眼の周りに痣。大学に電話してきた声と同じである。

 「ええ。私の弟です」

 「ありがとうございます。では、いろいろお聞きしたいことがありますので、別室にご案内します」

 ありがとうございますだと?

 私は空咳をした。

 「すみません、トイレをお借りしていいですか」


 通された個室は狭く感じられた。中央に置かれた大きな机のせいか。椅子が対面で三脚ずつ。いわゆる取調室なのだろうか。雑音がなく、居心地が悪かった。一刻も早く帰りたかった。もう義務は十分に果たしたはずだ。男が三人、私と対面で腰かけた。私から見て左端は痩せて小柄な警官服姿の男。書記らしく、ノートとペンを持っている。真ん中はトレンチコートを脱いで白シャツ姿になった、目に痣のある刑事(名を大崎と言った)。右端は上司らしきスーツ姿の、白髪で長身の男。

 私一人の調書を取るのに三人必要とは、とても思えない。

 大崎刑事が、テーブルの上で太い手を組み、前のめりになってじっと私を見据えてきた。

 「わざわざお越しいただき済みません」

 「いいえ」

 「ご足労いただいた用件は、電話でお話した通りです。犯行につきましては、多数の目撃者がありますし、その中には交番付きの警官も一人含まれます。よって、弟さんの手によることは明らかです。被害者たちは誰も、弟さんとの接点がありません。我々は、不特定多数を狙った無差別殺人と睨んでいます。問題はもちろん」

 テーブルの上の太い手が擦り合わされた。

 「動機と、背景です。どうして被疑者はそのような行動に出たのか。その背景には何があったのか。何しろ無差別殺人です。二名の命が奪われ、四名の命が危険にさらされた。何が、彼をそうさせたか。ご親族として、少しでも参考になることをお話いただけたら、と思いまして」

 私は自分用に供された湯呑みを見つめた。濁った茶が入っている。

 「確か・・・・大学でのご専門は、社会学だとか」

 そう語り続ける刑事の左目の痣は、怪我か病気の跡か、黒々としている。歌舞伎の隈取のようでもある。その眼がにやりと笑った。

 「社会学的見地というやつから、参考になるお話をいろいろお聞かせいただければ、と思いましてね」

 私は再び湯呑みを見つめた。意識をはっきりさせなければいけない。ひどく喉が渇いていたが、どうしてもその濁った茶を飲む気になれなかった。自分は侮辱されたのだろうかと考えた。犯罪者の血縁として、それも当然の仕打ちか。

 「私は集団心理を主に研究しています。個人の特異な心理はわかりません」

 「でも、ご親族でいらっしゃる」

 「弟は高校一年生の時、学校を中退し、家を出ました。私はその一年前に、大学進学で家を出ています。私と弟は四歳年が違います。彼のことで、お話できることは限られています」

 「限られていても結構。ええ、限られていても結構です。弟さんが家を出た理由、それが何だったのか、おわかりですか」

 私は自分が苛々しているのを感じた。

 「だからその時、私は家にいなかったので、よくわかりません。親とのいさかいが原因だと聞いています」

 「ご両親は熊本で」

 「ええ。二人とも健在です。今回のことは、相当ショックだったようですが」

 「ふむ。親とのいさかいが原因で家を出た、とおっしゃいましたが、そこですな。果たしてどんなことでご両親といさかいになったのか、その辺り、ご存じですか」

 私はテーブルの角に拳を立てた。冷たいテーブルだった。私は拳を下した。

 「わかりません」

 「本当ですか」

 「わかりません。申し訳ありませんが。私は家にいなかったのです。わかりません。両親からも、詳しいことは聞いていません」

 刑事は困った顔つきになり、太い指で額の皺を撫でた。何度も。見ていて不快だった。

 「今回の容疑者の動機について、何か心当たりは」

 「ありません」

 「ありませんか・・・でもね、何か、社会に対する怨恨とか、人生に対する不満とかですな、容疑者の弟さんがあなたに漏らしていたってことはないですか」

 「ありません。そもそも、もう十年も、弟とは口を利いていないんです」

 「正月とか、里帰りでご一緒になったことは」

 咽喉の痛みを覚え、咳払いをした。

 「弟は家を出て以来、ほとんど家に寄りついていません。叔父が亡くなった時の葬儀とか、私の結婚式くらいしか。申し訳ないですが、あいつのことは、わかりません」

 「申し訳ない」刑事は私の言葉を反芻した。「申し訳ない。ふむ」

 一瞬、憎悪に近いものを感じた。修司が本当に殺したかったのは、こういう輩ではなかったのか。だがもちろん、責められるべきは、警察ではなく、実の弟の犯行を止められなかった無力な兄の方である。

 私は頭を下げた。

 「弟が、大変なご迷惑をかけたことに関しては、大変、申し訳なく思っています」

 大崎刑事は乗り出していた身を退いた。小柄な警察官は手帳にメモを取り続けているし、白髪の男はじっと私を見据えたまま一言もしゃべらない。誰も、私の言葉を文字通りに受け入れるつもりがないのがよくわかった。

 大崎刑事は再び身を乗り出した。

 「ともかく、人の命が複数奪われていますんでね。大事件ですよ、これは。命は取りとめたものの、一生の傷を負った人も多数いる。我々警察としては、容疑者の動機を何としてでも知りたいわけです。そうしなきゃ、犠牲者の霊も浮かばれません。そうでしょう? だが容疑者が亡くなってしまい、捜査は困難を極めておるわけです。あなたにとっては実の弟さんに当たる人だ。無論のこと、お亡くなりになったのはショックでありましょう。当然、そうでしょう。だが、法治国家日本として、犯罪者は正しく裁かれなければならん。そのため我々警察は、あるがままの真実を、何としてでも、突き留めなければならん。おわかりいただけますね。罪を負うべきは、もちろん、亡くなった弟さんであって、あなたではない。あなたが罪を問われることはまったく───おそらく、まったくありません。だからですな、ぜひ、容疑者の過去を知るご親族として、最大限の情報提供をよろしくお願いしたいところなのです」

 彼らのお辞儀に合わせて、私も再び頭を下げた。不意に咽喉の痛みがどうしようもなくなり、今まで手を付けなかった湯呑みに手を伸ばし、一口だけ舐めた。

 想像していた臭い匂いはしなかった。臭い匂いがすると思いこんでいたのだ。

 何の香りもない茶だった。

 顔を上げると、まだ何か探り出せるものがあるかのように、三人の顔がじっとこちらを伺っていた。



 ほてったような蒸し暑い夜が訪れた。

 私の住むマンションは、品川の閑静な住宅街にある。三歳年下の妻と来年小学校に上がる娘一人の三人家族である。家具はすべて妻の趣味で揃えた。濃いブラウンを基調としたナチュラルな色合い。私の服もそうだ。学者らしい、渋めの、スタイリッシュなデザイン。雑誌から切り抜いたような、シックでお洒落な一家。それが自慢だった。それだけで、残りの人生を過ごしていけると思っていた。

 熱風が吹き抜け、一瞬にして、すべては廃墟にされた────

 そんな光景が、肉眼で見える気がした。

 妻と娘は寄り添って台所に立ち、帰宅する私を迎え入れた。私はくたくただったが、二人も、まるで無人島に漂着した母と子であった。私の帰宅を待ちわび、同時に、私を警戒していた。

 「あなた、修司さんが」

 声が震えている。ひどく神経を苛立たせているのがわかる。

 「うん」

 私は娘を気遣った。彼女の目の高さまでしゃがみ、彼女の頭を撫でた。ぽっちゃりした頬が、今夜はことさら膨らんで見える。「暁美、恐い思いをさせたかな」

 娘は母親の服の裾を引っ張り、もう片方の手の指を口に入れたまま首を横に振った。普段からあまり感情を出さない子である。何となく、私の手から逃れようとしているように感じた。

 妻は娘を自分の方に引き寄せた。

 妻を見た。艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、形の良い頬と高い鼻を持っている。興奮すると、その頬と鼻が赤く染まる。

 「電話やインターホンがひっきりなしに鳴るもんだから、怯えちゃって。入ってくるとき、マスコミが凄かったでしょ。あたし、電話線も外したし、インターホンの電源も切ったわ」

 「うん。ひどいな。ひどい。自分のマンションに入るのに、道を塞がれたのは初めてだよ」

 夫婦の会話なのに、お互い違う方向に向かって語りかけているような気分だった。

 「ねえ。あたしたちどうなるの」

 私はネクタイを引き千切るように外し、椅子に座りこんだ。

 娘が恐る恐る近づく。下唇を噛み、上目遣いに私を見上げる。

 「お父さんも逮捕されるの」

 一瞬迷った末、私は娘の小さな両肩に手を置いた。今度は逆らおうとしなかった。

 「馬鹿だな。そんなことはないよ。お父さんは何も悪いことしていない。安心しなさい。逮捕なんてことはない・・・・だが・・・・そうだな・・・・迷惑はかけるかも知れない」

 私は何をしゃべっているのだ?


 壁時計は八時を回っている。

 妻は娘を自室へ退きさがらせた。私は妻と差し向かいで食卓のテーブルに座った。

 ダイニングルームは、建物の外に集結したマスコミや野次馬たちの喧騒を完全に遮断して、まるで監獄のように静かである。

 テーブルの上には何もない。警察の取調を受けたときにはあった濁ったお茶すら、ここにはない。家庭のテーブルには普段から、必要なものしか並ばない。日常を送るために必要な食事と、日常を送るために必要な情報。妻は必要な情報を私から得ようと身を乗り出している。私はどちらかと言うと、何か全く違うものを欲している。

 「これからどうするの」

 「どうするもこうするもない。俺たちがやったことじゃないんだ」

 「でも・・・・周りの人からは言われるわ。凶悪犯の親族だって」

 妻はしきりに爪をいじった。

 「暁美は来年小学校だし・・・・学校でいじめられるかも知れないわ。こんなの隠しても絶対隠しきれないもの・・・・噂なんてすぐに広がるし。私だって、もう仕事を続けられないかも・・・・お友達にも、当分連絡できないわ」

 私は妻を見た。

 「どうしろと言うんだ」

 妻の顔が紅潮した。彼女と付き合い始めた若い頃の顔つきを、なぜだか思い出した。彼女の声は上ずっていた。「あたしが聞きたいのよ。あたしが知りたいの。こんなことになって、これから、あたしたちどうやって暮らしていけばいいの」

 私は立ち上がった。流しに行き、グラスに水道水を注ぎ入れる。テーブルの席に戻り、一口飲んだ。「君も飲むかい?」と妻に聞いた。彼女は小さく首を振った。

 「修司さんって、どういう弟さんだったの」

 私は目を細めた。

 弟がどういう人間だったか、私は思い出そうとした。

 子供部屋。実家の二階にある、天井が低くて窓の小さな部屋。私が十五になるまで、兄弟一緒にそこを使用していた。あるとき我々兄弟はひどい口論をした。私が何かで修司を咎め、その言い方に修司が腹を立てた。確かそのような原因だった。カッとなった修司は、顔を真っ赤にして立ち上がり、錯乱状態に陥った。部屋には大きな本棚があり、地球儀やプラモデルなどが飾られていたが、彼はそこから本でも置物でも手に取るものを私に向かって投げつけ始めた。本気だった。私は驚き、ベッドの枕を盾に防戦した。当たれば大けがをする危険があった。ひどく怖かった。飛来物を防ぎながら何度も修司をなだめたが、彼は耳を傾けようとしなかった。ほとんど空になった本棚を彼は引き倒した。それでも私は、親を呼ばなかった。大声で親を呼べば、そのときの危機的状況から救われるのがわかっていたのに、そのときの私はなぜかそれをするのをためらった。弟を力づくでねじ伏せる気も起らなかった。四歳の年の差から言えば力で負けるとも思えなかったが、彼の常軌を逸した狂気の責任を、自分のせいだと感じていた。

 私はただただ、枕を盾に彼から逃れ続けた。

 あれから程なくして、弟は一階に移された。われわれ兄弟は別々の部屋を持つことになったのである。

 「知らん。弟のことはわからんよ。あいつは・・・そうだな。俺のことが嫌いだったと思うよ」

 「ええ。聞いたことあるわ」

 「俺はどちらかと言うと、親の言うなりに勉強して、大人しくてさ。まあ、周りからは褒められるタイプの子だったからね。弟は全然勉強しなかったし、問題行動ばかり起こしていた。俺は、そんなあいつの自由奔放さが羨ましかった。あいつはそんなこと信じないだろうがね。一度・・・・いつだったっけな・・・・あいつが親にこっぴどく叱られたことがあった。ちょっとしたことだよ。何か、危ないから止めろと言われたのに止めなかったとか、そういう類のことだ。調子に乗るとどうにも止められないところがあったんだ・・・。普段温厚な親父も、そのときは烈火のごとく怒った。お前は駄目だみたいなことを言った。あいつはそれから、人が変わったように、内にこもるようになった。うん。兄である俺に対してもね。何だか知らないけど、俺を恨んでいた。結構深く恨んでいたよ。あいつが本当に殺したかったのは、ひょっとして、俺かも知れない」

 「まさか」

 妻は引き攣ったように笑った。

 私はグラスを握りしめて立ち上がった。

 「殺されたも同じだよ」

 飲み残しの水を流しにぶちまけた。



✥    ✥    ✥



 弟は、犯行に使用したダガーナイフを、ネット通販で購入していた。当日着用した黒い服もそうである。犯行の一週間前にコンビニバイトを辞め、犯行当時は無職。ズボンのポケットに入っていた財布の中身は、2357円。

 すべて、テレビのワイドショーなどから得た情報である。






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